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劇場版スタァライト考察:メソッド演技法とメタ演出

まえがき

 映画館での公開が終わる頃にはもう一本くらい考察が書けたらいいなぁと悠長に考えていましたが,流石に円盤が販売されそうなので急いで劇場版スタァライトに関する考察を挙げることにいたしました.イオンシネマ海老名がついにラストランを終えたとはいえ,現在進行系での公開している映画館がある状況には驚かされるばかりです.大小のイベントを含めてスタァライト関係者各位の情熱には目をみはるものがありますが,それを数ヶ月に渡って営々と追いかけているわたし自身にも驚いています.レヴュースタァライトは観客にそれくらいの熱量を与えてくれる素晴らしい作品であると改めて断言できます.

 さて今更,何を考察するのかということですが,考えてみればわからないことが何もないのです.劇場版スタァライトは観ればわかる作品であって,究極的に要約すればおおよそ以下のようなものになるでしょう.

 「ワイルドスクリーンバロックとは9人が卒業するための新たな舞台であり,トマトは観客から役者へ渡される舞台へ立つための糧である.これらを食らう覚悟を決めた9人は塔を降りそれぞれの人生を歩む.」

 どれだけぶっ飛んだ内容であっても,言語化できようができまいが,あるいは,納得できようができまいがこれが卒業の物語であることはわかってしまうのです.もちろん,ここでいうわかるとはキリン的な意味なのでわかった気になっているだけですが,そう考えたときに疑問となるのは観客は一体何を観て何をわかったのかということです.結論は舞台少女に感情移入していたということなのですが,困ったことにそこに働く力学を解き明かすことはメタ的な考察であると同時に作品内部の考察にもなります.なぜなら,キリンが言うようにレヴュースタァライトの舞台自体が観客の求めに応じたものである以上,(劇場版では特に)メタ演出が繰り返し出てくるからです.ここにケリをつけないと私にとってはスタァライトの考察を終われないと感じたので,一つ書いてみることにしました.

魂のレヴューについて加筆しました.

メソッド演技法とスタニスラフスキーシステム

 メタ視点の考察では概して,作品外部の知見を使って作品を解釈することになる.しかし,わたしはここではできる限り作品内部のモチーフを使ってメタ考察を構築していきたい.もちろん,完全に作品内部の言葉だけで説明することは不可能ではあるのだが,レヴュースタァライトは作品内のモチーフが明確なのでそれらの題材を紐解いていくことで自然と内側から外側へ向かう方向を持った考察が可能になると考えている.その第一歩としてメソッド演技法について触れていきたい.いっちょ前に語ってはいるが,わたし自身は演技経験もなければ演技論を修めたこともないのでメソッド演技法自体の記述に関する正確性は保証できない.書いてある内容に間違い等あればご指摘いただきたい.

大事なのは大きな視点を持つことです.
自分自身の役を演じるのはこの一番小さな円.
大局的な視点から舞台を見ることで自分の役割をより客観的に捉えることができます.

芸術論の先生,TV版2話

 TV版の2話でちょうど純那が過労で倒れた後のシーンで上記のようなA組の授業風景が描かれる.この時の黒板の文字を見ると,不鮮明ではあるがメソッド演技法について触れられているらしい.舞台役者を目指す学校の授業の題材として芸術論におけるメソッド演技法は妥当なものだろう.実際,純那の部屋の机にはメソッド演技法の教科書が置かれている.

 では,ここで言ってるメソッド演技法とは一体なんなのであろうか.メソッド演技法はアメリカで発展した実在する演技のための方法論である.ロシアの演出家スタニスラフスキーによって提案された役者の演技訓練法(スタニスラフスキーシステム)がアメリカに導入されストラスバーグ,アドラー,メイズナーらによって発展されたと言われている.演劇のみならず,ハリウッドスターなどが数多く実践しており,有名どころだとマリリン・モンロー,最近ならトム・ハーディマッドマックス 怒りのデスロードの主役)あたりがこれに基づいて役作りを行ったと言われている.よりリアリスティックな(現実的な)表現を目指して,演者の経験や感情を元にキャラクタを構築し,舞台上で適切な役割を作り上げるための訓練法とされている.実際の演技を行う瞬間に対して,それ以前の準備段階にも注目していることが特徴で,まさに役作りとはなにか役者が演ずる上で何をすべきかについて考えられている.平たく言えば役者自身の経験や記憶を利用して,すなわち気持ちを込めて,役を作ることを要求する演技法である.Uber Eatsを普段よく使い観察している人は,その演技もうまくなれるかもしれないという感じである.ちなみに,スタニスラフスキーは舞台#3で純那が引用している人物の一人である.

