劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト考察(ネタバレあり):純那がニーチェを引用するのはなぜか?
待ちに待った劇場版レヴュースタァライトをついに”観劇”して徹底的にキラメキで全身をやられています.まさしく”体験”というに相応しい圧倒的な作品を作ってくれたスタッフには感謝しかありません.これから先に映画を見るときは自分の中でスタァライト以前と以後を語ることになる,そう思わせる強烈な体験でした.
この衝撃をなんとかしないと!という思いからこのnoteを書き始めましたが,各々のシーンで繰り広げられる演出や作画,音楽はあまりにも膨大でwi(l)d-screen baroqueそのものであり,正直まとめて書くことは不可能だという結論に達しました.そこで,せめてストーリーの考察でもということでTV版の考察を引っ張り出して劇場版に連結することで自分なりに納得した筋を書くことにしました.むろん,ネタバレ全開です.
なぜニーチェなのか?
純那は度々,格言を引用しますがその対象はシェイクスピアを始めとする多くの偉人達に渡っており,実のところニーチェ自体は存在感は薄いです.実際とある場面で引用されたのが以下の文です.ななにとっては重要だったかもしれませんが,それほどストーリー全体に影響を与える言葉でもないように思えます.
”過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える” ニーチェ
しかし,実はニーチェ自体はレヴュースタァライトのコンテンツ全体を通して度々引用されます(それこそスタリラ内でも).シェイクスピアは舞台を語る上で必須ですが,なぜニーチェなのか素朴な引っ掛かりがあります.またななが再演を続けるのもニーチェの永劫回帰のようだという意見はネット上で時々見かけていました.そこで思い切ってニーチェの思想を使ってスタァライトの物語としての構造を解釈しようというのが趣旨です.すなわち,純那がニーチェを引用するのは部分的にせよスタァライトにその思想が組み込まれてるからと考えてストーリー構造の考察を目指しています.
このようなアプローチは燃え上がる炎を爆風で消火するような話であると言えるでしょう.ある意味において別の作品に寄りかかる考察は徒労に終わるどころか場合によっては一層の混迷をもたらす可能性もあります.しかしこれだけ繰り返し引用された言葉がスタァライトと微塵も関係ないとは思えませんでした.何よりニーチェをもとにした考察がもたらしたスタァライトの構造を私自身が目にした時にこれを書くという衝動に駆られたのです.
お約束
1.ニーチェの考察ではないのでその思想自体には深入りせず,またニーチェの思想を持って未知の展開を現すわけではありません.
2.「キャラクタはキャストのもの」という監督のコメントに習い,キャラの人格までを解釈しようとはしません.あくまでも役柄の考察です.
キャラの役割とニーチェの精神の三段変化
9人の舞台少女はいずれも作品内で重要な立ち位置を持つが,明確に塔の物語としてのストーリーを進展させる役割を担っているのは神楽ひかり,愛城華恋そして大場ななである.この3人は塔の物語としてのスタァライトにおいて以下の3つの役割を担うことになる.
1.ひかり:塔に自身が囚われることでスタァライトを悲劇にする
2.華恋:塔からひかりを救うことでスタァライトをエッピーエンドにする
3.なな:再演によってスタァライトの別の側面を表す
この3人の振る舞いにニーチェの精神の三段変化を見出すことが最初の一歩である.
”私はその様を精神の三段変化と名付けた.精神が駱駝となり,駱駝が獅子となり,ついには獅子が幼子となるその様を”
— ニーチェ,ツァラトゥストラ:三段変化について
上記の文はニーチェが著作「ツァラトゥストラはかく語りき」で主人公のツァラトゥストラに述べさせた”台詞”である.ここで簡潔に精神の三段変化について言及するならば以下のようになる.
1.駱駝とは与えられた規範に従い耐えるあり方
2.獅子とはその規範を逸脱して自分の価値観へ転換しようとするあり方
3.幼子とはそうした価値観の展開を繰り返すこと”ただ”肯定するあり方
もはや,自分で書いていてもよく分からなくなるのだが,とにもかくにもスタァライトのストーリー上での共通点を探しに行こう.なおここで規範は設定と読み替えとする.
らくだひかり
”二人の夢はかなわないのよ”—クレール:戯曲スタァライト
ひかりのアニメでの振る舞いは戯曲スタァライトの脚本に忠実である.彼女の運命の舞台は彼女が持ち帰った戯曲スタァライトに沿った形になっている.彼女はオーディションの勝利あるいは星を掴むことを戯曲に沿って罪だと認識しておりその罪を償いためにあるいは華恋の輝きを守るために自ら進んであのような展開を選んでいるのだ.これは駱駝の生き方そのものであるといえる.そのため設定から逸脱できない彼女は一人では塔の中から脱出できない.そこから新しい設定を見出してひかりを救い出すのが獅子たる華恋である.
