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妊娠中に読んでいた本 S・キング『IT』、よしもとばなな『イルカ』、瀧波ユカリ『はるまき日記』

スティーヴン・キング作品では子どもがよく死ぬ。死ななくてもひどい目に遭う。読んだことがない人にキング作品の特徴をきかれたらまずその点を伝えるくらい、「子どもが死ぬ」印象が強い。物語に過酷な運命が登場するとき、子どもたちもその過酷さからは目こぼしされない。大人と同じように状況に立ち向かわされる。
それこそがキング作品の素晴らしいところだと個人的には思っているのだが(登場人物それぞれの立ち向かい方で魅せてくれるところが)、『IT』では特に子どもが大勢死ぬ。何百人も死ぬ。全編通してもっとかも。みんな怪物に恐怖を味わわされた挙句に殺されて喰われる。あるいは親に殺される。むごい。

その『IT』を妊娠中、夢中になって読んでいた。文庫本にして4冊にもわたる長編だから、読み進めるあいだにお腹がどんどん大きくなっていった。

個人的な妊娠の体験について話をさせてほしい。
わたしにとって妊娠中とはとても奇怪な期間だった。わたしの中でどんどん育っていく胎児に対して頼もしく思う気持ちや愛着が日に日につのっていく一方で、自分の身体が自分のものでなくなっていくような、もんやりとした恐怖も同時に感じていた。その恐怖はわたしの内側からも、外側からも、ゆっくりと覆いかぶさってくるようだった。

妊娠が目に見えてわかるくらいになってから、職場や公共の場で人がわたしに接するときの感じがずいぶん変わった。それはそうだろうと今では思う。でもはじめて妊婦になったわたしは、周囲の反応にけっこう戸惑っていた。

仕事先で会う出産経験のある女性たちは、わたしが妊娠したことを知るとなんだか戦友のようにねぎらってくれた。自分たち側の人間として激励してくれた。桃とかむいて食べさせてくれた。それはとても頼もしく、嬉しい体験であると同時に、こそばゆくて逃げ出したくなるような体験でもあった。まだ何も成し遂げていないわたしにそんなにやさしくしないで、と顔を覆ってしまいたかった。その衝動をおさえてただニヤニヤと桃を食べていた。
近い将来自分が(十中八九)直面することになる出産という一大事を、我がこととして捉えることがどうしてもできなかった。その時点でまだ産んでいないわけだから、当たり前といえば当たり前のことなんだけど。

親としてのわたしの意識はまだそういう段階にあった。にもかかわらず、男性からは「母という生き物」としての扱いを受けることが目立って増えた。
胎児を体内に抱えてはいても、わたし自身は妊娠前と変わらぬひとりの人間である。ただちょっと身体が重くて疲れやすいだけの個人である。体内では別の生命が育ちつつあるが、育てているのはわたしの身体に備わった機能がわりと自動的にやっている事業であって、わたしが何かをせっせとがんばっている結果とかではない。むしろ「妊娠」って事業は始まると、こちらから介入とかほとんどできないんだよね。わたしが現場なんだけどね。
だからわたしはその時点で特に何もしていない人であるんだけど、そういうただのわたしに、よく知らない男性から「表情がやわらかくなったね」「母の顔になったね」「やっぱり母は強しだなあ」などの言葉が投げかけられる。
とくに変わりません。化粧がうすくなっただけです。などと言ってみても聞き入れてはもらえない。「うん、やっぱり母性っていうのはすごいなあ」なんて勝手に満足して去っていく。
この人たちにとってわたしはいなくなった存在みたいだった。もはやわたしは消え、「母という生き物」がその目に映っているようなのだった。母なるもの。

まだ母でもなく、母性が何かもわからないわたしに向けられる、そういう暴力的なまなざし(と感じていた)に、傷ついていたし、戸惑っていたし、何より激怒していた。だから『IT』に手が伸びたのだと思う。反逆の読書として。

つまり、「あなたら部外者が勝手に私を母的なものと位置づけて、子どもを包みこむふわふわしたやさしげなイメージを押し付けてくるのなら、わたしはその目の前で、この本を熟読してやる。子どもたちが無残に殺されまくる町の話だぞ、コノヤロー」ということ。

