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家系図の企画展に行って来た話

皆さま今日は

雨音村雲ことエリカです。

この間私は愛知県一宮市にある一宮市尾西歴史民俗資料館家系図の企画展を観覧して来ました♪

実はわたくし、古代や中世の研究の一環副業として家系図作成・名字調査事業もしているのですが、

今回は面白い企画展があるなぁと思い出掛けた次第でした。

近世・近代に作られた系図ってどこまで系譜を遡るの?

ところで皆さまは江戸時代から明治時代に作られた系図と言うとどこまで遡れる=大体何時代ぐらいまでの先祖が書かれていると思いますか?

その直前の戦国時代から安土桃山時代でしょうか?

それとももっと遡って鎌倉・室町?

...

正確な統計をわたくしもまだとった訳ではないのですが、この企画展のテーマであった美濃路の宿場街にあたる一宮市の起宿(おこしじゅく)の本陣や庄屋クラス、つまり有力町人・農民クラスでも「平安時代までそのルーツを遡らせる系図がある」事が多く、場合によっては「古代の天皇や神々まで遡る」事もままあると言うのが推論です。

では何故そうなるのでしょう?

例えば、この企画展の展示物である「林家」を例に挙げますと、

「織田信長」の重臣であった「林秀貞」の同族を自称しています。

そして「林秀貞や稲葉正成」「尾張林氏」伊予(愛媛県)の河野水軍を有する「河野氏」(こうのし)の庶流が尾張にまで流れたものとします。

「河野氏」は平安時代末期の源平合戦から南北朝時代に活躍した一族なのでここでもう関ヶ原の戦いを起点にしても450年以上は遡ります。

更に「河野氏」は本姓「越智宿禰」(をちのすくね)を名乗ります。今の愛媛県今治市国分あたりの「越智郡・越智郷」の郡司級の豪族で、8世紀の律令制では既にこの地名や氏族名が見えます。

更に遡り『先代旧事本紀』には物部氏の一族であった小市連(をちのむらじ)が当地に住み、小市国造(をちのくにのみやつこ)となって小国を率いたのが最初、とされます。

この時点で古墳時代〜奈良時代です。

さらに欠史八代の天皇や上記の豪族の祖先神まで書き連ねる系図もあります。

もちろんその中には仮冒(かぼう/有名な実在氏族の系譜を盗用・作為して自系図に繋げる行為。乱暴に言えばパクリ)も多いでしょう。

ですが何故ここまで遡る事が出来るのか、遡る必要があるのか?と言う事が大事なのです。

系図を遡らせるのは政治的意図のため

例えば、戦国末期〜江戸時代には大名になった丹羽氏蜂須賀氏もともと小規模国人領主なみの家柄の彼らでさえ、実は祖父以前の系譜が怪しい部分が多いのです。

例えば丹羽氏平安時代から鎌倉時代に活躍した武蔵国児玉党の庶流が尾張にまで流れ着いた、とされますが実際は丹羽郡(今の愛知県犬山市や一宮市の一部)の古代豪族である丹羽臣(にはのおみ)氏の一族ではないかとされますし、

蜂須賀氏に至っては、足利氏の一族で尾張守であった斯波氏の庶流を名乗りますが、実際は江南市から一宮市あたりの軍需輸送に関わった豪族の血筋ではないかと推定されています。

では何故、別の、つまり現代歴史学が一次史料や郷土史料から調査した推定史実に基づいた系譜でなく、仮冒した系譜の方が使用されたか...

それは「政治的意図」が大きな理由です。

確かに推定史実の方の系譜でも実は平安時代や奈良時代まで遡れる一族も結構います。

ですがこの時代、寺社と強固に結びついた、例えば熱田神宮宮司の「千秋氏」(せんしゅうし)津島神社土倉の「堀田氏」(ほった/ほりたし)など以外は、

寺社や古代の氏族との結びつきだけでは箔が足りないのです。

熱田は今川と織田の貿易ルートの拠点にありますし
津島は織田弾正家の貿易拠点です。

ですが丹羽や蜂須賀のルーツや拠点にあたる丹羽郡や中島郡、海部郡は...