華恋ライオン
”スタァライトは必ず別れる悲劇,でもそうじゃなかった結末もあるはず”
—愛城華恋:TV版12話
華恋は戯曲スタァライトを翻訳を通してクレールとひかりの運命を新たに知る.だが,華恋が気づいたことはそれだけではない.より重要なのはレヴュースタァライトの世界が戯曲スタァライトの舞台であることに気づいたことである.彼女はこの世界が舞台であるという新しい設定に到達したからこそ再び立ち上がれたのだ.彼女はこの新しい設定を我がものとして脚本を変え,演出を変えることで新しい展開を生み出している.これぞまさに獅子の振る舞いである.
幼子なな
”燃える宝石のような煌めき.輝く虹のような幸福な日々をもう一度――”
—大場なな:TV版7話
ではななはどうか.ニーチェは精神が幼子へと到達した人間を超人と読んで,永劫回帰(無限の時間と空間のなかで,世界とすべてのものが全く同一の形のまま繰り返すこと)のなかで幼子の精神をもってただこの生を肯定するあり方を人類自身が到達すべき姿とみなした.「繰り返し」と「幼子」,「肯定」という言葉だけ取り出せば,なんとなくななのことを表しているように思えなくもない.ななは舞台少女への強い執着によって再演を繰り返していたわけだから,永遠に繰り返すこと自体は肯定していたのかもしれない.また,前日譚である漫画(オーバーチュア:2巻10幕)では人の枠を超えていることを思わせる記述もある.
だが,彼女は決してニーチェ的超人ではない.永劫回帰ではその流れをただ肯定することを求められており,その中に一切の価値が存在しない.ななはそのような肯定する役ではない.それについて触れていく.
ニーチェの超人思想とななの役
ニーチェは精神の三段変化と言ったわけだから,幼子の精神を持つ超人はあるべき目指すべき姿だと主張した.より良く生きるとは超人になることだと言っているのである.では,なぜ獅子を超えて人は幼子にならねばならないのか.ここにニーチェのある種の苦悩がある.ニーチェは現代哲学が直面した相対化の傾向を強める真理の中で,その動機の中に”力への意志”を見出した.獅子が語る真理には等しく価値がなく,その真理は等しく力への意志によって生み出されているというわけである.そこには良い悪いも役に立つ立たないも道徳的か否かも関係ない.ただ,意志があるのである.ニーチェはこの悲劇的な真理(≒価値)の流転をただ受け入れ肯定できる存在にこそ超人を見出したのだ.駱駝のように設定に絶対的に従うわけでもなく,獅子のように自分の見出した設定を絶対視するわけでもない,その流転をただ無垢に肯定する存在である.永劫回帰の中では起こる出来事はすべての価値が無に帰り,ただ無垢な幼子のようにただ肯定されねばならないそいう考えである.
この意志は舞台少女の舞台への執着とほとんど同じものだと言えるだろう.だとすれば,舞台少女への執着によって再演を繰り返すななは断じて超人ではない.彼女は自らの執着の対象が流転してく様など消して受け入れる役ではないからだ.では,ななは超人にはなれないのだろうか.そもそもなる必要があるのだろうか.この答えを検討するためにはニーチェに対する哲学的な考察(あるいは批判)が必要になるが,実はそこの掘り下げは全く必要ない.
”芸術は本質的にそこにあるものの肯定,祝福,神化である”
—ニーチェ:遺稿より
なぜなら,このアニメはスタァライトであって現実ではないからである.芸術作品の内部においてはニーチェが転倒したような価値の移り変わりが存在する必要がないため獅子が作り出した価値を真理として世界を構築することが許されるからである.ニーチェの初期の研究対象は古典文献学であった.従ってその最初の著作:悲劇の誕生もギリシャ悲劇に関するものである.すなわちニーチェは古代ギリシアの舞台に関する専門家でもあったのだ.そのため彼自身の哲学の中で芸術は特別な位置にいる.そんな彼は芸術作品の内部においては虚構の世界が存在しうることを認めている.すなわち一つの作品にいる間はその一つの価値に身を委ねても構わないのだ.ニーチェは芸術家がその気持ちの赴くままに世界を創造し破壊しつくすように,超人は価値の流転をただ肯定する者と捉えているふしがある.この視点で言えば未完成の舞台少女であるななはその途上にあって,自分の再演から華恋の舞台へと移動しただけといえる.ななは獅子以上超人未満の意志によって舞台を目指す未完成の舞台少女の役なのだ.
