
「知らないということを知る人になれ」という教え
仕事柄、経験や守備範囲の異なる人たちと協働する機会が多いのですが、プライベートの知人・友人でも、仕事をはじめ生活スタイルや社会的立場が多様になっています。
人と対峙するときに私が思い出す「教え」を、最近また思い出しました。
小学生のときに聞いた「知らないことを知っている人になりなさい」
私が小学5年か6年生のとき。緒方貞子さん(故人・元国連難民高等弁務官)が課外授業の講演にいらっしゃいました。
小学生相手に、優しくおもしろく…というより、ヘンに子どもに媚びず、淡々とスマートで大人っぽく、ちょっと小難しかったのを幼心に覚えています。
とても意義あるお話しだったはずですが、小学生の私には"豚に真珠"。ただ、豚にも一つだけ記憶に残っている言葉があります。
緒方さんの締めの言葉。
「知らないということを知っている人になってください」
当時は全く意味がわかりませんでした。
知らないより知っているほうがいいに決まっているのに、知らないことを知るってどういう意味だろう…。
この「不可解さ」だけ、強く印象に残りました。
やがて社会人になり、仕事をするようになって、ようやく意味がわかりました。
自分が知っていることは限りがあり、全て知っているわけではない。
自分が全てを知ろうとすることも不可能。
自分にとって当たり前なことが相手は当たり前ではないこともある。
自分の世界が全てだと勘違いしてはいけない。
相手にも、私が知らない経験や状況があり、他にも私が知らない世界がある、ということを知っておきなさい。
おそらく…こんな意味だったのではないかと思います。
今思えば、世界をまたいで国連の仕事をする緒方さんならではのお言葉です。
自戒をこめて。
聞けば当たり前ですが、意外とできていないことが多いと感じます。
というか、人と対峙するたびに、私はこの言葉にぶち当たります。
井の中の蛙 "大海の存在"を知っているか、知らないか
井の中の蛙 大海を知らず。
育った環境や仕事の環境、立場によって、"常識"や"文化"が異なるのは当然。同じものを見ているつもりでも、見る角度も違えば、見えている景色も異なるでしょうし、受け取る情報も異なるでしょう。
誰だって自分視点が中心になるし、それは仕方がないこと。
ある意味誰でも、良くも悪くも「井の中の蛙」だと思います。
だからといって、必要な情報や知恵のすべてを自分が知っておくのも無理。
だからこそ、異分野の人との協働や役割の意義があるわけですし、相手が知らないことを自分が知っていることもあれば、自分が知っているけど相手は知らないことがある、お互いさま。
色々知っている博識に越したことはないけれど、私は、「知らないことがある」こと自体は、大きな問題ではないと思います。
でも、
井の中にいる蛙が、「よそに大海があること」を知っているか、「自分がいる井が大海だ」と思い込んでいるか、は大きな違い。
よそに海(大小の差ではなく)があることを知っているということは、自分と異なる経験や文化や能力の存在を知っていることだと思います。
片や、自分がいるところが大海だと思い込んでいる場合は、自分の世界以外の存在を認識していないので、目を向けることもありません。
自分が知らないことを知る、とは、よその大海そのものの中身まで経験する必要ではなくて、よそにも大海がある=「自分が知らないことが存在している」ことを知っておく、ということではないかと思います。
「知らないことがある自分」を認識している人は見識が広い
「よその海の存在」を認める前提に立てているか、が他者との関係にも影響すると思います。
ビジネスにおいては、よその海の存在を知らないがゆえに、聞く耳が持てない人を見受けることがあります。
チームで目的に向かうとき、有効な知恵やノウハウを"よその海の経験者"から提案されても、その有効性や必要性の理解どころか、その知恵が、的確な海の経験から生まれていることにも気づけず、聞く耳を持たない人。
どうして聞く耳を持てないのか、その人をよくよく探ってみると、「自分がいるところが大海」だと思い込みが強く、よその海の存在を知らない、認めていないところがありました。
「自分が知らないことがある」ということを認識していない人は、あまり聞く耳を持たない傾向があると感じます。
逆に、見識が広い人のほうが、自分が知らないことを認識していて、素直に聞く耳を持っている人が多いように感じます。
「自分が知らない大海がある」意識が、他者への想像力に
私は、仕事でもプライベートでも、人との対峙には「想像力」が欠かせないと思っています。
仕事の場面では。
様々な役割や立場の人がいるとき、見える結果だけでなく、相手が駆使した技能や時間など、自分の見えないところで自分にはわからない労力を費やしたであろう、というプロセスや状況への想像力。
具体的な能力や時間の詳細はわからなくても、「私には知らない大海」の存在を知っていれば、他者への想像を馳せることはできると思います。
その想像力が、上下関係なく、気遣いや配慮、労い、尊重につながると思います。
「よその海の存在」を認識していない人は、この想像力も希薄な気がします。他者のプロセスや状況への配慮や労いに疎く、他者の働きや能力を軽んじる傾向があるように感じています。
昔の友人で、こんな経験もありました。
フリーで仕事を始めた私が、終業時間は一定ではないし、休日にも不規則に仕事が入るために、友人優先のスケジュールを組むことが難しくなったとき、友人は、なぜ友達との約束が優先されないのか、私に文句を言うようになってしまいました。
彼女の会話を聞いていると、やはり「仕事や友人関係の在り方はこういうもの」という自分の世界観だけで人を決めつけている感じでした。
学生時代の友人と言えども、大人になれば、各々に異なる生活や考え方、価値観があって、自分が知らない別の世界があるのかもしれない、ぐらいは想像ついているだろうと思っていたのですが。
想像力がないのかな…。
こんなケースに遭遇すると、緒方さんのお言葉を思い出します。
良く言えば、この友人は学生気分が抜けず、友人=自分と同じ世界、と錯覚していたのかもしれません…。
特に学生時代の友人は、昔とちっとも変わらない良さもあって、何の気取りも要らなくて、いつでも童心に帰れるのが最大の魅力。
と同時に、久しぶりに会うと、童心の向こう側で「私が知らない」経験を積んでいることも魅力。
大げさな気遣いや遠慮ではなく、ちょっと想像力があれば、尊重しあえる良い仲が続くのになと思います。
実際に続いている友人たちは、想像力のたくましい人ばかり。
想像力は、自分は知らないことがある、ということを知ることから始まる。それが相手への尊重や配慮につながる。
そんな気がします。
ではどうしたら、自分は知らないことを知っている人になれるのか?
自分を客観視できるかどうか? センス?
うーん、やっぱり難しかった、緒方さんのお言葉。