〝いい子ちゃんnote〟を見直す
支援者の呪縛
私はnoteの中で、対人援助の仕事をしている人ということを前提のひとつにしてしまっているせいか、自分の中の優等生的な部分からどうしても離れられないと感じる時がある。
優等生的というのは、通常使う成績優秀な優等生という意味とはちょっと違って、いい子ぶってる…そんな意味に近い。
ここnoteで自分と向き合うって決めてから、自分としてはずいぶん思い切った心情を表に出しているなあと思うこともある。
でも、後から振り返ると、やっぱりいい子ぶって、きれいにまとめたがっているよね、と自分にツッコミを入れたくなるときがあるのだ。
人を助ける立場にいるんだから、しっかりしなきゃという、よく言えば責任感みたいなものをどこかで常に感じているし、凹む自分が現れれば、このぐらいで凹んでいたら人助けなんて出来ない、と思ってしまう。
結果として、何事もないかのように、世の中で正解と言われていそうなことを口にしてそのように振る舞う。
これはきっと私だけはなく、割と多くの、他者をケアする立場の人が抱える支援者の呪縛というものかなと思う。
いい子ちゃんの語り
この呪縛を感じた私はこう自分に尋ねる。
このいい子ぶる自分はどこから来ているか?なぜいい子ぶるか?
そう考え始めるや否や、早くも問いの答え、正解を探し始めて、そんなことは簡単!とここでもやっぱりいい子ぶる自分が登場してしまう。
それは私が子ども時代に子どもらしく過ごせなかった、機能不全家族に育ったアダルトチルドレンだからだ、物分かりのいい大人のような子どもだったからだ…
いい子な私は、きっとそう語り始めるだろう。
語り始めたら、そこから私は親の話をしたくなり、親もそうするしかなかったことも話し始めるかもしれない。
実際今回のnoteで自分に声かけしてみて、答えを見つけたようにみえながら、同時に話が自分の心の言葉という本質からどんどんと逸れたことに途中から気づいて…
最後には明らかに逸れた箇所を削除した(苦笑)。
自分に出来ることを探る
自分自身に声かけするとき。
確かに自分を納得させる知恵やそのための説明も時には必要。置かれた状況に納得いかなくて、自分が自分の外側に答えを求めているときもある。
答えがある問題を解くほうが、人は安心する。
誰もが思う正解見つける作業をしているほうが達成感がある。
でも…
目の前の問いに正確な答えを導き出して満点を取るより、
そうしていい子や優等生的な振る舞いをするより、
少なくともいまの私に大切なこと…
それは、自分にとっての正解、心からの言葉を出来る限り真っ直ぐキャッチして、その時必要な癒しを得る。そのための時間を確保することなのだ。
前に書いたように、体でアウトプットしたり、色んなアウトプットがあっていいはず。そしてnoteも大切なアウトプットの場。
だけど、今の私は、いつのまにか、いい子ちゃんnoteが多いことに気づいて気にしている。
どうしたらいい子ちゃんnoteに偏らずに続けられるだろうか?
そう考えたら、ひとつ答えが出てきた。
それは、
noteのつぶやき機能を使うこと。
短めのものも書いてみよう。短めで文字数も限られているなら、ただ真っ直ぐにキャッチした自分の心の声を表現するだけで、説明しようとし始めない。いつのまにか、仕事頭できれいにまとめようということにはならない。
どんな心の声をキャッチするだろうか?
いい子ちゃんnoteをやってきたことに気づいた私には、ちょっと怖いチャレンジな気もするけれど、少し楽しみでもある。
とりあえずやってみよう。