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『存在しない女たち』:“客観”や“常識”とされているものに潜むバイアス

男女格差の問題について、自分はそれなりに知っているつもりでいた。日本がジェンダー・ギャップ指数120位なのはよく騒がれているし、政治や経済などのエライ人たちが集まる場面が高齢男性だらけなのは見飽きた光景だし、男女の賃金格差や家事・育児分担割合がエグい状態なのは統計にはっきり出ているし、医学部入試の女子一律減点なども記憶に新しいし、選択的夫婦別姓制度もなかなか進展しない。でも課題は山積みとはいえ、可視化されてるわけで、前の世代よりは少しずつでも確実に進んでいる。そう思ってた。

なので、知識のおさらいと補強をしようというくらいの気持ちで手に取った、キャロライン・クリアド=ペレス『存在しない女たち 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』(神崎朗子訳/河出書房新社)だが、とんでもなかった。圧倒的な物量と迫力でデータが積み上げられていき、今まで思いもつかなかった観点も提示され、自分の中にもバイアスがびしばしに埋め込まれていた事実に気づかされた。ていうか、この世に生きていてバイアスから完全に自由な人間なんていないのかも。

この本、男女格差の問題を考えるにはもちろんだけど、自分自身のものの見方や考え方に揺さぶりをかけるという意味で、どんな属性かにかかわらず、あらゆる人が読んだほうがいいんじゃないか。

気づかれずにきた女性の不利益

本書では第1部「日常生活」、第2部「職場」、第3部「設計デザイン」、第4部「医療」、第5部「市民生活」、第6部「災害が起こったとき」と、あらゆる場面での事例がこれでもかと示されていく。その中で、まったく想像の範囲外で驚いてしまったことをいくつか書き出してみる。

スウェーデンの市議会で「さすがに除雪にはジェンダー問題はからんでこないだろう」という発言があった。「なさそう」と私も思った。しかしよくよく調べてみると、車で通勤することが多い男性と、公共交通機関を利用して仕事や用事のほか子供の送り迎えや親族の世話などの移動をちょこちょことこなす女性とで、移動パターンが大きく異なっていた。そのため従来の除雪の順番を入れ替えて、歩行者や公共交通の利便性を優先させたところ、冬季の転倒などの負傷者(女性の割合が多かった)が減って医療費も大幅に削減できたという。つまり、道路や交通について計画するときに、典型的な男性パターンだけが念頭におかれた場合、それに合わない層の不利益が見えなくなってしまっている。

男女がどちらでも自由に利用できるジムや公園の遊び場では、一般的に女性の姿は少ない。10歳を超えると公園で遊ぶ女子が減るのは、男子に比べて活発じゃないからだろう。「そういう傾向はあるかも」と私も思った。しかしウィーン市の公園で、広いオープンスペースだけの状態から、小さなエリアに区分けしたところ、女子の利用率が上がったのだという。スペースや入り口が1つだけだと場所争いをしなければならないため、弱いグループが引き下がらずをえないということだ。建前としての男女共用があり、女子たちが自主的に遠慮してしまうことで表面的には問題化せず、それを放っておけばスポーツの恩恵を受けるのは元気な男子に偏ってしまう。

農業や建設業で使われる機具や道具のほとんどは男性の体格を基準に作られているため、女性には使いにくく負傷の原因となっている。軍隊でも同様で、身体に合わない装置は安全性に直結する。イギリス陸軍では股関節および骨盤の疲労骨折は男性より女性のほうが10倍多かったそうだが、行軍するときの歩幅は男性兵士に合わせるよう強要されていた。女性兵士の歩幅を従来より小さくしたオーストラリア軍では骨盤疲労骨折の件数が減少したという。それまで男性が多かった場所に女性が入っていき、「同じ条件で実力を発揮してみせろ」と強いられたとき、ハンデがあるどころか身の安全も脅かされるということだ。