あと、もともと好きなダークファンタジーを変わらず楽しめる自分に安心したかったというのもある。ようはわたし自身おびえていたのだ。母性とかいう正体不明のもやもやに取り込まれていってしまうのかもしれない、自分の身の上に。
事実、わたしは妊娠してから急にそれまで見向きもしてこなかったパステルカラーの服や小物が素敵に思えて買ったりしていた。絵の趣味も尖ったものから淡い色遣いのものにシフトしたし、食べつけなかったスイーツにも目がなくなっていた。
それは別に母性のはたらきなんかではなく、単に妊娠したことによるホルモンバランスの変化とかで脳にもたらされたものなんだろうけど、だからこそっていうか、そういうのってすごく怖いことだと思う。自分の意志でないものに自分の趣味嗜好が左右されてしまうのかもしれないということ。ホルモンとか伝達物質とかよくわからないものひとつで自分の中の何かが塗り替えられてしまうこと。ほんとうは脳なんてそんなもので、ちっぽけな物質や信号ひとつでいくらでもはたらきを変えるものなのかもしれない。多分そうなんだろう。でも人は、自分の考えは自分の意志で築かれたものだと思いたいし、自分が好きになったものは自分の意志で選び取ったものだと思いたいものじゃないのかな。わたしはそうだ。
だからもともと自分で好きになったはずの「スティーヴン・キングによる子どもが死ぬ系の話」を読んで、やっぱ最高だなって思えるわたしを確認したかった。安心したかった。

妊婦のややこしい心情に突き動かされて手にとった『IT』だったが、『IT』は傑作だから、もちろん最高だなって思うことになった。想定していた最高を遥かに超えて最高だなって思った。よかった。わたしは『IT』によって無事に妊婦の複雑な心を救われた。

救われただけじゃなく、これから親になる者として重要な心構えをこの物語から受け取ることにもなった。
子どもにとって親はときに怪物であるということ。親こそが怪物であるということ。痛烈なメッセージ。わたしはそれを胸に刻んだ。その点でも読んでよかった。活かせるかどうかはともかくとして。

『IT』は子どもがたくさん死ぬと言ったけれど、もちろんそれだけじゃない。子どもが死ぬから最高なわけでもない。子どもが立ち向かう話だから最高だ。

物語の舞台はアメリカのメイン州にあるデリーという町(実在はしない)。デリーはとても厄介な町だ。子どもの行方不明者数・死亡者数がほかの地域とくらべて桁違いに多いんだけど、原因は不明だし、土地の大人たちは奇妙なほどそのことを気にかけていないように見えるし……と、ここをきいて「杜王町じゃん」と思った方とは是非お酒を酌み交わしたいです。お茶でも。

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荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 22」(集英社文庫)243ページ


デリーにおける黒幕は古来よりその地に棲みついている怪物(イット)で、こいつが子どもたちを殺して喰べている。この怪物にとっては子どもの恐怖がいちばんの栄養となるので、子どもたちは極限の恐怖を味わわされて殺される。イットは標的がいちばん恐れているものの姿をとることができるのだ。ミイラ男、怪鳥、ヒル、何でもござれだ。その力を使って大人も喰うには喰うけど、大人の恐怖はあんまり腹にたまらないんだって。
ターゲットにされるのが子どもなら、怪物の存在に気づいて対抗することができるのもやはり子どもだ。7人のデリーの子どもたち(みんな10歳そこら)が結束してイットに立ち向かうんだけど、7人はいじめられっ子だったり、親との関係に難があったり、人種差別を受けていたりと、それぞれに問題を抱えている。傷を抱えている。
この自称「はみだしもの」の少年少女たちが知恵と勇気と友情で強大な敵に立ち向かっていく姿はシンプルに最高で、週刊少年ジャンプの王道的な感じが好きな人とか、ばっちり楽しめると思う(もしかしてわたしのジャンプのイメージ古い??)。
「MOTHER2」「グーニーズ」とか好きな人にもハマると思うし、「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズが好きな人にもやっぱり読んでみてほしい。『IT』に限らずキング作品の根底に流れているのって、「ジョジョ」シリーズと同じく、いつも人間賛歌だと思うから。
同じスティーヴン・キング作品なら『スタンド・バイ・ミー』にすごく通じるものがある。『IT』は『スタンド・バイ・ミー』をもっとダークにして、もっともっと長くした感じ。って言うとかなりしっくりくる。

