ずれたレンズで生きる
3年前、「セックスできなくてごめんね」とタイトルをつけてnoteを書いた。
「いつかわたしは、セックスをする日が来るのだろうか。
でも、その相手は優しいあの人ではない。
それがたまらなく寂しい。」
そう書いたけれど、そんな日はもう来ない。
私が、私自身を、アセクシュアルだと認めたから。受け入れたから。
私はアセクシュアルだ。
いままでも、これからも、誰かと体をつなげることはしない。できない。
そしてそれはなんらおかしなことではない。
長かった。かなり足掻いた。
長く付き合った恋人との関係の中で、避けて通れずに、もがいた。恋人であり、親友であり、家族のような大事な人が「セックスできない」ことを一因としていなくなってしまったことは根深くトラウマになって、それ以来ずっとぐるぐる考えていた。
でもどうしたって分からなかった。
なぜ、セックスが恋人との間に必要なのか、
セックスは愛情を測る指標なのか。
そのたびに戻りたかった。
何もできなくても、ただ隣にいることを許されていた中高生の頃に。
長い時間をかけて、ずっと燻っていた強烈な違和感と嫌悪感に、アセクシュアルという概念が結びつき始めた。
子どもが生まれる話。少子化の話。
小説や映画で2人が結ばれた後の話。
インターネットで話される性の売買の話。
性犯罪の話。
(小説や映画ででてくるものは、自分の世界と切り離したものとして読んだり、見たりできるし、多くの創作物を楽しめるが、同じ世界の延長線上の話として性犯罪や買春などの話を聞くにつけ、性欲をそこまでして満たしたい人間がいるのかと心底驚く。)
日常にセックスという単語が会話に出ることはほとんどないが、それは必ずある前提で話が進んでいく。ある前提で世界が回っている。
とても当たり前の顔をしてそこにいるから、まさか自分にその感覚がないと気づけなかった。
自覚してから、認め、受け入れるまでにずいぶん時間がかかった。
いままでもこれからもセックスしなくていいと自分自身を諦めること。許すこと。
だいぶ、だいぶ息がしやすくなった。
最近地元の本屋に取り寄せて2冊本を買った。
「ACEアセクシュアルから見たセックスと社会のこと」と「見えない性的指向アセクシュアルのすべて」
アセクシュアルと検索して上位に出てきた2冊。本を読むことが、まるまる自己理解になるとは思っていないが、今まで目を背けてきた自己理解の一助とはなってくれると思う(おすすめの本、論文、映画などあれば教えてほしい)。
アセクシュアルかもしれない、と気づいた時に
世界を見るレンズがずれた。
正しく表現するなら、私が今まで生きてきた世界を見るには、私のレンズではピントがあっていなかった。
だけど、このずれたレンズが私の生まれ持ったもの。
私の生きてきた世界に無理矢理レンズをあわせていくのではなく、少しずつこのレンズに私の生きていく世界をあわせていけたらいいと思う。
2024.9.24
自分への区切りとして