個人的な死とネガティブ・ケイパビリティ、人との繋がりの話

西先生のことは、偶然こちらでお見かけしました。
忘れもしません。平日の朝4:30、何気なく見始めた当動画。
そもそも当チャンネル自体を存じ上げなかったため、
「この人達は一体何者なのか…?」「お誕生日なの??」と心の整理がつかないまま、話に入っていきました。
もし見られていない方がいらっしゃいましたら、先生の素敵なイラストも見られますので、大変おすすめです。

とても響きました。
亡くなった家族のことを思い出しました。
ベッドサイドに座って話すということが、どれくらい肉体的・精神的にダメージを受けることであるか、思い出しました。

非常に不可解だったのは、
過去の経験から「死」というものを極力遠ざけて暮らしてきたのに、
なぜ、今、こんなにも「死」という話題に興味を持っている自分がいるのだろうかと、とても不思議でした。

「死」を考えることは、よりよい「生」を考えることだった

そして、すぐオススメされていた通りにAmazonで購入して拝読しました。
あとがきのところで、納得したのです。

「尊厳のある死」を達成するために必要なのは、本当は「尊厳のある生」の達成のはずだ。それを「死なせる」ことによってしか達成できないという議論は、フォーカスがずれてしまっているのではないか。

よりよく生きていきたい、
漠然とした言葉になりますが、そういう思いが最近強くなって、

「死」が独立して切り取られた悲しみ100%のイベントではなく、
「生きる」ことの一部分として考えることで、逆に「生」が輝く

無意識にそう感じて興味を持ったのかもしれません。
個人的な過去の強烈な1つのイベントという認知ではなく、はじめて「点」が「線」になり、抵抗感や恐怖心が減ったのかもしれません。
だから、今、私は「死」について考えたいのだと納得しました。

ネガティブ・ケイパビリティ

こちらもまた個人的な話になるのですが、
私の仕事は、非常にネガティブ・ケイパビリティが必要になります。
新しいメンバーを選ぶとき、「白でも黒でもない、グレーを受け止められる人をアサインしてください」と言うことが多いです。
「なんでこんなことも決まってないのですか?」
答えがあるはずだと考える人からは、そんなセリフを言われたこともあります。
「全部に答えがあれば楽だけど、そうじゃないこともある。だから一緒に考えよう?」
そうやって一歩ずつ進む。
資本主義の土俵で戦っているので、果たして本当にこれが正しい姿なのか?というところは一旦置いておくとして、その曖昧さを需要する能力の大切さは身に沁みています。

今回「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を学んだことで、
すっと気持ちが楽になり、ああこういうことだったのかと腑に落ちました。
ビジネスのシーン以外、例えば子育てにも通じる概念だと思います。
もっとたくさんの人がこの言葉を知って、生きやすくなればいいのに。

現代における人との繋がり

子育てをはじめてから、
人に助けてもらうこと、家族以外の人と繋がることの大切さを身にしみて体感しています。

10kgの子どもを片手で抱きながら、荷物を積んだベビーカーを押して電車から降りなければならない状況になってしまったとき、
できると思ったけどやってみたら越えられなかった電車とホームの間。
こんなこともできないのだと感じる無力感。その状況を脱せたのは、その日たまたまそこにいた「知らない人たち」が手を貸してくれたからです。

毎日って本当はそういうことの積み重ねなはずなのに、それを子どもを持つまで気が付かず生きてきました。一人で何でもできる、自分で何でもできる、昔そう思っていた自分が思い出されます。

孤独

最期でも同じだと思います。
誰かと繋がっているという感覚の大切さ。
本書にあった携帯電話のエピソード、人は最後の最後まで誰かと繋がりたいのだという強烈なエピソードでした。
もっと気軽に頼り合う、そんな関係性が現代に根付けば「生」も「死」もきっと輝くのかな、なんて思います。

まとめ

・ネガティブ・ケイパビリティという新しい言葉
・人と人との繋がりの大切さ
・小説ではなく、現実に存在する医師の方が今この時代にご活躍されているという事実
大変励みになりました。

ワーキングマザーである私は、何ができるでしょうか。
新しいヒントをたくさんもらって、また明日から歩みを進めたいと思います。

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