私はこの価値の流転を受け入れねばならないという視点が,ニーチェ的思想とレヴュースタァライトの接合点の気がしてならない.結局,超人とはなにか,超人になるべきなのかはニーチェの思索の果てであって,スタァライトの物語の果てではないのだ.従って,流転の果てについて考察する必要はない.しがし,流転するという事実は明確に描かれなければならない.TV版において,すなわち華恋がこの作品の内部が舞台であると気づく前には,その流転を受け入れる必要はなかった.なぜなら一つの芸術の内部だからである.そこへ華恋が気づいたことで舞台が流転するというレヴュースタァライトの構造が浮上したのである.そこには間違いなく舞台少女の生き様とニーチェのどう生きるべきかという問題が舞台への執着と力への意志という相似性のある動機のもとで存在する.
TVにおけるスタァライトの射程
レヴュースタァライトは舞台少女の生き様を描く物語であるため,その内部にある戯曲スタァライトも9人の舞台少女が描く日常もまた舞台少女の生を描いていると考えるべきだろう.ではハッピーエンドを迎えたと言って差し支えないTVはどこまで現実的な射程を持っているのだろうか.ここでいう現実とは価値が転換される舞台が終わる悲劇を内包した世界のことを指す.私はこれが再生産総集編,劇場版へとつながりはてはスタァライト全体のテーマであろうと思える.スタァライトの世界は悲劇的側面は舞台少女の執着によって次々に乗り越えられていく.だが,節々で確実に悲劇的側面は存在する.ななの再演のきっかけとなった同級生の退学はその例であろう.夢に挫折した者にとってそれは一つの舞台が死ぬ悲劇なのだ.
スタァライトの物語は舞台をテーマにしたが故に通常の作品では語る必要のない舞台の外の物語=現実を含ませる必要が生じてしまっている.それはニーチェのいう(価値の)流転であって,アタシ再生産であり,次の舞台へ立つということなのだ.TV版ではこうした構造が示唆されつつも巧妙に隠されてきた.その真理=設定を観客に対して暴かれた場面が,華恋がひかりとともに立った運命の舞台なのではないだろうか.それが故に劇場版ではこの事自体が新たなる危機として訪れるのである.
劇場版での新しい危機
華恋はこの世界が戯曲スタァライトの舞台であると喝破することで,新しい設定(=二人で運命の舞台に立つ)をもたらすことに成功した.だが,この気づき自体が劇場版での新しい危機をもたらしている.
”列車は必ず次の駅へ――
では舞台は?
あなたたちは?”
劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト
端的に言えば舞台としてのスタァライトは作品の内部においてもすでに終わっているのだ.幕が下りてものなお舞台に残る役者はどうなるか.スポットライトも当たらずに出番も台詞もないままに取り残される.それはすなわち役者としての死である.それは舞台への情熱をなくしても同じことである.劇場版は,9人のそれぞれの舞台少女が自分がスタァライトを演じる役者であって,自分の役にけりを付けて新たな舞台に立つという覚悟を示さなければ死を迎えるという物語なのだ.これはそれぞれのキャラクタを演じるキャストが自覚する必要があるという話ではない.レヴュースタァライトというアニメの内部でキャラクタ自身が自覚しなければならないのだ.従って劇場版の中では,役者と役,観客,裏方という関係性はどこまでも作品内部の話なのだ.
だからこそ,ワイルドスクリーンバロックをななが始めたことには必然性がある.彼女は価値の流転の途上にあって,華恋やひかり,6人よりも状況に対する理解が深いからである.彼女は舞台の転換をすでにしているため純那の引用通り,次に立つべき舞台すなわち未来が影響をあたえる現在の意味することに気づいているのである.劇場版とは,終わりのための,ケリをつけるための,スタァライトの終わりを嘆き新たなる獅子の出現の可能性を喜ぶための舞台なのだ.ななはそれを知らしめる役を担っているのだ.
キリンとしての自覚
そしてこの自覚は観客と制作スタッフにも要求される.舞台が演者だけでは作れない以上,観客と裏方がこの世界には存在する.もはや華恋がひかりと運命の舞台に立ったときから,あるいはキリンが第四の壁を超えて画面越しに話かけてきたときから,観客も裏方もレヴュースタァライトの世界に役があるのだ.舞台少女は観客の求めに答え,裏方は死力を尽くし,観客もまたそれに相応しいものを差し出さなければならない.舞台創造科B組の面々とキリンの生き様はそれを見せつけているのだ.
作品:レヴュースタァライトの構造
私としては劇場版におけるサブタイトルのwi(l)d-screen baroqueにおけるwi(l)dとは第四の壁を超えることを指しているのではないかと思う.もちろん興奮や熱中という意味もあるだろうが,舞台少女たちが舞台(TV版)から舞台(劇場版)へアタシ再生産をするために,スタァライトという作品内部から舞台(あるいは画面)の外(wild,野生)へ飛び出さなければならなくなったのではないかと思う.
