善とは
先日の藤沢氏の講演の中で話に出た「善の研究」を読んだ。
藤沢氏の話の中では禅寺修行の時に「今吹いた風はあなたですよ」というような主体と客体の一致の話を聞き、そしてこの本に出会った、というような紹介だったので、読む前はやはり座禅の時に自分を無にする、とかそういうことが書かれているのかな、と思ったのだが、最後まで読むと非常にキリスト教的な話が多い。
特に驚いたのは本の中では「エッカルト」となっているが中世の修道僧エックハルトの言葉を引用しているところが多かったこと。エックハルト説教集は若松先生の講義のテキストとして読んだが、とにかく難解だった。難解だけれども先生はじめ、多くの人が絶賛しているのも事実。この説教集はしっくりくるまでこの先も何回も読み返すことになると思う。
西田幾多郎はこう書いている。
エッカルトの言う様に
神の他愛は即ちその自愛でなければならぬ
またこうも書いている
意識が身体の中にあるのではなく
身体は反って自己の意識の中にあるのである。
この部分ははっとした。エックハルトも似た様なことを言っていた。魂は肉体の中にあるのではなく、魂の中に肉体があるのだ、というようなことだったと思う。
「え? 肉体の中に魂が宿っているんじゃないの?」
と思ったので良く覚えている。こういう感覚も実はわたしの中ではまだしっくりきていない。
キリスト教的なところでもうひとつ引用すると
悔い改めたる罪ほど美しきものもない
この部分はいいなあと思った。「悔い改める」というのはキリスト教の中でやはり重要な部分で、それが美しい、というその表現がじーんとした。
さてタイトルの「善」
善とは単なる行為なのか、意識なのか。
善とはセルフリアライゼーションである
善とはひとことにて言えば人格の実現
などいろんな定義が披露されているが、今のわたしの理解で言えば行為と意識、どちらかではなく、どちらもあって初めて実現するもの。なんじゃないかな?
一致、統一、というワードも多かった。バラバラに見えても実は深いところでみんな繋がっている。そんなことを読み取った。
この本、中身も難解だが、さらに旧仮名遣いなので、ところどころ読みにくかった。図書館で借りたのだが、最初の数ページはなんと鉛筆で棒線引いてあったりして、「もう! こういうのやめてよね!」とプンプンしながら読んでいたが、棒線はすぐになくなり、また特に後半部分はページがまるでサラのように綺麗なのである。
ははん、おぬし挫折したな?
棒線引いて頑張ったけど最後までは読んでないんじゃないか。見知らぬ借り主のことをそんなふうに想像したけど、とにかく! みんなで読む本に棒線引くのはやめようよ!
という、ちょっと中身と違う感想になりました。はい。