シュタイナー教育×PBL×第二言語学習の経験③「教科書がない授業」
第3回目は実際の授業についてご紹介します。
私が経験した高校での学習は
・ほとんど英語ができなかった私がイマ―ジョン教育としてシュタイナー教育を受けたこと(第二言語習得)
・シュタイナーの授業で行われている、学生主体のプロジェクト型学習(Project Based Learning)
という2つ収穫があったと思っています。
もちろん当時はそんなことを意識することはなく、毎日を楽しく奮闘しながら生活していました。
私にとってはシュタイナー教育が合っており、大変なことでものびのびとした環境の中で少しずつ習得することができたのだと思っています。
【シュタイナーの授業】
一番特徴的なのがこのメインレッスンと呼ばれる集中講義の時間です。
一か月間(週5日)、朝の90分を使って一つの科目を集中して受けます。先生は一人の先生が毎日連続して教えます。
文系、理系、芸術の科目が順番にまわってきます。私が覚えている授業は下記の通り。
数学:幾何学、関数など
科学:動物学、植物学、海洋学、化学、物理、地質学
文学:アメリカ、ドイツ、ロシア、アジア / 現代・古典
歴史:世界史、アメリカ史、アジア史、アフリカ史、
ヨーロッパ史、ハワイ史、世界大戦史、
音楽史、美術史、建築史、工業史
※数学の記載が少ないのは個人的にあまり好きではなく、あまり記憶がないためです(笑)
メインレッスンが終わると選択授業などが3~4コマあります。
・第二言語(ドイツ語、日本語、英語)
・大学進学試験対策(SAT、Writing)
・ダンス(社交ダンス、フラダンス)
・音楽(ギター、コーラス、ブラスバンド)
・体育
このカリキュラムだけを見ると「バランスが悪くないか?」と不安に思われるかもしれません。
しかし、メインレッスンの中には「読む・書く・聞く・話す」ことがバランスよく取り入れられていますし、一つの科目を学習するのではなく、派生的に色々なことが学べるようになっているのです。
特に国語(アメリカなので英語)については、かなりの量の本や資料を読み、レポートや小論文などを大量に書きます。その過程で文法や表現などを自然に学んでいくわけです。
私も母語話者の生徒に交じって、英語のレベルは違いながらも同じように課題に取り組むことで、自然と英語力が身に付いていきました。
もちろん、話す方(ディスカッションや発表など)もたくさんさせられました。
文法的には間違っていることも多かったと思いますが、相手に伝わることが第一です。
独自の習得スタイルとしては、人が言っているものや書いたもののフレーズを真似しながら表現を覚えていきました。あとはとにかく先生やクラスメイトに「聞きまくる」のが一番の方法でした。
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メインレッスンには教科書がありません。学期の最初にスケッチブックのような大きくて真っ白なノートが配られます。授業で学んだこと、家で調べたり理解したことを自分なりにまとめてノートに書いていき、1か月で一冊の教科書に仕上げるわけです。
イメージとしては今はやっている「バレットジャーナル」の教科書版といったところでしょうか。
レイアウトや書き方(文体や表記)も自分のルールで書き込みます。絵が得意な人は、表紙や挿絵にもこだわって描いていきます。
こちらは私の「建築史」のノートの1ページです。
一冊の教科書を仕上げて、授業の最後の日に先生に提出し、評価をしてもらいます。
最後の提出期限さえ守れば、どういうタイミングで書いていっても構わないので、ためこむタイプの人は毎月ヒーヒーいいながら提出前にまとめて書くことになります。
ただ、教科書がないということは、授業で得たことをどんどん書きとめていかないと忘れてしまうので、実際は毎日家に帰って書き込んでいました。
その他に、細かくレポートや小作品の提出なども頻繁にあり、先生が添削して戻ってきたものもノートに貼っておきます。
最後の日はノートの提出の他に、プレゼンテーションなどもありました。プレゼンの課題は授業の初日に与えられ、それについて1か月かけて下準備をしていきます。
授業で得たことも付け加えながら、少しずつ形作っていきます。