 メソッド演技法自体は演劇界で広く知られた概念であり,ひかりが留学していた王立演劇学園のモデルとなった王立演劇学校(RADA)の授業にも取り入れられているらしい.そのためその役者が自らの経験をもとに役を生きるという方法論は多くの舞台モノの演出上のモチーフとして生かされており,役者の感情と状況を役にリンクさせることでキャラの深堀りを図る場面に使われることが多い.今年公開された作品ではかげきしょうじょ!!ゲキドルがまさにそれで,キャラが課題として演じる劇によってキャラクタの過去や内面を掘り下げることで,魅力的なキャラクタ造形を効果的に演出している.かげきしょうじょ!!では演劇講師の安道先生(あだ名がファントムで声が諏訪部!)はスタニスラフスキーシステムとメソッド演技法を授業で取り扱っている.また,ゲキドルでは各話のサブタイトルが実在する戯曲の題名から取られているが,2話サブタイの元ネタである欲望という名の電車はブロードウェイで上演されていた同名の作品を映画化したものである.この作品はメソッド演技法がハリウッドの銀幕に持ち込まれた最初期の映画の一つとして有名で,当該話のテーマとも関係している.どちらもスタァライトと対比してもあるいは独立に観ても,どちらの観点でも面白い作品たちである.

 だがレヴュースタァライトにおけるメソッド演技法の現れ方は,他の2つとは違いかなり特異的である(他2つもそっちはそっちで特異的だけど).レヴュースタァライトでは主にキャラクタを中心にして外側への遠心力として働いている.それを見ていこう.

第4の壁:注意の環と人前での孤独

 メソッド演技法では役者自体が経験や感情,感覚といった要素をその役に演ずる上で必要な引き出しとして持っていること,そして舞台上での自分の役割を認識してそれを発揮することを求める.そのためには,役者自身がその経験や感情または感覚の記憶を保有していることに加えて,その役割を客観的に想像できなければいけない.その点が先程,引用した芸術論の講義でのセリフにおいて表されている.

 その役者の主観性と客観性を表す概念としてメソッド演技法の前提になっているスタニスラフスキーシステムでは注意の環”Circles of Attension”とそれを応用した人前での孤独"Solitude in Public"という言葉で説明がなされる.これは授業中に黒板に描かれていた大中小の3つの円の図と関わりがある.

舞台と円

一番小さな円は,演者周辺の極めて限られた範囲のことを示しており,演者自身が自己の内面に注意を向けている状態である.一方で中くらいの円は演者周辺の他の演者や小道具に注意を広げている状態を表している.そして,最後の円は舞台全体を表している.だがときには,広大な砂漠の上のように地平線で遮られた役者が知覚できる限界まで注意を広げることもある.このような段階的な演者の認識構造を注意の環と呼ぶ.そして,人前での孤独とはこの注意の環を利用した第4の壁からの認識の切り離しを表している.第4の壁とは舞台と観客席を隔てる劇場の見えない壁のことであり,この存在によって客席から連続的な空間である舞台上が演出次第で何でも起こる非日常空間へと転換される.だが,演者が壁の向こう側にいる観客を意識してしまうと,演者は観客からの視線によって緊張状態に陥りそれが原因で役に入り込めない場合がある.それを防ぐ方法が人前での孤独である.観客の前でも,適切な注意の円に注意を向けることで,大きい円の向こう側,第4の壁から距離を取り舞台における緊張から解放される効果があるとスタニスラフスキーは言っている.しかし,小さい円にのみ注意を向けてしまうと,舞台全体における自分の立場が観えなくなってしまうので適度に大きくするなど,この注意の環を制御することが大事であるとスタニスラフスキーは見なしているようである.おそらくこの話は身体性の記憶とともに第3話における芸術論の講義で触れられており,実際に第4の壁とおぼしき言葉が黒板に書かれている.

 古川監督自身が劇場版はヤンキー映画であると主張しているように登場キャラ達の感情というテーマは劇場版でより一層強調されている.レヴューは作中における劇中劇の側面がある以上,キャラ達の自己の内面への注意,あるいは感情の記憶や経験は作中で一つのテーマになっている.
 例えば,劇場版の冒頭でクロディーヌが洗濯室のなかで読んでいる雑誌のタイトルはスタニスラフスキーと同時代の1900年代初頭に活躍したバレリーナであるアンナ・パヴロワの言葉である.

