noteつぶやきアクションの効用
たかがつぶやき。されどつぶやき。
note記事。
つぶやきも含め、毎日書ける人。毎日いくつも書ける人。
すごいなぁと思う。
今の私には、ほぼ週1ペースぐらいがちょうどいい。
あれこれ考え癖のある私。
まとめて書くこと、まとめなくてもただ思うままに書き出すこと、どちらも苦手。
そもそもアウトプットに苦手意識があった上で始めたnote。
書き出すというアウトプットには相応のエネルギーを費やす。
そんな私でも、書いてきてよかったなと思うことが時々ある。
つぶやきのような短いアウトプットでも、
後々の自分にとってよかったと思えることが割とあることに最近気づいた。
ほんの些細なこと。大したことないと思ったこと。
それでも、一日のうちに湧き上がる数えきれない思いの中で、あえてnoteのつぶやきに残そうとしているということは、それなりに〝選りすぐりのつぶやき〟なのだと思う。
noteのつぶやきとして選ばれたつぶやきは、自分のつぶやきの中において言わばエリート的存在なのだ(笑)。
noteに書き出すというひと手間を加えたせいか、それらも含めたたくさんの理由からか、noteでつぶやくことで、そのつぶやきは格上げされて、私からわりと目につくところに鎮座することになる。
そして、ごくたまにそのつぶやきのお姿が目に入る。
すると、ああそうだった、私はこんなことをつぶやいてたんだった…
そう思い返して、そのつぶやきが生み出されたときの思いを時々再確認して、その思いをその先にどうつなげようかしら?と思うのだ。
たまに、なんでこんなこと思っていただろう??というつぶやきもある。
それはそれで自分の変顔を見つけた時みたいな面白さがある。
どんなつぶやきでも、たかがつぶやきでも、自分の中で何かがうごめいた結果出てきたもの。しかも選りすぐったもの。
だから、自分をよりよく知るためにそこから得られるものはある、と思うのだ。
つぶやきはつぶやき以上になる
先日、ふいに曽祖父のことが浮かんだ。
住まいも離れていて会う回数は多くなかったし、幼い頃亡くなったので、ほとんど記憶がない。
ほとんど記憶すらない曽祖父を思い出すなんて珍しい。
そう思ったとき、なんとなくつぶやき用シャッターを切りたくなった。つぶやきnoteの1枚として収めたくなったのだった。
ふと思い出した曽祖父のこと。
たとえ珍しく思い出したとしても、そのあとnoteに収めようと思わなければ、慌ただしい日々の中では次々と違うことが頭の中に浮かぶ。
それ以上思い出しようもない曽祖父のことは、いつのまにか他の多くの雑念とともに消えていったに違いない。
曽祖父のことをつぶやきとしてnoteに収めよう、と作業をしようとした次の瞬間には、入院中の大叔母を思い出していた。
ふと思っただけ、だったはずのことが、どんどん広がっていった。
きっと私は曽祖父を思い出して、さらにはnoteでつぶやいたことがきっかけで、最終的には近いうちに大叔母に会いに行くことになるんだと思う。
大叔母は曽祖父の娘なので、曽祖父からのメッセージなのでは?
そんな見方をすることも出来るだろう。
そうかもしれない。
でも、元々曽祖父との思い出や記憶はほとんどなかったし、曽祖父と大叔母が親子ということに気づいたのもしばらく経ってからのことだった。
湧き上がる数ある思いの中から、私はなぜ曽祖父のことを選んだだろう?
それはよくわからない。
いつのまにかシャッターを切っていた。
プロの写真家が言いそうなセリフ(笑)。
noteでつぶやきにしたことがすぐになにかの行動に繋がるわけではない。これまでのつぶやきも、つぶやいたというだけで、その後なんでもないもののほうが多いと思う。
だとしても、他の数々の雑念に掻き消されず目に留まりやすくなることで、見えないところのなにかともつながるのだと思う。
そうして私の思いはところどころ大切に取り上げられることで、見えないところでつながる思いも、同じように大切にされる。
最近そんな感触を得ている。
noteでつぶやきすることは、私にとって自分を大切にすることにつながるアクションのひとつなのだ。
つぶやきがつぶやき以上になる。
これからも自分のペースで続けたい。
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