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"引いて退く"ではない羽生結弦さんのフィールドチェンジに思うこと

羽生結弦選手が、競技人生の節目を迎えた。
羽生さんらしい言葉での「決意表明」だったように思う。

私自身は、メディア取材者としてかつて8年ほどフィギュアスケートに関わり、羽生選手にも間近で接することもあっただけに、懐かしく思い起こすことも多い。
気迫あふれる演技や物怖じしない発言、孤高な精神…どれも鮮烈だった。
私は、フィギュア界の一つの時代が終わったという感慨もある。

一方で会見では、また"新しい概念"を体現し、言語化してくれたと感じた。
それは、まさに今、私が準備している事業、取り組みともシンクロしている…ような気がする…!
というわけで、このタイミングに私の視点を書いておきたいと思う。

引退は「ステップダウン」ではない

つきまとうネガティブイメージがアスリートを苦しめる

羽生さんは今後、競技会には出なくなる。
それを「引退」という言葉をあえて使わないようにしていた。
「引いて退くというイメージにはしたくない」という強い意志も語っていた。

競技者ではなくなっても、スケーターとしては続けるから引退ではない、という理屈や彼らしいプライドもあるかもしれないけれど、それ以上に私は、人生の節目をどう捉えるか、の人生観につながると感じた。

誰であれ「引き際」には、その人の人生観がにじみ出る。

いわゆる「競技現役からの引退」は、ピークを過ぎ、体力や技術の限界を感じて力尽きて辞める…山を降りて兜を脱ぐような「ステップダウン」的イメージが持たれることが多い。
もちろん「やり切った」という充足感もある反面、あたかも「終焉」のような喪失感や脱力感。
「寂しくないですか?」と聞く記者もいる。

そんなネガティブなイメージを払拭する決意表明だった。

とかく昔の日本では、脇目もふらず「○○一筋」に燃え尽きることが美徳とされ、涙涙の終焉的引退こそが礼賛されがちだった。
もちろん、その「美しさ」もよくわかる。

その裏腹に、この「ステップダウンイメージ」が、実は現役アスリート本人を苦しめることにもなる。
競技ができなくなったら、自分は何もない…。だから失いたくない。
そんな強迫観念から、引退を過度に恐れてしまうことも多い。
そこに私は課題を感じていた。

「リスタートアップ」にする捉え方で価値を上げる

競技を辞めたからって、本来、人生「ステップダウン」ではないし、ましてや「終わり」なんかではない。
これまで身を削って培った自分の財産は必ずあるはずで、それをその競技というカタチでなくても、別のカタチやフィールドで活かす可能性をもっと知れば、「引退」という節目がネガティブではなくなるのでは…。

引いて退く喪失的な「ステップダウン」ではなく、
新たなフィールドに行く次への「リスタートアップ」にすることで、
アスリート自身の価値ももっと上がる。

私はずっとそう思ってきた。

もちろん、心身を賭してきたことが、今までどおり続けられなくなることは、誰でも受け入れがたく、喪失感もある。
トップ選手やったこともない私なんぞには、想像もつかない心境だろう。

それでも、現実的には、競技は永遠にはできないし、ケガなどで突然途絶えることもあるかもしれない。

だからこそ、競技を終えても、自分にはできることがある、可能性がある、という視野や捉え方を、前もって持つことが大切だと、私はかねがね思っている。
そう捉えられれば、引退を恐れず、節目がポジティブになると思う。

深い自己整理で、納得のリスタートアップにたどり着く

そういう視野や捉え方をするためには、自分の培ってきた思考、経験、思い、価値観、これからの志向などを、競技者としてではない「一人の人間」としてじっくり整理、棚卸しして、自分の本質を知っておくことが大切。

賭けた来たものが長く大きいほど、そんな簡単に整理はつかないし、自分の納得がいくまでは時間がかかるし、他者視点も時には必要になる。

私がまさに今、準備している事業は、こういったアスリートの「マインドアシスト」
※これについてはまた後日あらためて

羽生さんは「平昌五輪(2018年)後から考え始めていた」と言っていた。
最後の4年間は、競技を続けながらも、もう一つの自分の道を自問自答していたということだ。
「勝ち」へのこだわりも強かっただけに、負けじ魂との「折り合い」をつけるまでには、そうとうな葛藤もあったに違いない。

でもこの長く地道な「自問自答」と「トライ&エラー」のプロセスを経たからこそ、「納得」の「リスタートアップ」にたどり着けたのだろう。

これは羽生さんだから特別なのではなく、私たち誰にでもある人生の変わり目や節目をどう捉え、どう向き合うか、普遍的に通じると思う。
何かを終えることは、"引いて退く"ネガティブなことではない。