”Where there is no heart there is not art”
気持ちを込めてこそ芸術になる

アンナ・パヴロワ

この言葉は劇場版全体の方向性を象徴している言葉の一つであり,後の魂のレヴューにおける真矢クロディーヌの対決を暗示させる言葉である.
 また,競演のレヴューではまひるからひかりへの言葉や歌詞で「ちゃんと演技してよ」といった演劇への姿勢の指摘ともに「こころさらけ出したら」や「こころ込めてよ」といった内面的指摘がある.これがメソッド演技的な意味であることが明白であると同時に,第3話では授業内容に翻弄されている感があったまひるが今度はそれをひかりに要求する点においても彼女の成長が感じられるポイントである.さらに,踏み込んで言えばレヴューとはあくまでも劇中劇でありまひるひかりへの大嫌いという感情の吐露は演技だったわけであるが,メソッド演技法的にはその演技にはまひるの怒りを引き起こした経験が必要であってレヴュースタァライト全体でそれがいつ生じたかという考察が可能なのである.メソッド演技法自体はキャラクタとキャストを同一化することは要求していないし,実際にあの場面でまひるひかりに感じていた感情を嫌いの一言だけで解釈すべきではないが,まひるの感情の記憶を生んだ経験は推測できるのだ.ただし,キャラの内面の考察は今回の範疇ではないのでこれ以上はやらない.

舞台の怖さ

 そして競演のレヴューや華恋ひかりのレヴューでは舞台に立つのが怖いという意味の演出がなされている.競演のレヴューが劇場の舞台裏を模した空間でジャパニーズホラー化するのはその典型である.そして,何よりこの恐怖は原理的に第4の壁の向こう側が引き起こすものである.注意の環を制御することで演者は自分の役へ入り込むことができるが,根本的に観客の存在が消えたわけではない.そのため,開演前や場合によって舞台上でその注意が広がったときに,その恐怖は蘇っていくるのである.実際,スタニスラフスキーはそのような場合があるとして,小さな円を活用して自己の内面へ注意を向け第4の壁の向こう側への意識から切り離すことで緊張を解放することを求めた.

 競演のレヴューにおける恐怖は役を作り上げるという行為に対する共演者の視線によって引き起こされている,そして華恋ひかりのレヴューで華恋が気づいた恐怖は観客の視線によって引き起こされている.中くらいの円における恐怖が徐々に拡大し最終的に第4の壁を超えた結果生じたものである.レヴュースタァライトでは注意の環が緊張を解放するためのキャラクタの内面方向ではなく,緊張を強いるための舞台の内側から外側への遠心力として働いているのである.それが観客に作用したのが(演出として古典的な手法と言えるが)第4の壁の破壊であって,非日常空間を現実と連結することで観客に衝撃を与える効果を生む.すなわち,第4の壁の破壊によって観客が観客自身に注意を向けざるを得なくなるのである.ここに華恋と観客の恐怖という感情の連結がある.華恋の感じる恐怖と観客の驚きを第4の壁越しに同じ物として結合することに成功しているのだ.

 一応念押ししておくが,メソッド演技法を使った演出や第4の壁の破壊といった手法自体はもはや珍しいものではない.スタァライトの面白さはその観点で見えてくる作品内部の構造にあるとわたしは思っている.作品内に注意の環の拡大があり,それによって第4の壁の存在が必然化されているのである.わたしがこの考察を書いている理由は「劇場版を観てわかったこと,すなわち感じたことが一体何だったのか」という疑問を解くためであった.この次節から舞台少女の注意と観客の注意をこの第4の壁越しのやり取りとしてとらえ作品全体の構造を考えていく.

そう,申し訳ないがメソッド演技法云々は前置きで本題はこれからなのだ.

モチーフの再解釈:トマト,WSB,円と線

 それでは,劇場版における象徴的なモチーフであるトマト,ワイルドスクリーンバロック,円と線で構成されたロゴをメソッド演技的に再解釈していきたい.いずれも抽象的な形象であってよくわからない類のものであると同時に,印象的で劇場版を語る上で避けて通れない類のものである.劇場版が文字通りの意味で観客が望んだものであるように,これらのモチーフは明確に第4の壁の向こう側から来たものである.こうした観客と舞台少女の関係を注意の環の拡大として捉え,観客の注意を成立させているシステムとして明らかにしていきたい.

