論語と禅に学ぶ自分と現実の受け入れかた
周囲に求められることが自分のやりたいことと違ったら。
現状に満足できないなら。
自分を貫き理想を追い求めること、現実を受け入れ自分を変えていくこと、どちらが正解なのだろうか。
年齢、立場が許すなら、自分を貫いても良いと思う。むしろ、若いうちはある程度は自分本意な方が良いこともある。
社会の厳しさと戦い、その中で自分と社会をすり合わせて、ちょうどよくなっていく。
それはそれで大変だが、あとから振り返ると面白かったり、良い思い出になったりもする。自分のオリジナリティというものを知らないうちに持てていたりもする。
一方、ある程度の年齢だったり、中堅、ベテランくらいになってからは現状を受け入れることも大切になってくるだろう。
思うように仕事で出世できないというのは、実力がそこまで伴っていないという客観的な評価かもしれない。
あるいは、期待されている仕事が自分の希望と違うという時も、それが向いているという周囲の評価かもしれないし、使ってもらえるだけでもありがたいと考えることもできる。
自分のことは自分が一番よく知っているが、知らないことも沢山ある。
周囲の人がいて初めて気がつく自分もあるのだ。
だが、人は熱い気持ちを持っていることに対しては盲目的になり、なかなか客観的に自分のことを見れなかったりもする。
そんなときにこういった周囲の評価、反応は的を得ていることもある。
孔子の論語にこんな言葉がある。
評価されない、認められないということを心配する前に、自分にその実力があるのかということを心配しろということ。
周りに評価されないと気に病む必要はないということを教えてくれる。
こういった言葉を胸においておくと、周囲の評価など気にせず
「認めてもらえる場で頑張ればいいさ」
「今いる場所で頑張ればいいさ」
そう割り切って目の前のことに取り組むことも悪くないと思えるのではないか。
誰でも生きて、日々何かに取り組む。
「ここにいる」
「この瞬間を生きる」
それだけでも尊いことなのだ。
今回はここまで。
またお会いしましょう。