と言うと寧ろ元々の尾張国主であった斯波家の失墜や、守護代である織田大和守家と織田伊勢守家の内乱で、どこに権威が集中しているか分かりにくい状態になっています。

ここで信長がまず南部の四郡を治め、そして尾張全体を治める訳ですが、

ここで「小規模国人の出身だよ」などと言っても箔はつきません。

むしろ「で、オマエは余に従うのか?オマエの領民やこの土地は?まさか旧来の木っ端が歴史を盾に土一揆を起こさぬよな?」と思われるのがオチ。

では「織田譜代の家臣で越前からついて来たよ!」なんて大法螺のゴマスリは可能でしょうか。

それも無理です。すぐにバレる嘘ですし対外的にも不自然でしかありません。

では最適解は...と言うと「前国主の斯波家の分家のケチな者でして...」とか「大昔にやってまいりまして元々は坂東のちゃんとした武士でこの一帯を任されておりました」と言うものです。

これなら⑴家柄が保証され、さらに⑵土地支配の正当権が単なる寺社利権だけでなく、国司や郡司、武士階級との繋がりがある、ちゃんと兵力で守って来た側であると言う担保ができます。

こうする事で新任の支配者である織田(守護代)にスジを通せる訳ですね。なんだかヤクザの仁義みたいですが、こう言った続柄をちゃんと示す事で、無闇な小競り合いを小さくする効果もあります。

この仮冒が行われたのは江戸時代・戦国時代だけではない

この仮冒が行われたのは実は社会が安定して系譜を作る余裕ができた江戸時代や動乱期の戦国〜安土桃山時代だけではありません。

実はこの手の仮冒は社会が揺籃期を迎え、権力の中枢が動きつつある時にずっと行われて来ました。

詳細は、桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』などに詳しいですが、

わたくし流の表現をすると現代的に言えばM&A業務提携に似た手法なのです。

例えば奈良〜平安時代の例を説明すると...

白鳳時代、律令(明文法)が定められるとこれまでの特権階級である皇族や中央豪族は奴婢(奴隷)や部民(特別雇用のエンジニア)を軽々しく所有できなくなります。土地や身分もそうで、国有地になったり、新規開拓地は許可が必要になったり、いつまでも皇族や中央豪族では居られなくなる。

となると官僚(国家公務員)になれない、非エリートと化した皇族や中央豪族は地方に価値を見出す必要ができます。またエリートの中にも地方の支配権の旨みを見出し、国司や郡司(知事や市長)のポストが欲しくなる層が出来ます。

一方で律令国(地方)、こちらも以前の様に地方ならではのゆるい権力構造や古墳や水路を介した周縁的な勢力図では居られなくなります。街道(高速道路)が整備され、驛(駅)が置かれ、条里制(区画整理)がされる。

当然ムラも郷や郡と言った地方行政団体に吸収されますから、一族からそう言った場所の政治的ポストを担う人材キチンと出さなければなりません。

しかし一方で、法律が定められ、中央から知事が来ると言う事は、そちらと求めるポストがかち合ってしまう訳ですね。

では中央は地方を力で押さえつけるのか...?これは無理です。中国の例えば漢や唐の様に皇帝が禁軍を持ち物量作戦で地方を圧倒できるわけではありません。地方と軋轢を産めばその地域が紛争の火種になるのが普通。

では一方で地方が中央の勢力を追い出せるのか。これも無理です。そうすれば単立で中央政府と交渉せざるを得なくなり、また法律や国の政策にも違反する。

ではどうするかと言うと、互いに通婚したり、郎党となって名義貸しをし合う、のです。

例えば熱田神宮宮司の千秋家の場合であると、次代が女系になってしまいそうだから、藤原氏から婿を迎える...

と。

こうすれば国造尾張氏依頼の「地元の名家」としての体裁も、摂関藤原氏の「中央のエリート」としての体裁もハイブリッドに担える訳ですね。

さらに武士化して源氏に嫁を嫁がせ、源頼朝や足利義兼の親戚になり、織田にも仕える事で盤石の家となる。

こう言う生存戦略の一部として家のルーツ、系譜、由緒がきと言うものは使われて来たんですね。

いかがでしたでしょうか。若干走り書きではありますが、系譜学などの説明をしてまいりました。

またこれからも系図や由緒書きの調べ方や作り方についてもnoteを執筆していきますね!

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