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愛己主義

愛の表現は惜みなく与えるだろう。然し愛の本体は惜みなく奪うものだ。

有島武郎『惜しみなく愛は奪う』第16章より

自分を愛せない人が、自分以外を愛す行為に熱中する。そこに生きがいを見出そうとするのは、よく耳にする話だ。

何かを愛すると、自分は費やされる。
愛す行為に没頭し、時間を費やす。お金を費やす。感情を費やす。大袈裟に言うと、我々は愛するものに命を費やしている。
しかしそれでもなお、愛がその人を幸福にするのは何故か。それは、我々は愛によって、命を費やす以上に、多くのものを受け取っているからだ。

そんなことは昔から、歌・映画・詩・小説・絵画などで散々語られてきた。

愛は人間特有の心の動きだ。複雑で、一言では表現し難い。人の数だけ愛のカタチがある。だからこそ、多くの芸術家がその本質を探り、表現しようとしてきたのだ。

色々なきっかけがあり、最近私も、「愛するとは」について真剣に考え始めた。決して答えがある問ではない。しかし、何かひとつ、自分が納得出来る指針を見つけたかった。

というのは、私が得る喜び、そして私が抱える苦しみのほとんどがこの「愛」によって生み出されているのではないかと思い始めたからだ。

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今回の記事は有島武郎の著書『惜しみなく愛は奪う』を参考に構成されています。色々考えた中で、この思想が今の私に一番しっくりくる愛の捉え方だと思いました。

最終的な結論もこの著書に基づいているのですが、今回の試みとして、大正9年に書かれたこの本の思想を、現代の愛の形と絡めながら論じていきたいと思います。

愛に興味がある方、特に愛に苦しさを感じている方に、是非読んでいただけたら嬉しいです。

共感出来るか出来ないか大きく分かれそうな考え方ですが、こういうのもあるよー、という引き出しになれば。

愛は私を拡張する

早速だが、愛によって我々は具体的に何を得ているだろうか。

何かしらの行為を愛する場合はわかりやすい。それを行うことが、自らのスキルを直接高めることに繋がる。

料理を作る行為を愛する人は、より早く、美味しい料理が作れるように、あるいは未知の料理が作れるように、探求するだろう。

食べる行為を愛する人は、食に興味を持っていない人に比べ、味に対して敏感なはずだ。また、自分が食べたいものを探す、美味しいものを探すスキルも自ずと身についているだろう。

私は文章力を向上させるために試行錯誤した記憶はあまり無いが、昔の文章と今の文章を比較してみると少しずつ成長しているのを感じる。続ける中で自ずと、どうしたらより良くなるか考えていたのだと思う。

こうして今まで書き続けてこられた理由は、やはり、執筆する行為それ自体を、愛していたからなのだ。

一方で。


その愛の対象が、行為ではなく具体的な存在になった時
例えば、アイドルを愛する。飼い犬を愛する。恋人を愛する。

愛するという点で前者と変わらないのに、我々はつい「与える愛」を思い浮かべてしまう。

愛するアイドルの1番になりたいから、沢山のグッズを買う。仕事を休んでライブに駆けつける。

愛する飼い犬の為、快適な環境を準備する、ご飯を与える、病院に連れていく。もしピンチが訪れれば、自分の命を投げ出してでも助け出すという人も少なくないだろう。
これは飼い犬に限らず、恋人や我が子に対しても言える。

上記のような行為は一見、愛するもののために自分を犠牲にしているかのように捉えられる。
しかし、そうではない。

『心を奪われる』という表現があるが、実際は逆だ。愛するとは、我々の心が相手を奪おうとするはたらきだ。

愛するものが痛みを感じている時、私はその痛みがまるで自分の痛みかのように涙を流すだろう。愛するものが喜ぶ時、自分の事のように嬉しくなるはずだ。それはまさに、私の心が相手の感情を奪い、自分のものにしている証拠である。

わかりやすさを重視するため『与える』の対義語である『奪う』を用いたが、奪われた相手がそれで何かを失う訳では無い。同時に、相手が何か与えようとしている訳でもない。愛するという行為は、一方的に成立する。

