メンバー自己紹介② 権藤 有作(Part1)
お世話になります。権藤 有作(ごんどう ゆうさく)と申します。
誠に僭越ながら、自己紹介をさせていただきます。
特徴
身長は179.4cmです。
体重は73kg前後です。
長所は利他主義なところです。
短所も利他主義なところです。
自己診断ですが、たぶん軽度の強迫性障害です。
数字への変なこだわりがあったりなかったりします。
その他にも変なこだわりがあったりなかったりします。
ロケット鉛筆
3大欲求の中では食欲が1番強いです。
パクチー以外は何でも食べられます。幼虫もサソリもタランチュラも。
誇れるほどのことではありませんが、トンカツを3時間ずっと食べ続けたり、900gのパスタを18分で完食した4時間後に焼肉食べ放題に行って人並みに食べることくらいはできます。
マイブームは牛丼をおかずにしてごはんを食べることです。
ただ、ロケット鉛筆のように食べたらすぐに出すので、燃費は最悪です。
趣味
食欲だけでなく、好奇心も旺盛で基本的に何でも楽しめる私は、たくさんの趣味があります。
その中でも、特に時間とお金を費やしている2つの趣味をご紹介します。
ファ
1つ目は、ファッションです。
好みのジャンルはハイファッション系やモード系。
”はずし”を取り入れて遊びつつも、配色やサイズ感などを意識してコーディネートに説得力を持たせることにこだわっています。
なぜその日にそのコーディネートにしたのか、なぜそのアイテムをそこに取り入れたのか等、”説明できるコーディネート”を目指しているので、そのためなら世代も性別も気にしません。
祖父の遺品はもちろん、祖母や母のお下がりも使います。
スカートも穿きます。
どうしても奇抜になってしまうことが多いため外に出ると周囲の方々からめっちゃ見られますが、ただの道でもランウェイだと思って歩いているのでその視線が痛気持ち良くてたまらないんです。どうぞお気軽にご覧ください。
フィ
2つ目は、フィッシングです。
魚釣りは私にとって「この世で最も快楽を得られる、人生で必要不可欠なもの」です。
特に磯からルアーを投げてデカい魚を釣ることにロマンを感じていて、
トップウォータールアー(水面をバシャバシャと泳ぐ疑似餌)にヒラマサが喰ってくるあの瞬間は、思い出しただけで脳汁が出てきます。
また、釣った魚を自分で捌いて、お造りにして、お世話になっている方々に提供して喜んでもらうところまで含めて、魚釣りを愛しています。
というか、喜んでくれる人がいなければここまで釣りにハマっていなかったと思います。謝謝。
前置きが長くなってしまい申し訳ございません。
ここから本題に入りますが、できるだけ頭を使わずに生きてきたため、事実ベースの文章をダラダラ書くことしかできません。ご容赦くださいませ。
経歴
出身は兵庫県宝塚市。
2002年6月20日、韓国国籍?・日本育ちの父(経営者)と日本国籍・日本育ちの母(薬剤師)のもとに誕生しました。よく分かりませんが、なんか一応 日韓ハーフらしいです。(父と母は、私が小1の頃から別居、中3の頃に離婚していた気がします)
3人兄弟の末っ子で、8歳差の兄と5歳差の姉がいます。
「価値の”有”るものを”作”る人になってほしい」という想いから、この名前が付けられたそうです。
幼少期
幼少期は川での魚捕りや、お絵描き・レゴ等の図画工作が大好きでした。
年中の頃に始めたサッカーは小学6年生まで続けました。
また、ゲーム好きの兄の影響でモンスターハンターやメタルギアにもハマっていて、将来の夢は「雷電」(メタルギアに登場するクソかっこいい軍人)になることでした。(今でもなりたい)
家庭の事情で、宝塚市の自宅から東大阪市を経由して伊丹市(宝塚の隣)の幼稚園に通っていました。(片道約80km)
朝6時すぎに起こされて、母の運転で3時間弱かけて登園し(母大変)、放課後は送迎バスで退園していました。
小学校低学年
宝塚市立中山桜台小学校に入学。
