どんな気持ちも私の気持ち
何が嫌だったんだろう?
日々自分と向き合う時間を積み重ねていく。
すると、自分の中にあった〝嫌〟がどんどんハッキリしてくる。
ハッキリしてくると、言葉にしたくなってくる。
内面の言語化がまだまだ苦手って思っていても、言葉に出来るような気がしてくる(気がして終わることも…(汗))。
仕事上、定期的に学校とのやりとりがある。
子どもたちの様子を観察に行くことがあって、私自身の子ども時代を思い出すきっかけになることがたまにある。
あれやこれや周りから言われていた時期もあるけれど、学校では友達もいたし、これが嫌!ってそこまでなかった。
むしろ居心地の悪い家にいるよりマシだったことも多かった。
なのに、学校のことをふと思い出すとき、嫌だったなあ、となんとも言えない思いが湧いてくることがよくある。
何が嫌だったのか?
ふと言葉に出来そうな気がした。
結果さえ良ければいいの?
学校にはたくさんの嫌があった。
なんとなく、だけど、なにか嫌だった。
わかりそうでわからなかったことがだんだんハッキリしてくる。
結果だ!一番大事にするのが結果っていうのが嫌なんだ!
過程よりも結果を重視する。
学校はそういうところ。
少なくとも私は子どもながらにそう思った。
与えられる時間内で、目の前の課題をこなす。
その結果に対して評価が下る。
上手い。下手。
点数が高い。低い。
それが嫌だった。
自分が苦手なことでも、少しでも自分なりに取り組もう、頑張ってみよう、と思って、100%どころか、120%ぐらい頑張ったと思う時。
自分にとっては得意分野だから、頑張ってない、でもまあ出来るなという時。
自分ではずいぶん違う体験をした感じだった。
いろんな体験が出来るっていいなって、子どもながらに思ったこともあった。
なのに、周囲から得る反応のほとんどは結果に関するものだった。
点数といった形での評価はあってもいい。
でも、置かれた環境、持っている資質、みんな違うのだから、点数以外のフィードバックを、点数と同じぐらい、いやそれ以上に欲しかった。
私の場合、家庭でも結果しか見られていなかったから、余計に嫌な気持ちが強くなってしまったのだと思う。
そんなことをずっと思って、ずっと言わずに、言えずに、言葉にすることなく大人になった。
そもそもずっと思っていることが言葉に出来ないまま育つ環境って、果たして子どもにとっていい環境だろうか?
そんな疑問さえ投げかけたくなる。
どんな時のどんな気持ちも
学校という場所のように、人と人が同じ場所に同じ時間にいるということは、互いに限りある時間を共に過ごすということ。
それだけで本当にかけがえのない体験だ。
だとしたら、
どう過ごす?
どんな気持ちで過ごす?
結果に辿り着く前のそんな道のりで体験するいろんなこと自体、もっと大切にされていい。
自分が気づいていなかった思いをどこかではわかっていたのか、いつしか私は人の成長の道のりを応援したいと切に願う支援者になった。
思いより行動が先だった気がする。
日頃私が支援している人たちが、思うような結果が出ずにあたふたしているように見えるとき、私はその人なりの道を進んでいるのがわかれば、つまりその人らしく成長しているのが見えるなら、結構嬉しい気持ちになる。
別に今日明日ゴールまで行けなくてもいいんじゃない?
目の前にある、今という瞬間は自分のモノ。
それを積み重ねる。一歩一歩。
昨日より今日自分なりにいい感じで過ごせた。
周りと過ごしながらいろんな体験をした。
このまま前に進めば自分なりに目的地まで行けるかも。
そう思えたなら、行きたい場所にはいずれたどりつける。
結果はついてくるんだ。
ようやく言葉に出来たら、自分の中の嫌が少し小さくなった。
嫌って気持ちだって、私の気持ち。
生きている途中の私の気持ちのひとつだ。
どんな時のどんな気持ちだって、自分で認めて、そして丁寧に扱ってほしいんだってつくづく思う。