愛する、愛されることによって、そこに生じる出来事、感情は、2倍に増幅されるのだ。

私が小鳥を愛すれば愛するほど、小鳥はより多く私そのものである。私にとっては小鳥はもう私以外の存在ではない。小鳥ではない。小鳥は私だ。私が小鳥を活きるのだ。

前掲 第16章より

愛するものに心を傾けることで、我々は何を得ているのか。

まさしく、
愛する対象、そのものを得ているのだ。


誰しも、欲しくてもどうしても手に入れられないものがある。
自分では気づいていなくても、本能の奥深くで、常に足りないものを求めている。
そういう時に、自分が欲しかったそれを持つ者を愛することで、我々は自己を拡張し、なりたい自分へと近づいていくのかもしれない。

アイドルは我々一般人が到底手の届かない高みに存在しているが、彼ら、彼女らを本気で愛し応援し、時間を共有することで、さも同じ高みに居るかのような景色、感情を得ることが出来るだろう。その成長を見て、まるで自分自身が成長したかのように嬉しくなったりしないだろうか。

これはわかりやすい例だが、もっと身近なところでの愛を考えるとどうか。
それこそ、育てているサボテンを愛する、飼い犬を愛する、友人を愛する。
自分に手の届かない高みをではなく、このように、身近に溢れている日常を愛するパターンの方が多い。

相手がすごく遠い存在でも、身近な存在でも、思考が似ていても、違っていても、相手が感じる喜び、悲しみ、苦しみ、言葉で表現しきれない様々な感情、出来事を共に味わう。

それだけでも、我々は十分に得て、理想に近づいているのだ。

自分は「愛なんて持っていない」と思っている人も、何かしらを愛している。
すくなくとも「自分は愛なんて持っていない」という思想を愛している。

人間は、愛さずには生活できない生き物であり、愛によって形成されていく生き物なのだと思う。

愛す苦しみ、愛される苦しみ

前に述べたように、成就した愛は我々に大きな喜びをもたらす。一方で皮肉なことに、人間の苦しみの多くも、愛によって引き起こされる。

愛の苦しみは主に人間同士で起こりやすい。

人間が人間以外を愛する場合、そこには意思疎通の壁が当たり前に存在している。
我々もそれがわかっているから、相手が何を欲しているのか、何を考えているのか、自分の都合よく想像する余地がある。また、相手に愛されなくても仕方ないと諦める余裕がある。

しかし人間同士の場合、あまりにも感情の機微が直接的に伝わってしまう。そこには想像の余地がない。殆どが相手に委ねられる。その不安定さが、様々な苦しみを生み出す。

愛することの出来ない苦しみ

愛の苦痛の中で一番多いのがこれかもしれない。自分は相手を愛しているのに、相手がそれを望んでいなかった場合だ。

今でこそSNSがあるが、どこかの組織で出会った場合を除けば、相手が望まない限り会うこともコミュニケーションを取ることもままならないし、自分の欲望に足る愛を存分に相手に浴びせることは、大抵の場合困難である。

相手が愛されることを望んでいなくても、一方的に愛することは可能だ。ただそれが相手の不快に繋がっているなら、そうしないのが懸命だろう。

愛されることは難しいが、愛すこともまた、生易しいものでは無いのだ。

愛するものが見つからない人々に比べれば、それが見つかっただけまだ幸福者だったと思える。
愛することが叶わず悩んでいる人は、既に持っている愛を振り返ってみてほしい。(人に対する愛だけではなく、日常的に手に入れている愛。)
すると、自分が案外多くを手に入れていることに驚くと思う。

それを深めていっても良い。

フィクションだった

貴方が愛した人が実は現実世界に存在しなかったら、どうしますか?