トマト

 冒頭から爆発してインパクト大な存在であるが,なぜトマトなのかはかなり難しい.例えば,アメリカの映画批評サイトRotten Tomatoesの元ネタである観客がつまらない芝居に対して投げたとされる逸話に基づいているという説やイギリスでは二日酔い対策の向かい酒としてトマトカクテル(野菜スティックさしたりしてカラフルなカクテルもある)を飲む習慣に基づいている説なんかがSNSでは観られる.一番有力な説はキリスト教的某果実にインスパイアされた説だろう.トマトの学名=狼の桃やアルチンボルドキリンの喉仏Adam's Appleにあるトマト,意味深に置かれるネクターとの関係など少し熱心に調べればわかりやすいものばかりである.だが結局のところなぜトマトなのかはいくつも解釈があってしかるべきで答にはたどり着けない,そこでトマトが何であると説明されたかと考えれば舞台少女の覚悟と星罪に対して与えられる観客からの糧であろう.これを古川監督は共犯関係と言っている.言葉にしてしまえばシンプルなものだが爆発したり,死人が出たりするからインパクトがでかい.トマトは舞台の幕が降りた時に第4の壁を超えて舞台少女へ捧げられる完成美を称える感謝の印なのだ.だが華恋以外の8人はキリンからトマトを渡されている一方で,華恋だけは最終的にひかりから渡される.ここに,舞台少女における演者と観客の多重性がある.

 5歳の時のスタァライトの観劇と約束,赤い2つ星と二人のバレッタ,上掛けのボタン,運命の舞台と約束タワーそしてトマトはいずれも,二人の幼少期から今に至る舞台に立つ情熱と執着そのものを表している.トマトを除けばいずれもTV版ですでに示されていたことであって,劇場版ではトマトを交えて新しい側面を示される.すなわち,循環的だが同一ではない再演がここにあるのである.スタァライトが示す再演性は多岐に渡るが,ここでいう再演性は観客だった少女が舞台少女になって舞台女優を目指す構造である.華恋ひかりの回想では舞台の上に立つ二人を幼少期の二人が見つめるという役者と観客という構造が繰り返し表れる.これは舞台で演技をする上で必要な感情と情熱自体が,幼少期にスタァライトを観た経験と記憶によって生産されていることを表している.すなわち,幼少期に観たスタァライトで生産された感情を原点に現在のスタァライトの演技が行われている.この循環性を元にTV版の12話と劇場版のレヴューは観客と役者を入れ替えながら構成されている.TV版では華恋ひかりの舞台へ飛び込むことで,ひかりを約束の舞台へ立たせたように,劇場版では華恋のファンに成りたくなかったひかり華恋の目を焼くのである.それを経ることで華恋は感情と情熱を新たに経験し次の舞台への向かうためのトマトを受け取れるのである.これは言い換えれば,舞台少女の存在にはキラメキを振りまくスタァが存在するという因果とその循環があるのである.トマトは単純な観客と役者の一方向的な共犯関係を超えた因果論的循環の構造もふくんでいるのである.舞台少女の死と復活の構造はこの観客と演者の入れ替わりにある.

 余談ではあるが,このような因果論的構造は現在スタリラの新章ストーリーで展開されているようである.脚本の樋口さんのスタァラジオの口ぶりを聴いたわたしの勝手な推測では,どうやら劇場版でできなかった因果論的なプロットがスタリラで展開されているフシがある.ストーリーだけなら今からでもできるので興味があれば是非.

ワイルドスクリーンバロック:WSB

 ではワイルドスクリーンバロックを使ってもう少し観客よりの考察もしておこう.ワイルドでスクリーンなバロックはおそらく元ネタはワイドスクリーン・バロックであり,意味は野性的でハチャメチャ劇場版が第4の壁を超える話であるというのはいろんな人が考察している通りである.だが,わたしはWSBが観客への言葉であるということを重要視したい.

