三十三回忌を迎えて気づいたこと
去った11/5は
私の妹の三十三回忌の日でした。
私がまだ沖縄に居たときは
命日の日にお供え用のお菓子を持って帰る。
今は
遠く離れたアメリカにいるので
命日の前日に花をかざり
実家の仏壇前に 自分がいるイメージをして
妹の為に手をあわせる。
そして
両親へ電話し
お花をかざったこと
自分の分も祈っててねと
お願いする。
妹は
私が小学生の時
母がおめでたし
産まれました。
でも
心臓に重大な疾患があったみたいで
生まれて20分で
この世を去ってしまいました。
当時
妹の顔を確認出来たのは父だけです。
とてもかわいい子だったそうです。
帝王切開で生まれ
異変に気づいた医師達は
母に娘を見せること無く
処置のため
直ぐに別室へ連れて行ってしまったので
母は娘を抱くことも
見ることも出来なかった と
数年後 母は私に言ってくれました。
私には姉が1人います。
母が姉や私を出産した時は
医師や助産師に真っ先に確認した言葉は
「五体満足ですか??」
でも
なぜか 妹の時は
「男の子ですか?女の子ですか?」
っと性別を先に確認したみたいです。
「多分無意識に何か異変を感じてたのかねー」
と私が大人になり
妹の話しになった時
母が そう言ったのを覚えています。
当時は
母の付き添いで
家を留守にしてた父から
予定日になっても報告はなく
とにかく家で待つ。
妹の為にと
毛糸で帽子を編んでいた時に
父が帰宅し
編み物をしてる 私を見て
「これは誰のための物か!?」
っと 凄い剣幕で聞いてきたので
思わず
「自分の..」
と言ってしまいました。
その2日後に
私と姉が 父に庭の隅へ呼び出され
妹が亡くなった事を知らされました。
父が大泣きしたのを見たのは
後にも先にもあの時だけです。
凄い剣幕で私に言ってきたこと
ずっと慌ただしくしていたこと
私達に伝える迄の数日間
父の中でも
受け入れられない気持ちや悲しみ等の葛藤で
とても苦しかったんだろう
と思います。
後日
妹の為に準備していた
赤ちゃん用品を
父と一緒に燃やしました。
夕焼けが綺麗だったのは覚えているのですが
それ以外の風景は
なぜかモノクロな感じで私に記憶されてます。
きっと 悲しかったんだろうねー。
生まれて直ぐに亡くなってしまったので
葬儀も親族や近所の方々だけ。
写真はありません。
毎年の
お盆や正月は
親族が
お中元やお歳暮を持って
家に来てくれていました。
安全を祈る時
心配事がある時
大きな出来事の報告等
仏壇に手をあわせ
妹に話しかける。
「赤ちゃんが元気だったら、
今年は十三祝いだね~」
「赤ちゃんが元気だったら、
今年 二十歳だね~」
「妹が元気だったら、もう24歳だね~」
母とたまに こんな話をしていました。
そして、今年は三十三回忌。
もう
こんなに月日は流れたんだな...
と涙がこぼれました。
今年
私は 高齢出産ながらも
無事に娘を出産し
1人の母になりました。
「母」
という立場になり
今まで気付けなかった
母としての
喜び•感謝•不安•痛み
等を知ることが出来ました。
母親だからこそわかる痛みの共感。
なので
母の
子供を失う悲しみ
痛みを
以前よりも強く感じてしまう。
そして
今年は
1つの節目である三十三回忌。
もし 妹が元気だったら
きっと
姪っ子になる 私の娘を
とても可愛がってくれただろーなー
きっと私達は仲の良い三姉妹だっただろーなー
色んな事を想うと 涙が止まりませんでした。
今年が妹の三十三回忌なのですが
私も姉も国外移住者。
毎年 できる限り
里帰りをしているのですが
今年は 姉も私も里帰りが出来ないので
来年帰った時
家族みんなで
弔い上げをしよう
ということになりました。
妹の仏壇は
これからもそのまま残すし
命日にはお花を手向ける。
何かあれば
これからも
彼女に手を合わせ
色々報告するし、
家族を見守ってくれるよう話していく。
娘が成長すれば
もう1人の叔母さんの事を聞かせ
いつも皆を守ってくれてる事を教えていこう。
今年が
1つの節目ではあるが
彼女が私の妹であったこと
私達の家族だったことは
これからも変わらない。
いつも守ってくれてありがとう。
沢山話を聞いてくれてありがとう。
これからも
私にとって あなたは大切な存在です。