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不足していた言葉遊びの時間

noteを書くのは嫌じゃないらしい

言語化が苦手だから、アウトプット苦手。

ずっと私はここをイコールにしてきた。

言語化苦手=アウトプット苦手

確かに苦手感は半端ない。

100のことがあるなら20〜30ぐらいしか言語化出来てないな。

よくそんな風に思っている。

いや、一般の100は、HSPの私にとっては時に120〜130。つまり2、3割増しにはなるから、そこも考慮すると、本当に僅かなことしか言語化出来ていないって思ってしまうのだ。

相変わらずの苦手感はありながらも、こうしてnoteでアウトプットをしばらく続けてみて、ふと気づいた。

あれっ?
本当にそこまで嫌なのか?

世間的に上手くないのと自分が好きか嫌いかは全く別の話。

私は文章を書くのは上手くないけれど、noteに記事を書くための時間はそこまで嫌じゃないみたいだ。

どうして嫌になってないのか、探ってみたくなった。

言葉のらくがき帳

まずnoteを書くために、自分と向き合う時間が自然と確保されるようになった。

自分と向き合って、気づきをnoteに書くと決めているからそうなる。

そして、その気づきを言葉にする作業。

この作業時間をかなりゆるく設定してきた。
私はこの作業が苦手ってわかっていた(苦笑)。だから、ゆるゆるにした。

作業時間は好きに言葉探しをしていい。
言語化をあれこれ試していい。

そんな許可を自分自身にしておいた。

noteに記事をアップするため、とかではなく、自分の内にあるものをまず言葉に変えてみる。何でもいい。とにかく思いつく言葉に。

らくがき帳に自由にお絵かきするみたいに。
思うに任せて。

だから、書いたものを後になって読み返してみると、何を言いたかったのか??と書いた自分すらわからなくなっていることすらある(笑)。

でもそれはそれで、そのときの自分から出てきたもの。
そして、ほんの少し前まで自分の一部だったもの。

だから、それを出しただけでいいのだ。
その時ゆるく楽しく出せたのなら。

〜するため、〜しなくては、を排除した。
そうしたら、私に残っていたのは、言語化するためのゆるゆるした、ただの遊びの時間だった。

いつのまにか、私は自分で、自分のために、言葉遊びの時間を確保していたのだ。

言語化につながる言葉遊びの時間。
その時間を活かして、最終的にnoteに記事を書いていく。

嫌になる要素は何もなかった。

未加工な言語表現が許されない環境

ここでやっぱり過去を振り返りたくなる。

幼い頃の私は、機能不全家族の中でばりばりに空気を読んで、そのとき受け入れられそうな言葉や表現を選んで使っていた。

ほぼ無意識だった。

それでも時々、つい思ったことが口から未加工のままこぼれ落ちてしまって、次の瞬間、頭上に雷が落ちてきたこと数知れず…。

今思えば、自分で、自分の今の気持ちは言葉にするとこんなかな?あんなかな?と、幼い子がおもちゃを見て触って確かめるように、言葉で遊ぶという機会がほとんどなかったと思う。

私の言語獲得は早かったらしく、早くからかなりおしゃべりしていたらしい。

なのに突然物静かになった、と以前母が言っていた。

小さいときの様子を母から聞いた当時は、そうなんだ、とだけ思ったが、今はその理由がわかる気がする。

私にとって、自分なりに言葉を自由に扱えるようになるまでに必要な言葉遊びの時間が足りていなかったのだと思う。

自分なりに言葉を自由に扱えるという確かな感覚を身につけるまでには、ありのままの、未加工での言葉の表現が許される空間と時間が必要。

そんな空間と時間の多くは、周りの大人があたたかい目で子どもを見守ることでうまれることだろう。

残念ながら、私の育った家庭にはそういう環境が充分になかった。

子どもながらに、言語表現の未熟さに気づいていて、緊張感に満ちた空間での表現そのものが面倒で怖くなって、おしゃべり好きがもの静かな私に変わっていったのだと思う。

自由な言語化時間の大切さ

うまく言語化しなくては。

これまでそう考えて、〝上手な言語化〟という結果を目指していた。

だから時に苦しくなった。

ひとつの結果を目指すとき、そこにはうまく出来たか?出来なかったか?という評価が加わることがほとんど。自己評価含めて。

言葉で自由に遊ぶ。
気の済むまで。

自己表現なのだから、精一杯表現出来たか?そう感じるか?
自分の感覚感情に近いか?寄り添った言葉を見つけられたか?

そんなことが大切なんだと思う。

そしてその感覚がわかるのは、自分のみ。

なのに、ずっと〝言語化検定試験〟を受ける準備みたいなことをして、結果だけ気にしていた気がする。

自分が自分自身に、十分表現出来るよう待ってあげる。
その忍耐は必要なのかなと思う。

忍耐というより、寛容さか。
自分に対する寛容さ。

私には今までそういう機会が十分になかったのだから。
寛容でいてあげたい。

そして理想を言うなら、寛容に待ってくれる人を周りにももっと増やすこと。

原家族にいなかったのなら、これから周りとの関係の中でそういう環境を作ればいい。
とりあえず見つからなくても、まず自分が寛容であればいい。

これこそが〝自分で自分を味方する〟ってことのひとつのあり方か。

自分の味方をすることの意味が腹落ちしてきた気がする。


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