『おいしいごはんが食べられますように』について、考える。
こんばんは。えびです。大分遅くなりましたが、芥川賞、発表されましたね~高瀬隼子さん!
前記事で書いた予想は全くの見当違いでしたがそもそもそれも含めてのお祭りだと思っているので、全体を通して楽しかったです。早くそれぞれの選評が読みたい。選評を読むまでが芥川賞。家に帰るまでが遠足。
受賞作『おいしいごはんが食べられますように』は好きな作品で、これまでに3回通読しました。1回目は帰省中の新幹線の中で。2回目は単行本を買ってすぐ。そして3回目は芥川賞受賞予想に向けて。
色んな衝撃だったり共感だったりを経て、少し自分の中の『おいしいごはんが~』熱が落ち着いたように見えたのですが、何故かのどに刺さった小骨のようにこの小説の存在がずっと心の中に小さくひっかかっていて、つい思い出しては色々考えてしまうので、せっかくなのでnoteに書くことにしました。
散文的なのでまとまっても結論が出てもいないのですが、何でこんなに引っかかるのだろう?というのを自分なりに考えた、というものです。
申し訳ないのですがネタバレなどは気にせず記します。ただ、本作はストーリー展開云々よりも読ませるほかの部分に魅力があると考えているので、あまりネタバレ如何は個人的に重視していません。是非読んでみてください。150ページ程度で、文章も非常に現代向けに読みやすく、普段あまり読書をしない方も手に取りやすいのではと思います。
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「食」に関する考え方への共感について
これは最初に読んだときに思ったのですが、まずわたしは「二谷」に共感しました。二谷という会社員の男性は、「丁寧な食事」を極端に億劫に思う人物。みんなでご飯を食べて感想を共有する、という場も苦手だし、食事のために貴重な時間を割くのも苦手だし、手の込んだ手料理なんかを食べたらカップラーメンで上書きしたくなる。食べなくて済むならできれば食べたくない。そして、わたしが「わかる!」と思ったポイントは、食事に関してはそれを「億劫」だと思うことをあまり人に言いにくい、という観点です。
前の記事でちょこっと書いた気がしますが、学生時代、ディズニーランドが嫌いな友人がいました。なぜ嫌いかを聞いたときに、「ディズニーを嫌いというと非国民みたな目で見られるところが特に嫌い」と言っていたのがすごく印象的で、今回の二谷を見て思い出しました。(私はディズニーは大好きです。)
わたし自身、食事が面倒だと思うことも多々あり、人と食べるのが、親しい人ではないときはあまり得意ではありません。例えば細かいところですが、女友達とランチに行ってパスタセットを頼むとパスタより先にサラダが出ます。皆、パスタが来る前にサラダを食べきる流れがあって、それが苦手です。頼んだパスタがクリーム系なら尚更、パスタとサラダは交互に食べたいし、野菜から食べるというのはダイエット的に理にかなっていることは十分承知ですが、わたしは一番おいしい一口目は大好物を入れたいタイプなので、先にサラダが来ることも、パスタが来る前に皆がサラダを綺麗に片付けることも苦手でした。見えない圧力と言うか、流れと言うか。なーんて書くと大げさなのですが、そういう小さなモヤが食事にはたくさんあって、非常に気を遣います。
あと、わたしは同じものをたくさん食べることができない(食べ過ぎると体調が悪くなる)ので、注文量にはもちろん気を付けますが、人からおごってもらうものは絶対に残すといけないと思っているのでおごってもらうことも非常に苦手です。拒否できずついてくるライスも同じ理由で苦手。最近はあまり言われなくなりましたが20代の頃は「若い人が食べなさい!」と飲み会で頼みもしないのにどんどん注文して自分は食べない大人たちがとても苦手でした。しかもご飯を残すことって、それを重大な悪だとする思想の方も一定数いらっしゃり(それ自体は良いと思うのですが)、体調不良と罪悪感と居たたまれなさとで非常に苦しい思いをしてきました。わたしはまだ女なのですが、同期の男性たちがより食べさせられて苦しそうにしているのを見ると胸が痛みました。わたしは下戸に近いくらいお酒も弱いですが、食べられない量を食べさせられるくらいなら、吐きながらも飲ませられ続ける方がましです。(どちらも経験あり。)
…というのは自分語りなのですが、こういう「食」に対する小さな悩みって誰もが持っているのではないか?と思うことがあり、「食」を無条件に素晴らしいものしない書き方をされた本作品にまず共感をしました。
だから最初は「二谷に一番共感する!」と思っていたし、それに反するような立場の芦川さんに反感を抱いており、だからラストは「えええ!?」と納得いかなかった読了感を覚えています。
(余談ですが、今はもう大人になり自分の食べたいものや食べられるもの、ペースも自己管理で弁えることができるので、親しい人とご飯に行くことは好きですし、飲み会というものが好きなのであれば参加することが多いです)
芦川さんへの反感
2回目に読んだときに、前回より強く思ったのは芦川さんへの反感でした。
