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ストーリー作法の基礎⑤ストーリーと"逆転"(受け手は「意外な展開」には感動しない)

 「共感」や「感動」などという言葉を使うと、若い創作家志望の読者の中には、「ダサい」と思う人がいるかもしれません。そんな方には「では孤高に自分の道を行け」と言うこともできます。しかし、それでは若者をわざわざ破滅に追いやるようなものなので、少し本題を離れますが、筆者が敢えてこれらの「ダサい」言葉を用いる理由を、以下に説明します。

 この連載では、いわゆる「純文学」や「作家の映画(アート映画)」特有の「技法」や「スタイル」に惹かれる人々の特殊な需要を度外視しています。かつて、世界の先進国が順調に経済成長を続けていた時代には、そういうタイプのフィクションにも作者たちが十分「食っていける」だけの需要があったのかもしれません。しかし今や、その時代は完全に終わっています。そして今後、受け手の登場人物に対する共感や感動といった要素を無視して自分の「美学」や「哲学」だけで突っ走るフィクションには、その作者が「食っていける」だけの需要は絶対に生まれません。なぜなら、純文学やアート映画を経済面で支えていた受け手の層(中産階級)も、その背景にあった19世紀的な芸術観も、もはや文化産業の中で一つの自足したジャンルを維持するほどの力を持っていないからです。

 分かりやすい例を挙げましょう。日本の「純文学」畑出身の作家で、好調に読者の心を掴み続けている作家たちは、最近どんな小説を書いているでしょうか? 文体が平易で、プロット構成が凝りすぎておらず、少なくとも物語の出発点においては日常的現実からかけ離れておらず、主要な登場人物の中に必ず平凡な市民がいて彼らの視点が示されているような作品です(例えば、島田雅彦、平野啓一郎、村田沙耶香の諸作品)。ちなみに、世界に目を転じても同じ傾向が見られます(カズオ・イシグロの諸作品など)。

 では、エンターテイメントとしてのフィクションと芸術としてのそれとの境界は失われたのでしょうか? それは全く違います。

 前回、『オイディプス王』のストーリーとプロットの相違の分析を通じて述べた時に気づかれたと思いますが、古くからあるストーリー作法上の技術は、熟慮して用いることで芸術的効果を上げることができます。受け手の登場人物への共感を促しつつ主題(テーマ)を強調するようプロットを構成できれば、そのフィクションの作者は、そのことだけでも、その作品はただの「エンターテイメント」とは一味違うと主張することができるのです。
 つまり、フィクションの創作においては、通常ストーリーと呼ばれる出来事の連鎖をプロットとして再構成する作業自体に、芸術的手腕の巧拙が問われることになります。『オイディプス王』のようにその芸術性に関して時の試練によって異論のない作品でそうであるのに、登場人物への共感やストーリー自体に対する感動という芸術的「効果」の方を否定する理由が何かあるでしょうか? しかも、そのような「効果」は作品の需要も高めるというのに?

 さて、ここからが今回の本題です。
 読者や観客の登場人物への共感やストーリー全体から受ける感動が、決してフィクション作品の芸術性と矛盾するものでないことを納得してもらえたとして、次はそのストーリーに「娯楽性」を与える方法について考えてみましょう。フィクション作品のストーリーを「面白くする」にはどうしたらよいでしょうか。
 誰でも真っ先に思いつくのは、「意外な展開」(「どんでん返し」)が含まれるようにプロットを構成することでしょう。

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