自分の教科書には先生が授業で話したことをそのまま書けばいいのか?というと、そう簡単にはいきません。
授業における先生の役割とは「基礎知識を簡単に紹介する」「課題を提示する」「司会者・ファシリテーター」なのです。つまり、先生の口から語れれるのは基礎の基礎のみ。レポートや発表に必要な発展的な部分は自分で調べていかなければなりません。その上で、生徒は授業内でディスカッションや意見交換をおこないます。
そこまでして、やっと知識として生徒の頭の中にインプットされていくわけです。それをノートに書き込みます。これが一連の授業の流れです。
基礎を知る→調べる→意見交換する、といっても何を調べるかは本人次第です。
各々自分の興味が湧いた方向に調べたり、発信していきます。それこそ理念である「自分の意志で決定」しながら学習をしているわけです。
クラスメイトのほとんどは小学校(幼稚園)からこれでやってきているので、日本の学校から転校してきた私にとっては、自由な学びのスタイルに少し驚きました。
ただ、私ももともと「知りたいものをとことん調べて知りたいタイプ」でしたので、英語力はともかく常に「調べたい欲」を発揮しながら世界中の色々なことを吸収していました。
シュタイナーの教育において特徴的で面白いところは、生徒個人の個性や才能を活かせる部分を伸ばしていくところです。
これが結果的に生徒ひとりひとりが広い知識の海の中から、自分の好きな分野への方向を見つけ、そこへ向かって進んでいくことになります。その過程で得た他の「関連知識」を含めて「自分が学んだこと」となるわけです。
「生物学」の授業では、理科の教科書に載っている「花びらの断面図」のようなものを見て、各部分の名前や機能を知っていきます。これは先生が教えてくれます。
そして、そこから色々な疑問が派生して生まれます。
「種子がない植物は世界にどのくらいあるのか?」
「地域や気候によっての特徴の分布図を作りたい」
「バラの香水を1ml作るのに必要な花びらの量を知りたい(できれば実践したい)」
「食べられる花びらはどのくらいあるのか?」
「花びらや植物を使って染物をしたい」
「植物がデザインにどのように生かされているか調べたい」
というように、人それぞれ、色々な疑問が出ます。
それについて、調べたりお互いの質問について意見を言ったりして、プロジェクトがどんどん生まれていきます。
ある日動物学の授業で、学校の理科室で先生が実物の海綿のスポンジを見せてくれました。
そこから一人の学生が「これで掃除したら、アクリルのスポンジとどのくらい違うの?」という疑問を持ったことが発端で、数日後にクラスを2チームに分けて大掃除がはじまりました。
そして「なぜ、海綿よりもアクリルの方が広く使われているのか?」という疑問に発展し、それぞれの(製造)工程、コスト、市場について調べます。消費者の意見なども、学内や保護者にアンケートをします。
「海綿スポンジは養殖できないのか?」というところから、海綿動物の生殖や育て方を調べる人も出てきますし、同時進行でスポンジの中の空洞がいくつあるかを数えたいと言って、薄く切ったスポンジを数えはじめる人も現れます。
そうやって一つの出発点から色々な疑問が生まれ、その答えを知るための様々な過程を経ます。厳密にいえば「動物学」ではない部分もあるのかもしれません。しかし、研究の世界では分野が異なるとしても、実社会の中では常に様々な分野が混ざり合って共存しているわけです。それを思うと、出発点が「動物学」の基礎知識であれば、全て関連した知識となる、と言えます。
(もちろん、あまりに話題がずれてしまうものに関しては、先生が軌道修正してくれます)
「動物学」といえば、動物園に観察に行くことがありました。
常に「何か知りたい」「何かしたい」という思いの強いクラスメイト達ですから、単に「観察する」だけでは気が済みません。
当日は動物園でドキュメンタリー映像を撮ろう、という話になりました。
どういう内容だったかは覚えていませんが、その日は「全員サファリルックで集合」ということになったのを覚えています。
これは数十年前のことですが、今の時代だったらこういう活動ももっと手軽にできるので、更に色々なことができて楽しくなりそうだと思います。
因みに、この時撮影や編集をしたクラスメイトは現在は映画監督をしています。