愛する相手に幻想を抱き、自分の頭の中でイメージをふくらませるが、実際の姿とのギャップに気づいた時に、失望してしまう。

私はこれを何度も経験し、その度に失望を覚え、人間に抱いていた幻想を少しづつ捨てていった。
しかし、きっと存在しないのだと気づいても諦めきれないことがいくつかあり、未だにそれを探している。

断っておくが、これは私自身が勝手に想像して勝手に現実に打ちのめされているだけで、相手がなにか悪いことをしている訳では無い。(相手が故意に偽っている場合などは論外)

自らの渇望を癒そうとする我々は、愛する相手が、より自分の必要な形に合致するように、勝手に理想像を投影する。

大事なのは、それが幻想だと気づいてしまった時にどうするかだ。

①愛せないのでさようなら
②自分の理想とは違っても、相手を愛そうと努力する
③知ってしまったとしても見ないふりをして、自分の理想に相手を当てはめる

主にこの三択だろう。
どれが良い、どれが間違っている、ということは無い。自分が後悔しないようにするのだ。

私は③を選択することが多い。目を瞑り、見たくないものは見ず、相手を愛することに徹底する。せっかく得たものを手放したくないので。しかしこれは相当上手く自分を騙し続けられない限り破滅に向かうので気をつけよう。

私自身は、愛したものが現実でも、非現実でも、構わないと思っている。

非現実だからといって落ち込む必要は無い。何故なら、それはまさしく貴方の中に存在していたのだから。そして、貴方に少なからず影響を与えている。現実の貴方に影響を与えてるのだから、存在しないとは言いきれないだろう。(という無理矢理論)

そしてこういうことを考える度に、やはり愛は相手のことを知らずとも成立してしまう、非常に一方的な行為だなと思ったりもする。

愛したいのか愛されたいのか

時々「私は貴方の事をこんなに愛しているのにあなたはどうして愛してくれないの」と揉めている人間達を見る。

多分彼らは愛を「与える行為」だと思っていて、私はあんなに与えているのにあなたが与えてくれないのは不公平だ、と思っているのだろう。

私からすると何を言っているんだろうという感じである。「愛する」その行為だけで我々はもう受け取っている。なのでどちらかというと「愛させてくれてありがとう」なのである。
そもそも愛することすら叶わない人もいる。

確かに、相手に愛されることでより多くを受け取れると思うが、それは決して「相手を愛しているから相手も自分を愛すべきだ」という義務には発展しない。むしろ義務から愛の真似事を始めても、本当に心の内から求める愛に比べれば、得るものには天地の差がある。

相手が愛してくれないことに我慢できないのであれば、私は「私を愛する貴方」を愛していたのであって、貴方自身を愛していたのではないのかもしれない。

まず自分が本当に愛しているのは何か、求めているのは何なのか、それを考え直すべきだ。

愛されているからと言って義務的に相手を愛する必要は無い。しかし、愛されることによって貴方が何か得たなら、それを相手に伝えてみると良い。

そうして相互に関わり合うことで、一方的な愛には無い、思いもよらない愛の喜びが得られるだろう。

最後に。

思い返せば、愛に突き動かされた結果、私という人物は構成されてきた。

愛する人が「字が綺麗な人が好き」と言っていたので、ペン習字を練習した。紹介してくれた曲を好きになり、いつしかそれが自分の好みとなり今も聴き続けている。
敬愛する漫画の主人公に近づくため、とりあえず口調を真似してみたり、彼ならどうするか考えて行動してみたり。

そして、何より。書くことを愛しているから、こうやって今もnoteを書いている。

上記は良い例だが、私は同時に愛の暴走による数々の失敗も引き起こしてきた。

愛するものに夢中になるあまり我を忘れて行動してしまったことは何回もある。
しかしその度に人生の大きな転機を迎えているので、起こるべきして起こった出来事だと信じて、後悔はしないことにします。

私は愛しながら、色々なものを奪い取りながら、日々、自分の理想の自分へと近づいている。

愛したものがいつか自分の中に染み入って、そんな自分自身のことを一番に愛せるようになったらいいなと思う。

もし今回の文章を読んで、このような「与える愛ではなく奪う愛」についてより深く知りたいと思った人がいたならば、今回何度か引用させてもらった、有島武郎の『愛は惜しみなく奪う』17章以降をぜひ読んでみてほしい。

無料で読めます。下に青空文庫のリンクを張っておきます。


ここまで読んでくださった猛者たち、ありがとうございます。
今回私はこの文章を書いて、自分の愛し方、愛の受け取り方について深く考えてみるキッカケになりました。
皆さんもそうだったら嬉しいです。



皆さんのこれからの人生が愛に溢れ、充実したものになりますように。


それでは、またどこかでお会いしましょう!

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