思考の癖
私には逃げ癖がある。
何か人間関係がこじれそうになった時、すぐに自分が謝ることで解決しようとする。
聞こえはいいが、言ってみればそれは問題に対する根本解決からの逃走である。
私にはなぜそのような思考の癖があるのか。
少し考えればわかるほどその答えは明白であった。
私には、人と話し合って問題を解決させたという成功体験が少ないのである。
話し合いというと恋人や友人、仕事関係をイメージする人も多いかもしれないが、私のそれは親子関係に紐づく。
考えてみればコミュニケーションとは交渉であり、その交渉に伴う合意、決裂、譲歩の連続である。
幼少期から連続してコミュニケーションという交渉が決裂し続けると、自分の意見を発信することに対する恐れ、諦めの気持ちへと繋がっていく。
そして、それは徐々に自分の存在そのものに対する肯定、容認の気持ちの根底を揺るがすものになっていく。
そうして俗にいう「自己肯定感の低い」自分が出来上がっていく。
自己肯定、自己容認の有無についてはよくコップとそこに入った水に例えられる。
普通の人は自己肯定感のコップに水が溜まっている。水が溜まっているということは、『自己への攻撃など、自己肯定感が傷つくような出来事』=『自己肯定感のコップから水が漏れてしまうイベント』に多少は耐えることができる、ということである。
しかし、自己肯定感のコップに水が溜まってない人は、『自己への攻撃など、自己肯定感が傷つくような出来事』=『自己肯定感のコップから水が漏れてしまうイベント』に耐えることができない。耐えられるだけのあらかじめストックされた自己肯定感が無いからであり、逃避の行動は自分を守る必死の行動なのである。
それゆえ、逃避することそれ自体を責める必要はない。
とはいえ、逃避ばかりを繰り返していると根本から問題を解決できる力が育たないため、やはりどこかで正面から問題にぶつかっていける自分を作り上げていく必要がある。
…自己肯定、自己容認の低さについての解決策を模索していると、「自分で頑張っていこう、信じられるのは自分だけ」という結論にいつも行きついてしまう。他の人が無条件で獲得しているものを努力して得ていこうと提案するのはなんとも理不尽だ。
ぶつけどころのない怒りと悲しみを抱えながら、今日も暗中模索する日々である。
HSPさんたちが双方向のコミュニケーションができる場所づくりの資金と、記事を書きながら飲むコーヒー代になります。