惣領冬実「チェーザレ」完結に寄せて
誰にとっても、人生の中で忘れられない光を放つ作品があると思います。
それは子供の頃出会った絵本であったり、はじめてのデートで見た映画であったり
小説や漫画なら、人生の節目に寄り添ってくれた、何度も読み返すような大切な作品かもしれません。
私にとってそのような作品のひとつが、惣領冬実先生の「チェーザレ 破壊の創造者」でした。
私と「チェーザレ」との出会いは京大受験の帰り道。
新幹線に乗る前に書店に駆け込んで、この漫画を手に取ったことでした。
作品の主役――ルネサンス期の悪の華、というべきチェーザレ=ボルジアのことは既に塩野七生さんの著作で知っていました。そして彼を主役にした大作漫画があるということも、当時通っていた塾の世界史の先生から聞いていました。
幼い頃から歴史に関心があった私。
それも蘇我入鹿や足利尊氏、ヒトラーといった“悪人”と言われ続ける人達にひとかたならぬ興味を抱いて来た私が、“マキャヴェリズムの体現者”チェーザレ=ボルジアに興味を覚えないはずがありません。
今すぐ読みたい。その気持ちを半年余り、私はずっと耐えました。一度手を出せばきっとのめり込んでしまう予感があったからこそ、大学受験が終わるまで手に取るまいと心に誓っていたのです。
京都大学の二次試験を受けた後、私は迷わず京都駅前の書店に寄って、この漫画を探しました。そして読み始めたら止まらず、わずか数日で既刊を全て買い込んでいました。
ローマ教皇の私生児――つまりキリスト教世界の異端児として生まれながら、その権威を後ろ盾にイタリア統一の戦いに明け暮れたチェーザレ=ボルジア。
惣領先生の手で浮かび上がるチェーザレ=ボルジアは、聡明で、傲慢で、計算高くて。けれどどこか憎めない、青年らしいやんちゃさを宿していて。
私はそこに、「悪人」というヴェールを脱いだ、ひとりの人間としての彼の姿を見た思いでした。
京都大学を卒業する時、私は卒業旅行の場所に迷わずイタリアを選びました。
自由行動の多いツアーを選び、フィレンツェへ、ローマへ。
彼ゆかりの場所を訪ね歩きながら、私はあらためて、この漫画が驚くほどのリアリティを持って再現されていたことを実感せずにはいられませんでした。
ボルジア邸の名残・スフォルツァ=チェザリーニ宮殿の前に立てた時の喜び。
ヴァチカンの奥、ボルジアの間に足を踏み入れた時の震えるような感覚。
いまも、目を閉じるだけでありありと思い出せます。
そんな作品が、幕を下ろすと知った時の衝撃は計り知れません。
私は単行本が出るたびに買う主義で、連載を逐一追ってはいませんでした。
だから、まさに青天の霹靂でした。
いまのペースで物語が進むならば、この作品は完結しないだろう。チェーザレ=ボルジアの死までを描き切ることは出来ないだろう。
だからきっと、未完の大作に終わるに違いない。そう思っていました。
けれど惣領先生は、道半ばで物語を畳まれるようです。
きっとこの決断に至るまで、多くの紆余曲折があったのだと思います。
16年の連載は、並大抵の苦労では無かったとお察しします。
けれども一読者としてわがままを言うなら、もっと見ていたかった。
もっと、彼女の描く人間・チェーザレ=ボルジアに伴走していたかった。
読んでみたかったシーンは山のようにあります。
女傑カテリーナ=スフォルツァとの対決。
シャルロット=ダルブレとの結婚。
弟ホアンの暗殺と、ルクレツィアをめぐる愛憎。
マキャヴェリとの対峙。
そして何より、栄華からの転落と、あっけない最期。
それらの物語が、もう永久に紡がれないということが、ただただ残念でありません。
私はまだ、最終話に目を通す覚悟がありません。最後の一ページがどうなっているのかも知りません。
けれどどういう形で終わるにせよ、「チェーザレ」は私の青春を彩った大切な作品です。
いまはまだ、突然の完結を受け入れられない。
けれどいつか、この切ない気持ちを胸に閉じ込めたまま、前に進もうと思います。
愛をこめて。