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試行錯誤する豊かさ
自分を許そう
生きていく上で大切にしたいと思うフレーズが、自分の中にいくつかある。
そのうちのひとつ。
〝自分を許そう。〟
このシンプルなフレーズ。
大切なことってわかっているのに、意識していないとすぐに忘れそうになる。
そういう時は、自分なりに別の角度から言い換えてみる。
〝試行錯誤しよう。〟
〝トライアンドエラーしよう。〟
〝とにかくやってみよう。〟
実際やってみる。
思うような結果にならなかったとき、
なんでこんなことやっちゃったかなあ、
やらなきゃよかった、
そう思うことがある。
特に、失敗について周りからなにか言われたり、冷ややかな視線を浴びるかもしれない…
何かにチャレンジして、そして上手くいかなくて…のちのち許せない自分と出会う可能性も出てくるって思うと、時に弱気になる。受け身になる。
でも、それでは結局何も始まらない。
自分発信ではなにもしない、というパターンが出来上がってしまう。
だから、そんな負のループにハマらないよう、チャレンジしたら、どんな結果になろうとも、自分を許すということを大事にしたい。
エラーの先のゴール
自分を許すこと。
それは、まさにトライしエラーすること、そしてトライアンドエラーをし続けることでもある。
トライアンドエラー。
ワンセットになっているだけあって、トライすればエラーが出ることは当然のこと。時にはエラーすることがゴール。
もっと言えば、実際のゴールはエラーの先にあるんだと思う。
トライアンドエラー全てが丸ごと経験。
経験という生きる糧がゴールでは手に入る。
日々生活していると、やってみる前から、ダメかもな、とか、ダメもとで、と思うことがあったりする。
どう考えても難しい。
そう思いながらもやってみる。
すると、結果が出る。
失敗?成功?
一瞬失敗か、成功か、どちらの結果が全てを語り尽くしているような気すらするときがある。
けれど、成功か失敗か、どちらかの入り口から入って、そこから歩き続けていくと、段々と成功か失敗かは大したことでない。
経験という門をくぐり抜けたこと自体に重みがあるんだと思う。
そして、こういうことか、とその重みはストンと自分の中の腑に落ちる。
結局自分の身体を通じて納得するという作業が大切なのだ。
腑に落とすことは、血になり肉になることと同義だろう。
それらの経験は学びとなり、自分のものとなる。
自分のもの、自分自身に重みを持たせるには、幾度となく腑に落とす作業が必要なのだ。
本当の豊かさって?
生きていく上で大切な地道な作業ってたくさんある。
いや、きっとその作業のほとんどが地道なのだ。
そして、そういう作業が歓迎されるときというのは、とても豊かな空間と時間が確保されているに違いないと思う。
なぜなら、エラーかもしれないけれど、やってみる、やらせてみる、ということは、やる本人なり周りなりが、エラーする可能性に許可を出すことになるから。
やってみたらええやん。
関西出身でもないけれど、なんとなく関西弁でしか言い表せられないような、絶妙なゆるさのある言葉掛けの背後には、
失敗しても大丈夫だよ。
そう自分に、周りに、声かけ出来る温かさやゆとりがある。
温かさやゆとりを提供出来る空間や時間がたくさんあればあるほど、人は血や肉になるものを得るチャンスを手にすることになる。
特に成長真っ只中のこどもに必要な空間時間なんだと思う。
時折仕事で学校を訪れる。
トライアンドエラーが推奨される場か?
そんなゆとりやスペースは、控えめに言って、あまりないところになっているように思う。
子どもはもちろん、大人だって誰だって、トライアンドエラーが大いに認められる世の中になってくれたらいいのに。
もちろんエラーのー大きさには許容範囲というものがあると思うけれど。
それこそ豊かな生活って言えるのでは?
夢見る大人の私は時にそう願う。
夢見るだけの大人はかっこいい感じがしないけれど、夢見ながらトライアンドエラーを重ねて突き進むなら、私はそんな大人であり続けたいと思うのだ。
さあ、新年度スタート。今日も明日も突き進もう。