映画も最高だったよね。(完結版はまだ観てない)

妊娠中に読んだ小説で『IT』のほかに思い出すのは、よしもとばななの『イルカ』だ。

せっかく妊娠している今のうちに妊娠・出産を扱った作品も読んでおくかと思いたって『イルカ』を買った。まだつわりがあって、文字列がうまく頭に入ってこない時期だった。ところが『イルカ』はあっという間に読み終わってしまった。あっけないくらいだった。1日で読み終わったんじゃなかったかな。他の本では唸りながら活字を消化していくような感じだったから、本当に驚いた。無理しなくても読めるのが。でもそういえばそうだった、よしもとばなな久しぶりだったから忘れていたけどよしもとばななの文章はポカリ並の浸透圧で体に入ってくるんだった。と思い出した。あの、思考を経由しないで文が入ってくる感じ、すごいと思う。あまりにもスルスル入ってくるから同じようにスルスル出て行っちゃって何も残らないと思いきや、意外な描写があとあとまで心に残っていたりするのも不思議。濾したあとの砂金みたいに心に残ったそういう断片が、うすく積もってわたしの一部になってくれている感じ。よしもとばなな作品のそういうところが好きだ。

妊娠中はつわりがあってもなくても、どうも活字がそれまでみたいに入ってこなくなってしまった、という人は多いと思う。複数の妊娠経験のある人たちから同様の悩みを聞いた。あれはなんなんだろう。本を読むことを楽しんで生きてきた人には辛い現象だ。
そんなとき、もしかしたら、よしもとばななの文章を試しに読んでみるのはありかもしれない。ポカリ飲む感じで。

エッセイでは瀧波ユカリ『はるまき日記』を読んだ。

こちらは再読だった。
わたしは瀧波ユカリさんの「臨死!江古田ちゃん」の大ファンだったので、このエッセイも発売された時期に買って読んでいた。2012年頃だったかな。その当時、わたしは妊娠・出産について自分ごととして考えたことがなかったけれど、それでも『はるまき日記』は面白く読めた。繰り返し読んだ記憶があるから、相当はまったのだろう。この本には、赤子と暮らしたことのない人間にも「なんかよくわからないけど素敵なんだな、赤ちゃんのいる暮らしって!」と思わせてくれる力があった。大変な面も書かれているのだが、それに狼狽したり、面白がったりしながら親をやっている瀧波ユカリさんと夫のスタンスに、ああ、こういう感じいいな。ていうか、こういう感じでいいのか。親。そりゃそうか。と肩の力が抜けたところがあった。
同時に、親というものを勝手に神聖視してしまっていた自分にも思い至った。理想の親像みたいなものをいつの間にか持っていたらしい。親こうあるべきとか、こうでなければ失格とか、当事者が生きづらくなるような固定概念の形成には、たぶんわたしも寄与していたのだ。恥ずかしかった。
『はるまき日記』に書かれている瀧波ユカリさんと夫とはるまきさんの暮らしぶりは、わたしが抱いていたような固定概念からさらっと脱出したものだった。それが小気味よかった。心強かった。
今思えば、わたしが妊娠・出産に対して前向きな気持ちを持つことになったはじめのきっかけはこの本だったかもしれない。

5年ぶりくらいに、今度は出産を数ヶ月後に控えた状態で『はるまき日記』を読んでみると、また違う角度から面白かった。乳児のはるまきさんの暮らしぶりをじっくり読んで、これから訪れる赤子との暮らしを脳内でシミュレーションすることができた。「ふうん、赤ちゃんの便って液状なんだ! しかもおもしろい色してるのか!」など、前もって想像するのも楽しかった。

そして出産を経て、実際に赤子と暮らすようになってからも『はるまき日記』は重宝することになった。この本に生活情報を求めて何度もページをめくった。赤子のいる生活で役立ったグッズのことなどがそこここに書かれてあるので、いくつか真似して買った。助けられた。

もう、何度もおいしい本だった。妊娠・出産がわたしからかけ離れているときには「育児エンタメ本」として笑わせてくれたし、妊娠中には「赤ちゃんがいる暮らしってこんな感じだよ」の一例を見せてくれ、産後にはりっぱな「実用書」になった。
子どもと暮らす人も、その予定がある人も、ない人も、どこかしらの角度で楽しめるはず。そういう本だ。


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