 何もわからないひかりの問いにキリンが答えたようにワイルドスクリーンバロックとは,わがままな観客が望んだ終わりの続きであって,劇場版で出現したこれまでのオーディションとは異なる新しい舞台なのである.これは明らかに舞台少女ではなく映画を観る観客に向けられた言葉なのである.そもそも,元ネタのワイドスクリーン・バロックもその元ネタであるバロックもジャンルを表す言葉であり,作品を区別するために作られた観客のためのものである.バロックとルネサンスとマニエリスムに基づいて考察するのは観客が享受できる贅沢であって(ものすごく楽しいけど),キャラクタのものではない.そのためWSBとは,今から殴るので観客の皆さん覚悟してくださいくらいの意味だと,わたしは思っている.問題は一体どんな棍棒で殴られるのかである.

 ワイルドとは舞台少女の瑞々しさと気高さと卒業という状況を表しているとすれば,観客が想起させられる感情とはこの部分にこそある.メソッド演技法云々のあたりから,ひたすら感情,記憶,経験,そして注意と言ってきたが,観客がまさに注意を向けなければならないのはここにあるのだ.役者が自らの経験によって役を生きるのであれば,我々観客は受け取った役の感情によって自らの人生を進まねばならぬではないか.そこに作品による注意の誘導がある.

”あなた今まで何 見ていたの?”

ペン:力:刀

 また観るという行為自体は舞台少女にとっても本質的なものである.星見純那が8歳の頃に観たスタァライトによって舞台役者を目指したように,観劇は情熱の根本的な引き金でもある.また,4話でひかり華恋の通話において「新作を見たら同じ数だけ古典見なさいと言われた」とあるように演技を学ぶという意味でも重要な側面がある.そのような意味でも狩りのレヴューでの”ペン:力:刀”の歌詞にある言葉は純那から舞台少女:大場ななへの煽りとしてはとても際どいものがある.初歩すらできてないと言っているようなものである.ここに舞台少女にあるためにはまず観客であらねばならぬという原則がある.結局,ワイルドスクリーンバロックも観客への言葉であると同時に循環的な構造の中では舞台のためのものでもあるのだ.

円と線

 循環やら再生産,再演という反復構造を見出してきたので,円と線の考察へと入っていきたい.聖翔祭やロロロのロゴなど円と線のモチーフはスタァライトでもよく出てくる.それまでTV版では円と線はそれぞれ舞台と塔を表していたがこれが劇場版では一歩進んで車輪と線路へと変わっている.電車が人生のメタファーとしたらスタァライトの舞台が終わり,舞台少女が卒業して舞台役者になるというシンプルなプロットを表している.

ちなみに,劇場版のロゴは劇中で出てくるようにロンドン地下鉄のロゴに着想を得ていると(皆さん同意頂けると思うが)わたしは思っている.その場合,円と線はシンプルに車輪と線路で人生のメタファーである.

 では一旦戻って,円と線は舞台と塔としてそれ自体は何を表しているのか.それはもう注意の環そのものである.

”ひかりの輪の中では,暗闇の中にあって,あなたはたった一人でいるような感覚を得られます” 

Konstantin Stanislavski, An Actor Prepares, Ch. 5
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 上の文章はスタニスラフスキーが注意の環と人前での孤独を説明するために使ったものである.スポットライトを使って小さい円を作ればその中で役者は孤独になれると主張したのである.観客が向けるべき注意の場所を説明する効果があるスポットライトに,役者自身の意識を向けさせて緊張を解放する効果もあることを説明したのである.もちろん,ここでの孤独は第4の壁から開放され役に入り込むという良い意味で使われている.TV版のトレイラー第一弾ではすでに2本の線と円というモチーフが使われており,塔と舞台という意味にスライドしながら注意の環はレヴュースタァライトで通底するアイコンとなっている.

 しかし,その意味は常に変わり続ている記号でもある.TV版では塔はトップスタァを目指してキラメキを奪いあうオーディションから,大場ななが再演を繰り返す第99回聖翔祭の舞台を経由して,最終的に華恋のキラメキを守るためにたった一人でスタァライトを演じ続けるひかりの運命の舞台へと変化している.例えば11話で華恋が受け取る運命の舞台へのチケットは上の円と線のモチーフが使われている.また,総集編であるロロロはそのロゴの正円錐と逆円錐の組み合わせと劇場版のロゴを2つ用いている.特に正・逆円錐の組み合わせは砂時計的モチーフが使われており(砂時計はスタリラの新章アルカナ・アルカディアの方で直接的に記号化されている)再演の繰り返しと因果論の象徴になっている.一方で,一番上の円と花は倒壊した塔と舞台の上に立つ舞台少女を表している.つまりロロロはTV版と劇場版を円と線を用いた記号的にも結合しているのだ.