ピアニストたちの手の幅と名声レベルを比較した研究では、国際的名声のあるピアニスト12名は手の幅が8.8インチ以上と大きめであり、うち2名が女性だったという。標準的なピアノ鍵盤を弾きこなすには大きい手のほうが有利であり、平均的に手が小さい女性は不利なだけでなく故障や怪我のリスクも高い。私自身10代半ばまでピアノを習っていて、小さい手では弾くのが困難な曲があることはわかっていたし、リストやラフマニノフがすごく大きい手を持っていたという逸話も知っていたのに、「上手くなるには手が大きくないとね」とピアノがまるで自然の産物であるかのようにサイズは変えられないものとイメージしていたことにはじめて気づかされた。

これらはほんの一部で、性犯罪とかハラスメントとか医療格差とか、もっとひどい事例も枚挙にいとまがない。そもそもあらゆる分野で男性が標準とされていて、データの収集対象に女性が入っていないことがこれほど多いとは。女性たちの肩にかかっている無償のケア労働も見えないものとされている。ジェンダー問題に対してはいろんな意見があるだろうが、まずはこういう現実を知らないことにははじまらない。

“客観的”“常識的”とは既存の価値観をなぞっている?

世の中のあらゆるデータにジェンダー・ギャップがあり、気づかないうちに日々の生活に影響を与えている、と著者は問題提起する。

データにおけるジェンダー・ギャップについて最も重要なことは、それが悪意によるものではなく、意図的ですらないことだ。むしろ正反対で、これまで何千年もまかりとおってきた考え方の産物にすぎず、一種の思考停止とも言える。それも二重の思考停止だ--何でも当然のごとく男性を基準に想定し、女性のことはいっさい考慮しない。なぜなら一般的に、「人間」という言葉は男性を指しているからだ。
女性の存在が目に見えず、忘れられているせいで、そして私たちの知識の大半を男性に関するデータが占めているせいで、男性=普遍的とみなされるようになったヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽのだ。そのせいで、世界人口の半数を占める女性たちはマイノリティ扱いされ、ニッチなアイデンティティと主観的な視点しかもたない者として扱われている。そんななか、女性たちの存在は忘れられ、無視され、切り捨てられるようにできている--文化からも、歴史からも、データからも。そうやって、女性たちの姿は見えなくなっていく。

男性を中心として確立された社会や文化において“客観的”で“常識的”であろうとすると、必然として男性中心主義になってしまう。“普遍的”とされている場所が、すでに偏っているのだから。その社会や文化においてデフォルトとされている人々にとっては、その状態でいるのが当たり前であって、マイノリティの困難や不利益には気づくことができない。女性は数としては半分もいるのにマイノリティ? 意思決定や知的生産の場に関わる女性が今まで少なかったからだ。クオータ制はやっぱり必要だろう。「優秀であれば男も女も関係ない」というのは耳当たりのいい言葉だが、従来の価値観で判断される“優秀”は本当に公平なのか、ということだ。

たとえば、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)による最近の研究では、雇用におけるクオータ制はよくある誤解とは正反対に、「不適任の女性の採用を助長することはなく、むしろ能力のない男性を除外する」のに役立っていることが明らかになった。

逆に男性にとって使いづらい、参加しづらいケースもある。例えば昔の家の台所は全体的に低く造られているから、多くの男性はかがむ姿勢になって腰が痛くなる(これは平均身長の伸びた現代女性でも同じだが)。保護者会や公園など子育て関連では男性参加者が浮いたり警戒されたりしてしまうのも、足が遠のく原因になっているだろう。服装の自由度だって、男性のほうが狭い(パンツスーツの女性はいくらでもいるが、男性にスカートはハードルが高い)。

高齢化が進み、生活が多様化している現代では、昔ながらの価値観でははかれない場面が多くなっている。男女格差の解消というだけでなく、あらゆる立場のニーズをもとに社会のデザインに生かしていくのは、結局はみんなが住みやすい社会につながっていくのでないかな。

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