楽しむと出てくる罪悪感 〜母が死んでしまう恐怖からきていた
もうすぐ父の日。
私にとっては気が重くなるとき。
そして先月は母の日があった。
その母の日の少し前、大々的に片付けをしていたとき、クローゼットの奥の方に母が長年しまったままだった、小学校一年生の5月の母の日に書いた私の手紙を見つけた。
書いている文字は幼かったけど、一年生にしては結構長めの文章だった。
手紙を書いたことも内容も何も覚えていなかったので、読み返してみた。
『おかあさんは体のちょうしがわるくてしんじゃうっていっているけれど……(中略)わたしがもうすこしおおきくなったら、りょうりやせんたくをします…』
そんな内容だった。
私の目を引いたのは、『体のちょうしがわるくてしんじゃうっていっている』というところ。
ああ、これか。
大きなため息が出て、そして腑に落ちた。
この母のセリフが暗示のように私の中にしみついていたのか。
ーーーーーーーーーー
アダルトチルドレンの私は、いまも私が子供時代に出来なかったことをいろいろと自分でやり続けている。
前回書いたように、ベースとするのは、自分に関心を持ち続けること。
やりたいと思ったことはなんでもやってみようとするとき、今でもふと足かせのようなものを感じることがある。
そのひとつが、母に万が一のことがあったらどうしよう?ということだ。
自由に自分のことに集中しようとすればするほど、ふと我に返って、こんなに自分が楽しんでいるときに母が具合悪くなったらどどうしよう?
そんな不安がなんの脈絡もなく、根拠もなく、浮かぶのだ。そしてその心の声は最終的に罪悪感につながったりする。自分だけ楽しんでいていいの?
ふとやってくる罪悪感。
自分のやりたいようにやることに不慣れだから仕方ない、とは思っていたが、今回自分がかつて書いた手紙を見つけて、ものすごく腑に落ちた。
おかあさんがしんじゃっていなくなる、かもしれない。
小学生の私はいつもそんな恐怖で覆われていたのだ。
その母はと言えば、今も健在で、どちらかというとかなり元気なほうだ。
私が小学校のころの母は今よりも元気がなかったかもしれない。少し調子の優れない時期が確かにあったとは思う。
でも、知る限り、しんじゃうかも、という状況に陥ったことはないし、目の前で倒れたり入院したこともない。持病もない。
つまり、しんじゃうかも、と本人が言わない限り、子どもだった私は母の不調をわからなかった可能性はあった(と言っても、敏感な子だったので気づいていたとは思う。)。
それなのに、言わないどころか、子どもに面と向かって何度も言っていたと思われる、おかあさん、しんじゃうかも、というセリフ。
夫である私の父は当時、母の不調や不安をまともに聞いたり対応したりということはなかったと思う。
結局不安は母ひとりで抱えられず、一番近くにいた私が受け止めていたのだ。
私は、幼少期の具体的な記憶があまりない。だから、母がしんじゃうかも、と言っていたこと、それを私が気にしていたことも何も覚えていなかった。
私が敏感で勝手に不安を抱いてしまうタイプだったことが今に影響していると思っていたけど、直接聞いていたんだ…。思わず苦笑い。
そして、こうして罪悪感としてずっと私の中に刻まれていた。
自分と丁寧に向き合うことを自分なりに心がけるようになってからというもの、こんな風に、ふと自分を理解するきっかけとなる瞬間が訪れる。
手紙は小学校一年生の私から当時に母に渡されたもの。でも同時に、今の私にも届けてくれたものかもしれない。時空を超えて。そんな気がした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?