 また,レヴュースタァライトで示されるななひかりの陥る孤独は本来の意味でのものである.彼女たちは眩しいスポットライトに照らされて,外が観えなくなっているが故に孤独な存在となるのである.だが,華恋(あるいは純那とそしてそう望んだ観客)によってスタァライトの物語は終わりを告げる.劇場版の冒頭での星摘みの塔が爆破解体されるのはそれを印象付けるためだろう.塔の中ではひかりの武器が振り子のように揺れているが,これも円を象徴するものの一つで時間の進行と限られた空間を表す.それがひかりの手によって止められるということは,スタァライトという舞台の時が止まり新たな舞台が始まることを表す.こうして劇場版では新たな舞台ワイルドスクリーンバロックが始まる.

 では劇場版ではいったい誰が舞台に取り残されるのか,華恋である.厳密には9人全員に何かしら心残りがあるのだが,TV版のひかりと対比した場合には華恋に最もフォーカスを当てるべきだろう.スポットライトあるいは塔,ひかり華恋の運命の舞台,オーディションそしてスタァライトがなくなった今,華恋が乗り越えなければならないのは第4の壁そのものなのだ.演者が注意の環を極大まで広げたときに見えるのは地平線だけである(華恋が砂漠の上を歩いている理由も地平線が見えるからである).舞台の上で演じているときはそれでいいのだがスタァライトが終わった今では華恋が注意を広げるべきは他の舞台あるいは次の舞台である.だからこそ,第4の壁を超えて観客を認識するし,覚悟が足らなければ死んでしまうし,ひかりの舞台を観て再び復活して華恋だけの舞台を目指すのである.

 劇場版で円と線という記号は舞台と塔というモチーフから列車の車輪と線路を経て卒業・人生へと意味がシフトしている.これを注意の環の拡大として見た場合にそれが意味するところは舞台の外側への注意なのである.

観客の存在

 注意の環の拡大あるいは第4の壁ごしのやりとりという観点で,トマトとWSBそして円と線を考えてきた.いずれも,演者の意識を第4の壁方向へ拡大することで次の舞台に立つ覚悟を問いていた.そこに演者と観客の循環があるわけだが,演者にはならない観客はどうなるのであろうか.

なぜ,わたしが観ているだけなのかわからない? わかります.
舞台とは演じるものと観るものがそろって成り立つもの.
演者が立ち,観客が望む限り続くのです.

キリン,TV版12話

演劇が行われるあらゆる場所.空の空間でもそれを裸の舞台と呼べます.誰かがその空間を横切る,一方で別の誰かがその人を観る,これが演劇における演技に働いている必要なことすべてだ.

Peter Brook, The Empty Space

ピーター・ブルックはイギリス生まれの舞台演出の大家である.彼の言葉は作品内では(おそらく)引用されていないので,ここで出すのはちょっと無理やりかもしれないが,この言葉が指すのは最低限必要な演劇の構成要素は空間と演者と観客だけということだ.ならば,単一の演劇において観客という存在は演者から常に分離されて存在するとも言える.ならば,レヴュースタァライトの作品でも観客は常に演劇空間の外側に存在する.

 これはキリンの存在の変遷を観てもわかることである.TV版ではキリンはレヴューオーディションの主催者であり,観客でもある.おそらく,監督の口癖の話まさあめの名前由来を考えるとキリンは舞台の外側の存在すべての象徴である.従って役者ではない.だが,劇場版で注意の輪が拡大したことによって,キリン自身が舞台に上がり炉に火を灯す燃料としての役を与えられたのだ.逆に捉えると依然,劇場で映画を観ている我々は役がないただの観客であるということだ.華恋が恐怖を感じる第4の壁の破壊演出では,観客は役柄ではなく観客としての存在を要求されている.これは舞台に上がるために覚悟が必要という舞台少女の選択を称えるためにも必要な解釈である.TV版の一話ですでに語られたように,舞台少女たちは普通の女の子の生き方を捨てて舞台を選んだわけだから,レヴュースタァライトに役があるキャラは限られているのである.これはその人に他の舞台でも役がないという話でもなければ,舞台に上がらなければいけないという話ではない.その選択を評価すべきという話である.むしろ,劇場版ではそれぞれが立つべき舞台があると言っているわけだから,観客自身はそれぞれの人生で何を選ぶかのほうが問題である.

