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親のトラウマと子どもの関係


◆勝手に結論!

「子どもは、親のトラウマを書き換える資質を、生まれながらにして持っている」
これ、親である私が、子どもに教えられたこと。


◆親子はそういうふうに、できている。

子どもは、親にトラウマを乗り越えさせたくて生まれてきた、とか。
救う役割を担って、あえてその親を選んでうまれてきた、とか。
そんな、子どもの人生に親を背負わせるような、身勝手なことを言うつもりは、ない。

親が持っているトラウマと同じものを、子どもも受け継いでしまうものだ、という考え方のほうが、心理学的観点からすれば正しいようにも聞こえる。
親のほうが強くて、その影響を受けてしまう弱い立場の子ども、という構図だ。

しかし、種の進化を考えた時、親より子のほうが、何かしら《改善》されて当然ではないだろうか。
アメーバのように分裂して子孫を残すなら、自分のコピーができあがるかもしれない。トラウマさえもコピーされるかもだけれど、そうならないように、自分とは真逆の性質をもつパートナーを、私たちは無意識に選んでいるように思う。

親のトラウマを、子が持ち続けるよりは、子どもの先天的資質が、親のトラウマを「書き換え」るような、何かしらの働きを持っているほうが、その子本人にとっても便利だ。
その子だって、生きていくうちには、自分なりのトラウマを抱えることだって起きる。それだけで十分すぎる。

というわけで、親子は、そういうふうにできているのだと思う。


◆先生に対するトラウマが書き換わった、親としての体験。

トラウマは、スルーできるようになるといい、と言われる。

トラウマは、立ち向かわなくてもいい。

トラウマとして心に残るほど、大きな衝撃を受けるような体験をした。すると人は、どうしてもそこに囚われてしまう。なぜそのような体験をしてしまったのか、それが他ならぬ自分でなければならなかったのは、なぜなのか。原因探しをしたり、自分を責めたり。
克服しようとしてむしろ悪化を招いたり。

トラウマは過去の記憶。
なかったことにはできないけれど、今の自分が《書き換える》ことで、トラウマ体験すらも、取り立ててどうってことのない、人生のワンシーンだったと受け入れられるようになる。
過去を過去だと認識し、今ある安全のほうに意識を向けられるようになったなら、それは「トラウマを克服した」と言ってもいい。


小学校の時、担任から、まったく身に覚えのないいじめを受けたことがある。スポーツが得意でがっしりした体格の、若い男の先生から、突然、攻撃対象にされてしまった。恐怖だった。
先生に対して、トラウマを持った。

子どもがうまれ、保護者として学校に行くのにも、恐怖を感じる時があった。
それが次第に、変わっていった。

出逢う先生という先生が、いい方ばかりなのだ。
感謝しかないほど、お世話になってきた。一見、怖いなと思う先生ほど、わが子に親身になっていただいた。そのたびに、トラウマを通して見ていただけだったのだ、と思い直すことができた。
そうやって「先生」に対して、完璧というわけではない、あたたかい人間味を感じていった。

おかげで、先生に対するトラウマは、書き換わった。

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