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物語における普遍性とは〜ヴェルディ「マクベス」(東京フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会)

オペラ方面の知人に声をかけてもらい、東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に行ってきた。幸いなことに3日間の公演のうち2日も、美しい音楽の恩恵に浴した。

通常、オペラの演奏会は歌手が譜面を立てて歌うことが多いが、今回は照明や「簡単な」演出が付いていると事前に聞いていた。当日を迎えてみると、これのどこが「簡単」なのかというくらいの演出が付いていた。アジアを代表する指揮者チョン・ミョンフン氏が自ら指示した部分も多いと聞いた。長時間にわたる作品でも視覚的な仕掛けでオーディエンスを飽きさせない。主役の2人も素晴らしかったが、個人的には脇を固めるバンクォーとマクダフの歌手に感激した。マエストロはエネルギッシュで、2日目のサントリーホールでは途中指揮棒が吹っ飛んで、恥ずかしそうに指揮を続けながら拾いに行ったハプニングがチャーミングだった。

演目はヴェルディのオペラ「マクベス」、言わずとも知れたシェイクスピアの名作の一つだ。英語が専攻だったことに加え演劇少女だった私は学生時代からシェイクスピアに親しみ、「マクベス」も何度も読んで、折に触れて観劇をしてきたが、ヴェルディのオペラは初めてだった。

魔女と妻に唆され野心に駆られたマクベスが、王を殺害し、次第に破滅していくという物語。「マクベス」の主役はマクベス夫人だと言う人もいる。何故ならその存在感は主人公マクベスよりも強烈で、彼女が居なければ物語自体起こらなかったからだ。私も長くそう思っていた。しかし今回の演奏会を聴いて、やはり主役はマクベス本人なのだと思うに至った。マクベス夫人は絶対的な悪役で、これはマクベスの野心と破滅の物語なのだ。一貫して変わらぬ夫人より、感情と人生が乱高下するマクベスこそが人間らしく、共感を呼ぶ。

今回、シェイクスピアについて改めて考える機会となった。時は1600年代、後世に残る劇作家のうち、これほどまでに女性を強く描いた劇作家がいただろうか。オペラやバレエの作品で喜劇でないものは、誤解を恐れずに言えば「クズ男と薄幸の美女」の構図が大半を占める(ような気がする)。そんな物語は作品としての価値はあっても、現代女性の共感は得られないだろう。しかし多くのシェイクスピア作品に男尊女卑や男性目線のファンタジーといったようなアンバランスを感じない。だからと言って女性礼讃でもなく、人間を観察する視点がフェアなのだ。マクベス夫人の芯の強さや、野心や毒は、だからこそ現代においても女性の共感を得る。シェイクスピア作品の普遍性を再認識した。

知らない世界、知らない感情を物語に織り込むことは多くの作家にとってチャレンジだ。自分の性別、環境、生い立ち、バイアス、全て糧になる一方で、それに囚われてしまっては立体的な物語は書けない。経験を足で稼ぎ、想像力の翼を広げ自分自身から飛び立って、より高い目線から物事を注意深く人間を観察すること、それが物語の普遍性をもたらすのだと思う。人間らしさそのものが普遍的なのだから。

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