 少し話を戻して作品的あるいは制作的な循環の話をしよう.レヴュースタァライトには有名どころから,マイナーものまで別作品の大量オマージュがあることを観た人すべてが同意してくれると思う.これを循環的な観点で考えれば,それは作品の死と復活なのである.作品は観客が観ることをやめたその瞬間から死ぬ.だが,もし誰かがそれをオマージュすれば少なくとも部分的には復活したといって良いだろう.その途中には製作者の鑑賞という行為および観客としての存在が必要である.

 例を上げればまずはアルチンボルドキリンだろう.古川監督がアルチンボルドを選んだ事自体がすでにオマージュだが,そこに燃えるキリンというダリのモチーフを考えることができる.ダリは20世紀の芸術家だが,彼自身の作風はマニエリスム期のアルチンボルドが元であると(実際にそうか別にして)主張したと言われている.芸術史的にはアルチンボルドはシュルレアリスト達によって再評価された(すなわち復活)と見なせる.
 また,途中で引用したアンナ・パヴロワの代表作は瀕死の白鳥である.真矢のモチーフに白鳥の湖が第3話の頃から使われているが,パヴロワの白鳥の表現は白鳥の湖の演出に対して影響を与えたと言われている.瀕死の白鳥の初演は白鳥の湖よりも新しいため白鳥の湖の再演を変えたとも言える.これは循環の中の変化と捉えられるかもしれない.
 こうしたオマージュを行う意図は複数あるが,レヴュースタァライトでは好きだからというかなり直球な理由がある.例えば,双葉香子のレヴューはTV版も劇場版も鈴木清順のオマージュが多いが,古川監督自身が鈴木清順作品を好きだと公言している.

 このように,制作側も観客としての経験を元に作品を創造し,それが別の作品に観客の経験を通して取り込まれることを前提とした循環構造がある.演者と制作の両方に観客としての経験がなければレヴュースタァライトは成立しないのである.そのため,他のあらゆる作品と同様に観客という存在を必要としており,レヴュースタァライトでは特にその存在について意識的である.

システムの完成

 わたしはこの注意の環の拡大によるキャラクタの感情を外側へ押し流す構造こそレヴュースタァライト的システムだと主張したい.劇場版が目指したところはコンテンツの区切りを舞台少女達の卒業に持ってくると同時に,観客の感性の上でその終わりを共有することにあったと思う.劇場版ではこの舞台少女の演技に観客が共感するという構造を作り出すために,観客はメソッド演技法の逆を仕掛けられている.それが舞台少女の感情発露を正当化する舞台装置としてのレヴューであり,観客の注意を舞台少女の注意の連結させる拡大する注意の環である.

 そこにはすべての問題を感情で押し流そうとする圧力がある.そもそもTV版12話の展開は観客にとって救済的展開である.舞台少女たち目指した星のティアラもオーディションそのものも欺瞞的で罪とされる中で,それを望んだ正体は舞台の外側にいる観客であると示される.だが,それも結局,華恋ひかりと一緒に運命の舞台に立ちたいと望んだことで,結末が変わりハッピーエンドになる.ここに,問題の隠蔽と華恋の神格化による観客の救済がある.その後,劇場版で華恋をもう一度人間に戻して塔(十字架)から下ろすという作業が入るが,結局ここでも観客は舞台少女の感情によって問題を解消してもらうのである.さまざまな点でこれを批判すること自体は可能だが,わたしはむしろこの舞台少女の感情で解決する構造がレヴュースタァライトの構築したシステムであるとみている.

 システムが存在する限り観客としてのわたしは,一方的に舞台少女の込めた感情を受け取らざるを得ない.もし,あなたが電車の音やトマトにスタァライト的何かを感じるのであれば,それはメソッド演技法の逆をされているのである.劇場版のストーリーラインは現実部分が(意図的に)破綻させられている.本来なら描かれるべき第101回聖翔祭が言及すらされない事からわかるように,そこの説明は放棄して舞台少女たちの関係性の整合性だけを取っている.だからこそ抽象的で概念的な演出が多大に入っていても観客は感情を軸にしてわからせられる作品となっている.そして観客がわかるシステムは持続する.持続するのはレヴュースタァライトがというよりも,そうしたシステムがという意味である.観客の一部がいずれ舞台少女になるにせよ,または制作者になってオマージュをするにせよ,あるいは他の道を進むにせよ,一度わかってしまった作品の印象はなかなか消せない.どの観客もデコトラを観るたびにレヴュースタァライトを復活させざるを得ないのだ.