1年生の頃は、東大阪に住みながら宝塚の小学校に通っていました。
毎朝6時半起床。通学時間は往復3時間弱。放課後は東大阪へ即帰。
そんな生活だったため、放課後や休日に友達と遊んだ記憶はほとんどありません。一人でDSやPSPのゲームをしたり、「ロード・オブ・ザ・リング」「硫黄島からの手紙」という刺激が強めな2本の映画を繰り返し観たりしていました。
とはいえ友達がいなかったわけではなく、授業中に図鑑を見ながら描いたカワセミの絵がクラスメイトの女の子に賞賛され、複数人から「弟子にして」と言われるほどの人気があったことは覚えています。(まさかの師弟関係)
2年生からは宝塚に住みながら宝塚の小学校に通うことができ、極めていたモンスターハンター3rdの通信プレイがきっかけで友達が増えました。
また、この頃はミリタリーが好きだったので、将来は自衛官になりたいと考えていました。(日本男児の鑑)
小学校高学年
4年生の頃、兄は17歳で世界一周の旅に出ていました。
5年生の頃から姉は高校生で寮生活を始めていたので、私は宝塚で母と2人、最高7匹の野良猫と暮らしていました。
相変わらず放課後は友達とゲーム三昧でしたが、休日は姉の部活の応援で母と一緒に全国各地を巡っていました。
大会は関東で開かれることが特に多く、宝塚市の小学生の中で東京行った回数一番多いんちゃうかってくらい、よく訪れていました。
珍しく家族4人が揃ったタイミングには、島根県の離島「隠岐島前」を旅行していました。(私が物心つく前から、島後も含めて隠岐にはよく行っていたらしいです)
この頃に隠岐島前地域に高校があるということを知りましたが、まだ小学生でしたし、県外在住の自分には全くの無関係だと思っていました。
また、写真を撮る習慣が身についたのもこの頃で、フリーランスでカメラマンをやっていた兄から一眼レフカメラを貸してもらったのがきっかけです。
6年生の頃は、誕生日プレゼントとして買ってもらったロードバイクが体の一部となっていました。
初めての自転車一人旅で目指したゴールは、友達の家がある奈良県橿原市。
当時スマホを持っていなかった私は、関西の地図帳と道路標識を繰り返し確認しながら、65kmの道のりを半日かけて完走しました。
どうでもいいのですが、この頃は人生で唯一の勉強にハマった時期でもあり、「塾通ってないけど成績は学年トップ」というのがアイデンティティでした。しかし、小学校の卒業直前にスマホを買ってもらってからというもの………
中学時代
宝塚市立中山五月台中学校に入学。
憧れの帰宅部に入部。
自称自転車バカ。
放課後はひたすらサイクリングと登山をしていました。
母が夜遅くまで働いていたため自炊も始めて、ほとんど一人暮らしのような生活を送っていました。
体育大会の日も文化祭の日も弁当を自分で作ったのは良い思い出です。
ロードバイクへの愛は日に日に増していき、2年生の夏休みには、宝塚の実家から姉が住んでいる東京の多摩まで行くことを決意。
その翌日に出発し、猛暑の中7kgほどのリュックを背負って、約560kmの道のりを4日かけて完走しました。
その秋には「1日で宝塚から名古屋へ行くことはできるのか」という好奇心に駆られ、授業をサボって名古屋へ。
「学校行っとけば良かった…」と後悔するほどキツい道のりでしたが、何とか14時間かけて約180kmの道のりを走り切ることができました。
3年生の春、全国統一中学生テストを受けたくなかった私は、思いつきで福井県の敦賀へ行くことにしました。(ただの反抗期)
真っ暗な夜の山道を爆速で走るトラックに何度か轢かれそうになりながらも、これまた14時間でゴールに辿り着くことができました。
そんなこんなしているうちに受験生になっていた私は………
Part2へ続く
ごめんなさい!!
あいにく文章力も思考力も持ち合わせていないため、想像以上にボリューミーになってしまいました。
高校受験以降の出来事は次回書きますので、そちらも読んでいただけると幸いです!