シュタイナー教育ではテレビやインターネット等を禁じているという誤解もありますが、これは初等教育の段階で「テレビを見ない週間」などがあるためだと思います。テレビを見ること自体を禁止しているわけではないし、学習にもコンピュータやインターネットを活用しています。
テレビやネットに依存しすぎず、他のメディアと共存させる方法を自分で考え、選んでいくという教育をシュタイナーではしている、というわけです。
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他に印象に残っている授業をご紹介します。
ドイツ文学の授業
一か月かけてゲーテの「ファウスト」を学びました。分厚いファウストですが、もちろん授業中に読むわけではありません。先生が指定したページまで読み、授業では話し合ったり何かを作ったりします。アメリカの大学の授業と同じです。
読むのは何語でもいい、と言われていたので私は日本語版を祖母から送ってもらいましたが、翻訳されている言葉が難しく、英語版と両方見ながら読みました。ドイツ語を勉強していたクラスメイトはドイツ語に挑戦している人もいました。
ところでなぜドイツ文学なのかというと、シュタイナーがもともとドイツ人だったことに由来します。
ファウストには悪魔のしもべや、魔女の祭りなどヨーロッパ中世のミステリアスな要素がたくさん出てきます。授業内で「魔女狩り裁判」の話などにも触れました。授業後にクラスメイトと学校で「クルーシブル」という映画を観て怖いなぁと思ったのを覚えています。
ハワイ史の授業
ハワイに住んでいるわけですから、ハワイの歴史や文化について知る授業もありました。
特にハワイは実に様々な文化が混ざり合った興味深い土地でもあり、後世に残すべき悲しい史実もあります。遺跡や建物などを実際に見に行ったり、ハワイ料理のレシピを調べて実際に作ってみたりしました。
また、後世にどうやってハワイ文化を残していくかを、ハワイ人のゲストに来てもらって話を聞きました。
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ゲストから話を聞く、というのも頻繁にあります。生徒の人数がそれほど多くないため、こちらからの質問にも答えてくれるし、高校生にとっては外の世界を知る有意義な機会です。
ところで、中学生の時にアメリカの学校に入って、一見専門的な授業を受けていた私ですが、英語が理解できていたのでしょうか?
もちろん、はじめのうちはほとんどわかりませんでした。
ただ、英語はわからないけれども「何をやっているかがわからない授業」ではなかったので、
先生が書いたり言ったりするキーワードから推測し、辞書で調べ、内容を理解して、英語にして書いたり発言したり、をしていました。
もちろん私の英語は拙いものでした。
でも、そこを気にする先生やクラスメイトはいません。私がうまく言えなければ周りがサポートしてくれますし、レポートやプレゼンでの先生の評価に「英語」のポイントは含まれていません。
(なので、はじめのうちは箇条書きで書くことが多かったです)
皆が「英語は道具」として捉えているのがよくわかりました。
あの時代にスマホがあって、音声入力→自動翻訳やDEEP Lのような精度の高い翻訳システムがあったらなぁ、とは思います。
でもそれはそれ。
私は私の時代に使えるものを最大限使いながら課題に取り組んでいました。
そうこうしているうちに、少しずつ先生の言っていることが理解できるようになり、本を読むスピードも速くなってくるのを自分でも実感することができました。
おそらく「主に先生が講義をして、教科書を読む授業」だったら私の英語も別の育ち方をしていたと思います。
学校での授業が
・基本的には生徒主体であったこと
・常に情報の発信を求められていたこと
・興味が持てる内容(厳密には学生が興味を持ったものを教材にしている)だったことで、
英語の習得に苦労を覚えることはありませんでした。
特に「生徒主体」という点では、日本の普通の学校から行った私にとっては衝撃的でした。
生徒が興味を持ち、それを徹底的に調べたりまとめたりする。
興味を持たなければ主体にはなれない。
「興味」と「主体」が強く結びついていることがわかります。
これはどんな世界でも同じなのかもしれませんね。
あと1回、学校でのイベントや卒業式について書こうと思います!