つくづく、アスリートの競技人生の節目には「気づき」が多い。
こちらは小平奈緒さんの名言について

フィギュア界の"プロ"にも新しい可能性

もう一つ、フィギュアスケートの特殊性からの視点でも思うことがある。
ここからは、フィギュアファンからお𠮟りを受けるかもしれないし、興味ない人はスルーを…。

羽生さんが「引退ではなくプロアスリートとして」を強調していた背景には、フィギュア界の不思議で特殊な事情もあるからだと思う。
これもまた、私がずっと残念に思ってきたことと重なり、私は秘かに、ここにも新たな可能性を感じている。

フィギュアスケートのプロ/アマはわかりづらい

多くの競技は、アマチュア→プロは「ステップアップ」。羽生選手も、甲子園(アマ)とプロ野球で例えていたように、技術レベルは「アマ<プロ」と認識されるのが一般的。

ところが誤解を恐れずに言うと、今のフィギュアスケートは逆転している。
いわゆるジャンプなど競技会で評価対象となる技術レベルは、競技者(アマチュア)時代がピークで、その後、競技を引退して"プロスケーター"へ、という道ができている。

「アイスショー」という競技会とは別のエンターテイメントとしてのステージがあり、競技を降りた(retired)スケーターがアイスショーを軸にスケートをするため、彼らを「プロスケーター」と呼んでいる。
競技引退後も、そのパフォーマンスを高額で見せる場がある、このような仕組みは、フィギュアスケートならではの特殊性だと思う。

アイスショーは、厳しいルールがなく自由度が高く、ショーアップされた華がある一方で、例えば4回転など高難度の技を繰り出すプロスケーターはあまりいない。
もちろんスケートは、ジャンプ無しでも魅了させるパフォーマンスは様々あるので優劣ではないけれど、ただどうしても加齢に伴う体力的な低下もあってか、「試合」を見慣れた人からすると、失礼ながら「見劣り」や「物足りなさ」を感じてしまうことも少なくない。

今は、いわゆる競技に出ている選手(アマチュアスケーター)もアイスショーに出演し、競技プログラムを披露することもある。
むしろ彼らの競技生活はとてもプロフェッショナルで、国際大会では賞金も出るので、果たして「アマチュア」なのか、その境界線は薄れている。

ピークを過ぎて→プロという流れから、アマチュア>プロという矛盾したわかりづらい逆転が印象づいている。
私はそこを残念に感じていた。

また、いわゆる現役選手でも、ショーでは試合よりもジャンプなどの難度を落として滑る場合が多い。
それはリンクサイズが小さいために、ジャンプの助走距離が取りにくいとか、ケガ防止や、ショー全体構成としてのバランスなど理由もあるけれど、残念ながら見方によっては「バージョンダウン」感が否めない。

その中で、これまで羽生さんは、ショーであっても本気で4回転を跳び、最近は4回転アクセルを挑戦しようとしたり、現役選手としては珍しいタイプだった。
ショーであろうと試合であろうと、自分の追求を変えずに貫く、それが羽生さんのスタイルなんだな、と私は感じていた。

そんな彼だからこそ、「自分の追求を貫く場として競技会ではない」という境地になったのだろう。
かみ砕くと、「羽生結弦」という自己実現の追求をするために、フィールドを変えるだけ。なのかもしれない。

既存の枠組にとらわれないフィールドを創るかも

「プロアスリートとして4回転アクセルをみんなの前で成功させたい」という羽生さんの言葉には、
「競技を辞めた型落ちのようなプロにはならないぞ」という、まさに決意、意地のようなものが込められている気がした。

あくまでも「アスリート」という言葉を残しているところも彼らしく、これまでの、いわゆる"プロスケーター"ともまた違うイメージを描いているような気がする。
フィギュア界に、新しいフィールドを創る、くらいの気概なのかもしれない。

既存の枠組みに頼るのではなく、従来のような、ショー/競技、とか、ジャンプ/表現、のような単純二極ではない、「新しい領域」を予感させる。

羽生さんはショーについて「今の時代に合った見せ方もしたい」と語った。
私は、アイスショーもある意味、転換期が来ているように思う。
なにしろアイスショーはチケットが高く、気軽に見に行くには敷居が高い。

現役引退した最近の浅田真央さんは、多くの人に見てもらいやすい価格設定で全国ツアーを展開するなど、従来にない新しいスタイルのショーを創り始めている。

いよいよ「プロアスリート」としての羽生さんが、フィギュア界も「リスタートアップ」させるかも、そんな可能性を感じる。

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