日記 : 言葉遊びを翻訳することの難しさ /『アイアンマン2』
先日からMCU (マーベル・シネマティック・ユニバース) を見始めた。
せっかくなので、『アイアンマン2』を観ている時に思ったことを日記にする。
私は吹き替えで見ていた。前半、ナターシャとハッピーがボクシングした後の、トニー・スタークとナターシャの会話。
吹き替えを文字起こしするとこうなる。
これを観た私は、この言葉遊びを用いたやり取りが元はどんなものだったのか気になって、巻き戻して英語音声・字幕に切り替えてもう一度再生した。
それが以下である。
大体の感じで日本語訳するとこう。
「impression」という単語で言葉遊びをしている。
これを日本語で再現しようとすると、「ボイン」と「拇印」をかけるという少々低俗なものになってしまうのである。言葉遊びを翻訳するということの難しさを痛感する。
しかし、これをあくまで再現しようと努めた人たちには、敬意を表したい。
言葉遊びを翻訳する際には、別の形での再現に努めるパターンと、言葉遊び自体をなかったことにするパターンがある。
後者のパターンは、同じシーンの日本語字幕が正に好例である。
言葉遊び自体をなかったことにしている。少々不自然だが、こちらの方がスマートではあるかもしれない。
自然さを取るか、スマートさを取るか。これは吹き替えと字幕どちらが正解かというよりかは、それぞれの判断の違いと言うほかないだろう。
逆の例で言えば、「吾輩は猫である」という粋な一文が、英訳すると「I am a cat」に成り下がってしまう、というのが代表的である。
優れた翻訳の例で言うと、「Here’s looking at you, kid.」を「君の瞳に乾杯」と訳したのが名訳とされている。
翻訳という行為は、本当に難しい。それでいて面白い。
全ての翻訳者に敬意を。以上です。
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