加筆:魂のレヴューの劇中歌タイトルについて

 話の流れからは大きく変わるがレヴューは全て劇中劇であるという原則に立つと魂のレヴューで描かれているのは真矢クロディーヌの演技である.さらに,メソッド演技法を実践しているのであれば,真矢もクロも演じるべき役柄について作り上げるという作業が行われたと解釈できる.そこで考えたいのが劇中歌アルバムのリリースイベントで語られた”美しき人 或いは其れは”の削られたタイトルについてである.その場で言及されたとおり劇中歌はあくまでもレヴューのタイトルのようなものである.そうした意味ではタイトルだけでは二人の互いへの思いは何も定まらないのである.一方でタイトルの設定を受け入れるのであれば,役を作るという点で二人はタイトルの意味あるいは演じる役が持つ感情について考えたはずである.自分がその役だとしたら相手に対してどんな気持ちを抱くか想像したはずなのだ.このあたりをスタニスラフスキーは”magic if”として概念化している.与えられた状況の中で演者の想像を通して”if”に答えることがその役割を生きるために重要なのだ.これは役者と役を同一化するという意味ではない.あくまでも,役者の想像を利用して役を作り上げるということだ.これは舞台の外側から観れば観客もまた,実際の関係はどうあれ,役柄としての二人の関係性を観ることができるということではないだろうか.結局のところタイトルは削除されたわけだし,観客側もあまりに突飛な想像は許されていないだろうから,この考察は本編には影響を与えないだろう.しかし,このようにして架空のキャラクタ間のこれまた架空の役割によって関係性を表すことはある種の発明だと思うがいかがだろうか.

最後に

 ここまで読んでくださってありがとうございます.冒頭でも述べたとおりこのnoteを書くにあたって一体,何を考察すべきかについてだいぶ考えました(そして迷走しました).キリンが繰り返す台詞であり古川監督の口癖であるわかりますが示すようにこの作品における謎演出の多くは観客の感情を想起させるためにあり,作品内の隠された真実を示しているとは限りません.また,監督の師匠筋にあたる幾原監督の演出手法は作品要素のカリカチュア(誇張)であると古川監督自身が言及しているように,すでに画面内や別カット示されているテーマの再提示です.特に劇場版ではこれらが高い水準で完成されており,それこそ初見の観客に見せても「意味不明だったけど,面白かった」という感想が得られたりします.こうした感想を可能にする原動力はプロットを卒業の一つに絞り舞台少女の感情によって駆動してゆく劇場版スタァライトの構成にあります.これによって観客は特定の文脈に拘らない視点が可能になり,抽象的な場面に捕らわれることなく自由な鑑賞が可能になっています.こうした鑑賞法はアニメーションに限らず現代的な作品の鑑賞におけるあり方の一つとして広く受け入れられているでしょう.自由に観て,自由に解釈してもいいんですよというやつです.しかし道は多種多様であって考察はいくらでもできるため,それはそれで迷走してしまいました.そこで無限に発散していく解釈の中で整合性を取るためにも作品の意図を読み取るべきとして,今回メソッド演技法に集約して解釈してみました.もちろん,考察のあり方は複数あるべきで他のアプローチもあると思います.これはあくまでもわたしのやり方です.むしろ,トマトやWSB,ロゴの考察はもっとあるはずなのでもっと浴びさせてください.

 メソッド演技法を使った演出も第4の壁の破壊もアニメに限らず幅広く観られる表現手法です.しかし舞台の外側に向かって遠心力が働いて,第4の壁を超越してもなお,その力をキャラクタの内面を示すために使う作品はかなり珍しいのではないでしょうか.レヴュースタァライトはアイドルモノの作品だから,キャラを演じるキャストがいてその先にはファンがいます.そうしたアイドル系が持っていた構造をメディアミックスとして舞台をくっつけたことだからできることじゃないでしょうか.それを発案したブシロード木谷会長とそこに古川知宏監督を連れてきたキネマシトラスの小笠原社長の慧眼に驚かされます.監督共々に企画に携わった制作陣を父,あるいは不在の創造主と読んでもいいかもしれません.改めてこの作品に出会えたことに感謝,感謝ですよー.


#2021/11/10:誤字脱字修正
#2021/11/12:魂のレヴューについて加筆しました


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