春のランニング
春始まりの夜にランニングをしていて
ああ、わたしは春が好きだと思った。
夏の匂いが少し混ざって水分を多く含んだ夜風や
日々色づいていく花の木がある景色。
そして、こうやって走っていて、やっぱり春が好きだと気づく。
私のランニングコースは、家から市役所通りを通って町のパン工場の外周を折り返して家に戻る。
パン工場は、夜にフル稼働するらしく
春の夜風に紛れてパンを焼く甘く香ばしい匂いが運ばれてくる。
パンの匂いは人を幸せにすると思う。
市役所通りを走ってるので車通りは多い。
私は昔の恋人と同じ車をみるたびに運転手を確認してしまう。
もちろん本人が運転しているなんてことはないのだが。
そもそも、白のファミリータイプのバンなんてたくさん通り過ぎる。
いちいち確認してしまう自分がとんでもなくお馬鹿に思える。
パン工場を折り返し、県道沿いを走っていくと左手にがらんとした小さな町が見える。
私が5年前に卒業した教習所。
まだ時間は19時過ぎたところだったけど、今日は教習所がお休みなのか、いつも所内をただただぐるぐると走りまわっている車たちもそれぞれの定位置に収まっていて、しんとしている、まるでゴーストタウンのようだ。
ここの車たちや教官たちは毎日毎日同じルート、コースを走って退屈しないのだろうか。
もっと先に行きたいと思わないのだろうか。
市外に飛び出してそのまま海までまっすぐ、とか。
まあ、それが仕事なのだから仕方のないことだけど
私だったら、海まで出たいと思うだろう。
私はいつも海が見たいと思う。
教習所の外周を回ることにしてフェンス沿いに曲がった先で
女の子が1人でいた。
ロングヘアの黒髪で色白、身長は160センチほどですらっとしていた。
高校か中学かわからないけれど、きちんと正しく制服を着ていた。
膝の半分くらいまでの白いソックスを履いて立ち尽くしたまま泣いていた、と思う。
彼女は私に気がつくと、そのまま反対方向へ走っていった。
そして去り際に、教習所内になにかを放り投げていた。
何かは放物線を描いて所内に飛び込み
こつんとちいさなちいさな音を立てたような気がした。(私は音楽を聴いていたので聞こえなかった)
女の子がいなくなったその教習所フェンスの横で私は立ち止まる、
ランニングアプリと音楽を消して教習所の方を見る。
辺りは薄暗く、市役所通りとは反対側なので車通りが少ない。
そして、私の今日のウェアの色は闇に溶ける黒色だった。
教習所は低いフェンスを越えるとすんなりと中に入れた。
じっと私を見つめるように駐車している教習車たち、擬似的に作られた横断歩道や標識、色のない信号機。
縁石の内側は綺麗に雑草が整えられていた。
女の子が投げたものは案外近くに見つかった。
それは小さなゴールドの指輪だった。
ジルコニアと思うキラキラした石が一粒ついた華奢なデザインの指輪。
おそらくサイズは5号ほど。
その指輪を眺めながら、あの子の恋愛について考える。
恋人と別れたのだろうか、この指輪は誕生日かクリスマスあるいは記念日に彼にもらった大事なものだったのだろうか。
もしかして彼はかなり年上の男の人だったのかもしれない、あの子は妙に色っぽかった。
ふと思い返してこの指輪を,取りに戻るかもしれない、いや、そんなことはしないか、なんて。
それでも、ここは教習所で、この指輪を踏んで構内事故でもあったら、大変なので私は指輪と一緒にフェンスの外にでた。
あまり中に長居し続けて大事になるのも困る。
幸運なことに、この間ここを車が通ることはなかった。
正規の道路に出て少し進むとお地蔵さんがあり、そこにすずらんの花が礼儀正しく咲いていた。
お地蔵さんに手を合わせ、すずらんの横に指輪を隠した。
あの子が幸せになりますように。
ランニングアプリと音楽をつけて私は家までまた走り始めた。
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