芦川さんはいわゆる線の細い女子で、「わたしこういうのが苦手なの」を周囲が理解し、免除してくれる、あるいは避けても許されるような女性です。皆が残業しているのに頭が痛いから早く帰るとか。大勢の中で話すのが苦手だからグループワークのある研修を当欠するとか。
芦川さんにもそれを容認する周囲にもイライラしてしまいました。でも、なんでイライラするんだろう?と紐解いて考えると、たぶん下記のような要素なんだと思います。
①自分も「我慢して乗り切った」経験があるから。
…わたしは前職は割と体育会系な会社にいました。(上司が歩いていたら必ず前に出てドアを開けなければならない、など。)だから若手社員がちょっと体調を崩して仕事に差し支えるなんてもっての外で、それで叱咤されたこともありました。若い頃の苦労は買ってでもすべし。いやもうそんなん絶対イヤじゃん、て思っていたし、自分の後輩にもそれは強要したくないと思っているのですが、芦川さんになんでこんなにイラつくんだろう?と思ったら、自分が「そんくらい我慢しなさいよ」思考が根幹に流れているからだと気づき、ゾワっとしました。今の会社では後輩はいないので何とかハラスメントをしていることは無いと思うのですが、結局自分もされて嫌だったことを「でも我慢しているのだから」精神を持っていたというのは怖いことです。
②そのお礼にお菓子をつくってくるから
これは、芦川さんに対して思うことなのですが、その中でも少し枝分かれして、「体調不良で帰ったのにお菓子作りをするんだ?」という気持ちと「労働のお礼が人の手作りお菓子であることのモヤモヤ」があります。
①で述べた、体育会系精神に基づく思想は誤っているとは思うのですが、この「体調不良で帰ったのにお菓子作りをする」という行為はやはり釈然としないものがあります。1回とか2回ならまだ、帰ったら少し落ち着いた…と説明があれば良いかもしれないのですが、作中ではこれが習慣化しており、お菓子を作るために早帰りすると捉えられても良いくらい恒例化していることに非常にモヤモヤしました。それはさすがに、無いよ。やられたら傷つく。苦労してやりたくない仕事をしている自分に。
そして「手作り」に関して。これは非常にセンシティブなものだと思うのですが、手作りを苦手な人って一定数いると思います。(わたしは親しい人からであればいただくと非常に嬉しいと思うタイプですが。)
衛生的云々の前に、モースの贈与論ではないですが、人から与えられたものに対しては何等かのお礼義務が見えない圧力として働くと思っており、既製品に対して手作りはその度合いが強く思います。例えばハロウィンとかバレンタインとか行事に手作りお菓子をいただくことってとても嬉しいのですが、それが毎日起こると考えると…。何かしら報いなきゃという気持ちと、これだけもらっているのだから仕事に穴をあけることを「許さなければならない」という空気が働き、お菓子と仕事は全く違う天秤にあるはずなのに、無理やり容認を押し付けられる気がして非常に息苦しさを感じました。ちょっとしたクッキー2~3切れならまだしも、芦川さんが作るのはナッペ教室にまで通ったホールケーキや、土台からつくったフルーツタルトなど。あまりに重すぎます。重すぎに比例して、仕事に対しての不満を持てなくなります。そしてそれを容認する同調圧力みたいなものがこの事務所には働いており、そこが本当に読んでて一番しんどい部分なのだなと、後から考えて思いました。
③そして結局「芦川さんは可愛い」
ごめんなさい、これはもう完全にこんなこと書くとブスの嫉妬と言われるかもしれないですね。芦川さんが物凄く可愛くて、それを自分でわかっているような描写は(主に二谷目線で)数回なされます。可愛いから得している人を客観的に見るのって、何でこんなにしんどいのだろう。
女子の世界の外見主義って本当に残酷だと思っていて、わたしも人生で何度も嫌な思いをしてきました。(男性でももちろんあるとは思うのですが、わたしが見える世界は女性の眼を通してなのでこういう書き方です。)多分気づいていないだけでわたしだって得したこともあるのかもしれないのですが、それよりも劣等感の方が強く、だから結局「可愛いから」ですべてが許される(ように見える)芦川さんが苦手だと思ったのです。
わたしは本作を最初に読んだとき、二谷に裏切られたような気持ちがしました。それは最後の文章のところなのですが、二谷に共感していたのに!どうして!と思いました。紐解くと、確かに食に対する部分で共感する部分はあれど100%二谷に賛同しているわけではなかったのに。(押尾さんが言うように、別にわたしだって美味しいご飯は好きだ。) 結局、芦川さんが可愛くてそれですべてが許されているように見えることが、わたしにとって心がザラつくポイントなのだということを見せつけられたようで、非常にコンプレックスを刺激されましたし、しんどかったです。いや今もしんどい。結局そこかい、という。
押尾さんの立場について
主要メンバー3人のうちのもう1人は「押尾さん」。芦川さんの後輩にあたる女性社員です。大学時代はチアをやっていて、いわゆる「体育会系」に括られる立場。押尾さんは、芦川さんと同じ仕事をしているので、か細い芦川さんの抜けた穴は全部押尾さんに降ってくる。彼女も片頭痛持ちなのに、先輩が帰っちゃうから薬を飲んで踏ん張っている。そんな彼女は結局最後は「敗北」し、「転職」します。