この作品の面白いところはこの点にあって,メタ的な話は一切なしにアニメ内部に現実的構造を成立させていることである.通常なら無視してよかった価値の転換を舞台少女と観客,制作スタッフの意志が引き起こしたことで,作品は際限なく膨張し本来存在しない現実的な危機がもたらされている.これは舞台を題材にした話だからこそできる第四の壁を利用した凄まじい構成ではないだろうか.また,これこそがニーチェが見た価値の流転する風景であるように思える.
エンドロール後
「私たちはもう舞台の上」を聴いたあとのシーンについてぜひ舞台挨拶と絡めて考えてほしい.舞台に取り込まれた観客と制作スタッフそしてキャストによって再び設定が転換していることがわかるはずだ.この視点に立った時,我々観客は作品全体をさかのぼってどこに立つべきなのだろうか.
神は死んだinスタァライト
※加筆部分です
”神は死んだ. 神は死んだままだ.そして、私たちが彼を殺したんだ .”
中略
”我々自身が,この行為を価値あるものと,ただ見せるために神々になるべきではないか?” —ニーチェ,悦ばしき知識:125節
スタァライトは明確に神は描かれないながらも,全体的にキリスト教的モチーフが感じられる.劇場版における華恋の死からの復活は明確にキリストの復活を想起させる.だが,これをあえてニーチェ的な神の復活として解釈するのがこの節の役割である.ニーチェは「反キリスト」という本を執筆するくらいだから,その批判的精神は筋金入りのものがある.従って,有名な「神は死んだ」という言葉も表現の強烈さもあって神の存在を否定するものように見える.だが,ニーチェを無神論者というにはあまりにも絶対的なもの=<神>への執着が強い.そのため,先程の引用にある”神”はあくまでも(ある意味で歪められた)キリスト教的”神”=価値の否定だとみなされている.ならば,ニーチェ的な<神>の死と復活とは永劫回帰的なあり方そのものと見ることができる.
ニーチェは大いなる真昼あるいは正午と訳されるような言葉を「ツァラトゥストラはかく語りき」で使った.ここでの真昼とは太陽=新しい<神>によって世界に光が満ちている瞬間のことである.そして,その言葉を述べた瞬間は朝だとしている.すなわち,以前の神が死んで夜を迎えたときから新しい神の光が世界の隅々を照らす昼への移り変わりの瞬間の言葉なのである.そして,レヴュースタァライトでもレヴューは必ず夜に行われ,作品全体の結末を迎えるときには朝日が登ってくるのである.その場合,言わずもがな<神>とは主役として舞台少女である.
冒頭で華恋を獅子と見たが,劇場版ではこの獅子が見いだしたスタァライトが死んで新たな舞台が始まることが華恋の死と復活で示されたのだ.そして,同様にひかりも悲劇のスタァライトから華恋のスタァライトを経て自分の舞台へ立つ獅子となったのだ.華恋が言うように仮に同じ題目だったとしても一つとして同じ舞台は無いのである.従ってこの流転を受けれることができれば,スタァライトの終わりという悲劇を新しい舞台への可能性を迎える喜びに変えることができるのだ.それは讃えるべき終末なのだ.9人の舞台少女が持つ可能性がそれを示している.
あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございます.正直に言って書いている最中にめちゃくちゃ後悔しました.ただでさえ躊躇するようなレヴュースタァライトの考察に対して,よりもよってニーチェで解釈しようとする行為は愚かであったとしか思えません.結局,最後までレヴュースタァライトとニーチェの両方を歪めているのではないかという疑問を拭えませんでした.それでも,監督や制作スタッフが膨大な思いを詰め込まれたこの作品を受け止めるには,私自身が考察しきらなければならないと確信してこの文章を書き上げました.
最後に純那が劇場版内で引用したニーチェの言葉の続きをもって締めたいと思います.太字が純那の引用箇所です.
前略
”しかしこれは私の持論である,いつの日か空を飛びたいものはまず立ち,歩き,走り,登り,踊ることを学ばなければならない.空を飛ぶ唯一の方法などない.”
中略
”だが,これは私の好みであるー良い悪いではなく,もはや恥じも秘密もない私の好みなのだ.
「これは―結局のところ、私の道である,―あなたの道はどこか?」 ――私は”道”を訪ねた者にはそう答えた. 万人が通る”その”道など存在しない.”―ニーチェ,ツァラトゥストラ:重力の精
※加筆修正をしました.2021/06/18
※加筆誤字脱字修正をしました.2021/07/11
冒頭画像は公式HPから引用しました.