僕のクレシダ、彼のクレシダ、クレシダのクレシダ(『トロイラスとクレシダ』論考③)
「あれがあの人? いや、あれはダイアミディーズのクレシダだ。
(…)あれはクレシダであってクレシダではない!」
‘’This she? No; this is Diomed's Cressida.
[…] this is, and is not, Cressid.‘’
『トロイラスとクレシダ』第五幕第二場
恋人が夜にギリシャ人と密会するのを見たトロイア王子の独白の抜粋である。
トロイラスとクレシダが初めての夜を迎えた翌朝、人質交換でクレシダはギリシャ陣営へと引き渡されることになる。
別れ際に恋人達は、再会するまで操を立てると誓い、互いに形見を交換する。
後日、休戦期間中にトロイア人達がギリシャ陣営で宴に招かれることがあった。その夜トロイラスは、陣営内で父親のテントに滞在しているクレシダを訪ねようと忍んでいくが、そこで彼が見たのは、人質交換の際に彼女を連れていったギリシャの使節ダイアミディーズと、彼を迎えるクレシダの姿だった…
「あれはクレシダであってクレシダではない!」
形見に渡した袖を、渋りながらも新しい恋人に渡す女を見て、男は叫ぶ。
「あれはダイアミディーズのクレシダだ!」
辛い。
ひたすら辛い。
「男」の視点で、主人公トロイラスに感情移入して読むとどうしてもそんな印象になる。
多分ダイアミディーズ視点で読んでも辛辣だろう。
だが、「女性」の視点で、クレシダの立場だと、別の見方ができる。
これもまた、苦い景色なのだが。
このドラマでは、「トロイラスのクレシダ」や「ダイアミディーズのクレシダ」は問題になっても、「クレシダのクレシダ」はまったく問題にされていない。認知すら、されていないのではないか。
この作品が書かれたのは1602年頃と言われる。
デカルト以前の話だ。
「個人」という概念は近代ほどには確立しておらず、アイデンティティーは「他者」に多く依存している。他者の目にどう映るか(ステータス、名声、富、衣服)と、他者の前でどう振る舞うかが大事になるのだ。
(1987年版ペンギンブックスの解説のxxxiiページ参照)
男女限らず、「私が見る私」「私にとっての私」が問題になることの少ない時代だった。
(アーヴィング・ゴフマンの社会的役割とパフォーマンス理論を考えると、現代でもそうかもしれないが)
しかしその中でも、クレシダの自我の疎外は顕著だと思う。
彼女は極端な言い方をすれば、「取引」され、「所有」されることが前提の「商品」なのだ。
トロイアでのクレシダの保護者である叔父のパンダラスは、彼女をトロイラスに取り持つ。自分で語る通り、「ブローカー」なのだ。
クレシダ自身がトロイラスに一目惚れしていたのだから、結果的にはよかったのかもしれない。しかし彼女がギリシャ陣営に連れていかれる顛末において、彼女は完全に「品物」として扱われる。
ギリシャ方についた父カルカスは、これまでのギリシャ方への貢献の「見返り」として、クレシダをトロイアから「請け出す」よう総大将アガメムノンに働きかける。それを受けたギリシャ陣営は、「等価の人質交換」によって、クレシダを手に入れる。本人の意思など関係のないところで。
この芝居では、ヤン・コットが指摘している通り、もともとからして「価値」に関する言及が多い。
戦争の意義と価値。
愛の存在と価値。
これらについて言及しながら、「残酷で不可解な世界にいったい道徳の秩序が存在するかどうかについての議論」がなされるのだ。(ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』p81)
そしてこの「価値」は、しばしば「交換価値」として表れる。「コスパ」、と言い換えるのも、案外的外れではないかも知れない。
マルクス以前に生きていたシェイクスピアの同時代人も、発達し始めた資本主義の子であり、この二つは概念化されていなくとも、体感で知っていたのだろう。
ヘレンは一体、ギリシャとトロイアと双方の何千もの男の血を流す「価値」があるのか?
トロイア戦争全体に響くこの通底和音、根本的な問いからして、すでに「交換価値」を前提にした、「コスパ」思考なのだ。
だがあの女は犠牲を払ってまで引きとめる
値うちがないのだ。
Brother, she is not worth what she doth cost
The holding.
『トロイラスとクレシダ』第二幕第二場
プライアム老王の御前会議で、皇太子ヘクターは言い放つ。
それに対しこう言い放つのは、他でもないトロイラスだった。
なんだって値うちはこっちがつけるんです。
What is aught, but as 'tis valued?
『トロイラスとクレシダ』第二幕第二場
「交換価値」とは突き詰めていえば、所詮は需要と供給のバランスである。
そして需要とは、それそのものの価値、「商人がその宝石を天秤にかければ決まる」価値だけではない。「その宝石がかき立てた情熱」の価値、「それを身につけた人の目に映る」価値、「誰かが主観的につけた」価値でもあるのだ。(ヤン・コット p82)
道徳の秩序が壊れ、「絶対的」な価値など陳腐化した世界。
すべての価値は相対的で、需給のバランスによってのみ決められる世界。
「私」の価値を決めるのは「私」ではなく、「絶対者」ですらもなく、自分と同じく相対的な「他者」、自分で自分の価値を決めることもできない、儚く弱く、しかし暴力的な「他者」である世界。
このような世界で、クレシダは愛され、愛するのである。
皆々から愛され、誰からも愛されず。
皆々を愛し、誰をも愛さず。
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