【連載小説】トリプルムーン 20/39
赤い月、青い月、緑の月
それぞれの月が浮かぶ異なる世界を、
真っ直ぐな足取りで彷徨い続けている。
世界の仕組みを何も知らない無垢な俺は、
真実を知る彼女の気持ちに、
少しでも辿り着くことが出来るのだろうか?
青春文学パラレルストーリー「トリプルムーン」全39話
1話~31話・・・無料
32話~39話・・・各話100円
マガジン・・・(32話掲載以降:600円)
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***第20話***
猫には猫の通り道というものがある。それは往々にして狭くて暗くて人目に付きにくいような道だ。
多分に漏れずこの黒猫も、いかにも猫が好きそうな狭い道を選んで歩き始めた。それはさながら猫の細道とでもいった道程で、木々の隙間や植込みの合間などを縫うように進む道なき道だった。
もちろん俺はそんな狭い隙間は通れないので、植込みをまたいだり、木立を回り込むようにしながら、なんとか黒猫の後を追いかけていった。
黒猫の丸い尻を追いかけながら、公園の奥へ奥へと進んで行くと、そこには大きな樹木に囲まれた池があった。
それは澄んだ水がたっぷりと蓄えられた、鏡のように美しい池だった。水面にはところどころに蓮の葉が浮かび、その上をモンシロ蝶がひらひらと舞っていた。
蓮の葉の上で優雅に羽を休めている蝶もいる。まるで天国の入口とはこういう所で、ここで人間たちは手や口を洗って穢れをすすぐのですよ、と言わんばかりの神々しさがそこにはあった。
「なんだかファンタジックで素敵なところだな。お前、お礼にこの場所を紹介してくれたのか?だとしたら、まあ、なんだか悪くないぜ、うん。むしろ逆に、っていう感じさえするかもな。」
俺がそう言って黒猫に対して上からの満足気な感想を言うと、黒猫は相変わらず俺を差し置いて、ピチャピチャと池の水を飲み始めた。
「きれいな池の水はさぞ美味しいでしょうね。」
嫌味な言葉を投げかけてはみたものの、その言葉は当然のように無視された。どこかから風が流れてくると、雲間から淡い陽光が差し込み、池の水がキラキラと輝きだした。
その輝きは白く揺らめきながら澄んだ水面に映えている。この場で少年たちが讃美歌を歌いはじめたら、間違って天使が沐浴をしに舞い降りてくるかもしれない。ある意味では、そんな美しすぎるがゆえの危うささえ放っていた。
光は水面をのたうち回る生き物のようにも見えた。意思を持ち、エネルギーを持ち、時間軸と流動性を兼ね備えた、まったく新しい種の生物。
鏡のように美しい池は、光の正体を少しだけ俺に垣間見せてくれているようでもあった。
幻想的なその空気に煽られるように、俺はおもむろに池の中を覗き込んだ。そこには、空が映り雲が映り、そしていつもよりも精悍で逞しい顔の俺が映っていた。
間違って飛び込んだら、金の俺と銀の俺を差し出した女神が現れてくるのかもしれない。見れば見るほどその池には現実離れした何かが映り込んでいるように思えた。
少し目線を上げると、そこには月も映りこんでいた。その月も、いつもよりも精悍で逞しく美しい雰囲気を携えているように見えた。
「月もこの池に放り込んだら、きっと金の月と銀の月を抱えた女神が出てくるんだろうな。」
そう言った瞬間、俺の体はカチリと凍り付き、息が止まってまったく身動きが取れなくなってしまった。
まるでメデューサに見つめられてカチコチの石にされてしまったかのように、一瞬ではあるが完全に体の動きが止まってしまった。
目は開いたまま、口も開いたまま、ただ何とか息をしようと俺はその場に立ち尽くした。冷たい脂汗が首筋をぬるりと伝い、指先はぴくぴくと痙攣している。
しばらくすると次第にその発作のような現象はおさまっていき、なんとか息が出来るようになってきた。ゆっくりと身体も動かせるようになってきたが、俺は訳が分からずその場にへたり込んでしまった。
「な、なんだ、ふう、今のは。何か危険なところに足を踏み入れてしまったような、危ない感覚だったな、ふう。」
俺は静かに呼吸を整えながら、首筋に流れた気持ちの悪い汗を拭った。黒猫は心配そうに俺を見上げ、みゃあみゃあと鳴いて俺の身体を前足でつんと触れてきた。
「ああ、すまない、大丈夫だよ。大丈夫。ありがとな。」
心配してくれた礼を言うと、俺は黒猫の小さい頭を優しく撫でてやった。頭を撫でてやると、黒猫は思いのほか嬉しそうな顔をしてごろごろと喉を鳴らした。
何気なく空を見上げると、東の方にうっすらと月が昇ってきていた。そういえば池にもあの月が映り込んでいたな、と俺はぼんやりと先ほどの光景を振り返った。
さっき池に映った月は、なぜかいつもとは全く別物のように見えた。俺はそのことについて少し思案しようとした。しかし、同時にあいつとの約束の時間が迫っていることに気が付いた。
「いけないいけない、あんまりのんびりしてる場合じゃないな。」
身体にはまだ少し麻痺が残っているが、俺は立ち上がってズボンに付いた草や土を払った。
黒猫は名残惜しそうにこちらを見上げた。俺は黒猫に向かって簡単な別れを告げると、緑の公園をあとにしながら夕暮れに染まりはじめる街に向かって歩き出した。
夕暮れは誰も気付かないうちに人々の影を踏み始め、青い空に嫉妬するかのようにオレンジ色の大きな炎で空を燃やし始めていた。
世界を昼から夜へと移し替えようとする巨大なうねりは、茜色の光となって街へ降り注ぎ、漂う空気の表情を隅から隅へと黄昏に塗り替えていった。
抗うことの出来ない世界の境目で、俺は重い身体を引きずりながら、暮れなずむ夕闇の中へと溶けて行った。
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