(個人的な意見、この事務所にいても押尾さんは苦しいだけだと思うので、転職して正解、敗北に見えるけど全然大丈夫。)
最初は押尾さんに共感していました。彼女から出る芦川さんの愚痴には非常に共感しましたし、体調が悪くても踏ん張る彼女を可哀そうだとも思いました。でもこれって結局、芦川さんのところでも書いたけど、わたしがされて嫌だった前職の考えに染まっているということだと気づき、どんよりしました。結局わたしだって、熱があっても何とか頑張って仕事したんだから、若手ってそういうもんじゃないの!?と。(迷惑なので熱があったら帰りましょう。)思いやりを持てない自分が浮き彫りにされたようで、押尾さんへどっぷり共感すればするほど、嫌な自分が出てきてうんざりしました。
と同時に、これって割と深刻な問題だとは思っていて。
すみません、どなたが書かれたのか忘れてしまって、誰かのTwitterだったか論評だっかた思い出せず本当に申し訳ないのですが、どなたかの感想の中で非常に胸を打ったのは「押尾さんは”2番目に弱い立場の人”」と書かれていたこと。一番は芦川さん。でも、一番弱い人が守られたり逃避することにより、二番目に弱い人が一番大変な目にあう。
これって、割とどこのコミュニティでも起こりがちだと思っていて。例えば小さなお子様をお持ちの方や介護をされている方がご家族の体調不良等でやむを得ず早退などするときに、それは本当に仕方がないし気持ちよく皆でカバーすべきなのですが、じゃあそれをやるのは誰?ということ。そこを無視してはならない、ということ。押尾さんの場合、それが彼女一人に降りかかってしまって、それはSOSを明確にできない彼女にも問題があるけれど、やっぱり組織に問題があると思いました。これは自然には解決しない問題だと思っていて、意図的に組織内でカバーしあう仕組が必要だと個人的には思います。組織的に皆でカバーしあえる環境があれば、誰かに負担が偏ることも少ないでしょうし、押尾さんの立場の人が片頭痛で早退したときにカバーしてくれる人はいるはずなんです。それが本当の持ちつもたれつだと思う。仕事のお礼は仕事で。ホールケーキなんかじゃなくて。
そもそもこの事務所は「二番目に弱い人」を作ってしまっている時点で破綻しているとは思います。ただ、小さな営業所などではそうもいっていられず、誰かに負担がかかることって往々にしてあることだと思います。それは本当に辛いことだし、コミュニティ全体で真剣に考えなければならない課題だと、わたしは思います。手の込んだお菓子だけでは解決にならないこと、そして手の込んだお菓子の対価は労働の穴埋めなんかではなくそれ相応にさらなる対価が必要になること、そういう重苦しさとしんどさが描かれたのが本作だと、思いました。
結局のところ
ここまで5400文字!まじか!すみません。読んでる人いますか。いたら本当にありがとうございます。毎度長文ですみません。でも有料でもなくわたしの思考を綴っているだけなので許してください。
ここまで書いていて思ったのが、この話がひっかかっていたのは結局、「つりあわないこと」の苦しさだったのだなと、書いていて改めて思いました。「労働の穴埋め」と「手作りお菓子」。労働は肉体的苦痛や時間犠牲も伴い負の感情が大きく、手作りお菓子は全然ベクトルが違うのにそれで許されてしまう雰囲気や許さなければならない(どころか感謝しなければならない)圧力がある。「労働」と「食」の二つの全然違う天秤が、全然釣り合っていないのに「食」の持つ特性(冒頭で書いたディズニーランド嫌いな人は非国民にみられる、みたいな言葉にあるような特製)によりそっちが勝ってしまっている不条理さが、引っかかる原因なのだなと思いました。
押尾さんだけを考えると、上司も周りのパートさんも「芦川さん」贔屓になっている中でここをひっくり返すのは難しく、さっさと去る、で正解だと思います。(去り方はかっこよかった。)
二谷に関してはもうよくわからず、どう考えても釣り合わない天秤を抱えているのに、芦川さんが勝つ理由が「可愛いから」と思っているのであれば、もう好きにしなさい、と思います。ただ大人になってからの社会コミュニティって狭いし広がりも見えないので、妥当というか、傍から見たらまあそうなるよね、という選択にも見えます。
本作品はわたしは不釣りあいの対価、食が持つ重すぎる「対価要求力」と「絶対的正義感」のモヤモヤを描いたものだと思っていて、そもそもモヤモヤする自分もやだなあと思わせる、超絶しんどい激重(げきおも)小説だと感じました。それをこんなに軽やかな文体で面白く描いてて、高瀬隼子さん凄すぎる。
もう少し経ってからまた読み返すと違う感情がわいたりするのかなあ。皆がどこに対してどう思ったか、色々聞いてみたい作品でした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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