エッセイの魅力に気づいた話。
僕はnoteに文章を書きはじめるまで、まともにエッセイを読んだことがなかった。本屋にふらっと立ち寄って、あまり関心のない歴史のコーナーに足を止めても、エッセイだけは素通りしていた。
別に反エッセイ主義者ではない。ただ「なんでわざわざエッセイなんて買うんだろう?」と疑問に思っていただけだ。ファンの作家さんのエッセイならともかく、自分と関わりのない人の日常をのぞいて、何が面白いんだろう。noteに出会うまでの僕は、そう思っていた。
noteに文章を書きはじめて、みんながエッセイとやらを書いているのに気づくと、僕は本屋でエッセイを探した。いつも素通りしていたエッセイコーナーは、見慣れた光景なのに、どこか新鮮に思えた。
僕は、最初に目にとまった『村上春樹 雑文集』を手に取り、レジへ向かった。
雑文集なので、特にテーマが決まっているわけではなかった。要するに、過去のエッセイが盛りだくさんだった。焼肉屋で頼んだ”特大”のご飯を口にかきこんだときのように、美味しいけど、すぐお腹いっぱいになった。
どうやら、エッセイは一気に読むものではないらしい。それから僕は、ひとつずつ味わって読むようになった。
雑文集のなかで特にお気に入りなのは、「ビリー・ホリデイの話」だ。
そのエッセイは、「ジャズとはどういう音楽か?」というのがテーマになっている。村上さんはエッセイの冒頭で、一言で片付けられるようなテーマではないと前置きした上で、自身がジャズ・バーを経営していたときに体験した”ある日の出来事”について述べている。
不思議だったのは、最後まで「ジャズとは何か」について明確な答えを出さなかったことだ。
僕だったら、「ジャズとは即興の音楽です」と簡単に片付けてしまいそうである。しかし、ジャズを知り尽くした村上さんは、そんな野暮なことはしない。もっと奥が深いのだ。
村上さんがある日のジャズ・バーでの出来事を物語のように語ることで、「ジャズとは何か」について読者に感じ取ってもらいたいのだと思う。そして、実際にジャズを聴いたり、演奏したりを通して、本当の意味でジャズを知ってもらいたいと思ったのだろう。あくまで僕の推測だ。
『雑文集』を読破した僕は、他の作家さんのエッセイを手に取るようになった。noteでも読ませて頂いている、作家の岸田奈美さんが書いた『もうあかんわ日記』を読んだり、敬愛する作家の小川洋子さんが書いた『遠慮深いうたた寝』を読んだりした。
僕は、エッセイが気軽に読めるものだと知った。
だいたい2000〜3000字くらいのものが多いし、寝る前にちょっとだけ読みたいときには丁度いい。小説みたいに物語に没頭してしまって、睡眠時間が削られることもない。
僕はエッセイを読んでいる間、多くのことを考えさせられた。
小説とちがって物語を追うことに意識がいかない分、自分との対話を楽しむこともできる。自分が体験した話ではないはずなのに、どこか懐かしく感じたり、昔のことを思い出したりする。不思議だ。
エッセイって、読者に学びを届けたり、エピソードに共感する癒しを与えたり、シュールな笑いを誘って楽しませたりできるものだと思う。
僕もそんな作品が書けたらいいなと最近思う。