いつか京都マルイを幻視する日——映画作品における「失われた風景の記録と再現」、その真骨頂としての『HELLO WORLD』
(ネタバレあり)この記事は、映画『HELLO WORLD』の「クロニクル事業」に代表されるあるモチーフ、「失われた風景の記録と再現」を、昨今のいくつかのアニメ・実写映画に強引に見いだし、無理やり読み解いていくというと同時に「クロニクル事業」の意義を勢いのままに語る企画です。このモチーフを愛するあまり、あらゆる映画にその幻影を観てしまうイキリオタクの妄想力の成れの果てです。(2020年3月19日公開、2020年5月4日追記)
注意:この記事の解釈は、登場する作品に込められた意図を推定しようというものでは全くありません。一部断定調で書いてしまっていますが、実際には制作者の方々はこんな馬鹿げたことは1ミリも考えていないはずです。これらの作品のファンの方々、気を悪くされたら申し訳ありません。あくまで筆者の勝手な妄想と捉えていただければ幸いです。なお、一応「クロニクル事業」とは何かを全く知らなくても読めるようには書いているつもりです。
クロニクル事業というモチーフ——失われた風景の記録と再現
突然だが、自分は「失われゆく風景の記録と再現」というモチーフに以前からめっぽう弱い。
例えば。「ブラタモリ」で現代の市街地の地形から浮かび上がる、何百年も前の風景。あるいは渋谷ストリームのかまぼこ屋根やヒカリエのサイネージの星空にかすかに残る、かつてそこにあったモノの痕跡。Googleストリートビューに残された、震災前のこの街の日常。ふとしたきっかけで目の前にかつての視界がありありと蘇り、意識はそこにタイムスリップする。自分がいま立っている時空は確かにそことつながっていること、失われてしまったその世界の痕跡は確実にここに残っていることを実感して、ちょっとだけセンチメンタルな気分になる。年齢を経るたびに老人特有の厄介な懐古趣味も合わさって、このモチーフに対する偏執はますます強くなってきているように思う(端的に言えば、こいつ頭おかしい)。
かつて「失われた世界」を現前にありありと立ちのぼらせる手段は、自らの想像力だけだった。しかし今や僕らにはそれをアシストできるだけのテクノロジーがある。「ブラタモリ」ではCGがかつての世界をオーバーレイしてくるし、映像作品における過去風景の再現もCGのおかげでかつてないほど精巧になっている。Googleストリートビューは今日も人知れず街並みを丸ごと保存し続ける。そして明治維新以来、加速度的にその姿を変え続けるこの国において、消えゆくものを記録にとどめようという風潮は今かつてなく強まり始めているようにも見える。だからだろうか。昨今の映画作品の多くにも、意識的にせよ無意識的にせよ、この「失われた景色の記録と再現」というモチーフを半ば強引に見いだすことができる。そしてその真骨頂が、映画『HELLO WORLD』に登場する「クロニクル事業」、すなわち作品の舞台である京都において「あらゆる時代のあらゆる情報を記録に残」し、xRを駆使して提示する産学官の共同事業、だと感じている。
この記事では、まずいくつかの映画作品に見いだした、「クロニクル事業」を彷彿とさせるモチーフを書き連ねてみる。作り手が舞台装置として意識的に配したとおぼしきものから完全に自分のこじつけまで様々だが、いずれも『HELLO WORLD』のクロニクル事業に通じる何かが感じ取れるのではないかと思う。そしてこのモチーフを最も直截的な形で打ち出してきた『HELLO WORLD』の「クロニクル事業」と、そのメタな意義についてつらつらと書いてみたい。
この記事には、以下の作品のネタバレを含みます(「*」印は軽微なネタバレです)。未見の方はご注意下さい。
『君の名は。』
『天気の子』
『マイマイ新子と千年の魔法』
『この世界の片隅に』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
『HELLO WORLD』
『枕草子 六百七段 ことばをしたたむるは』
『遠い世界』*
『星を追う子ども』*
『アリーテ姫』*
『know』*
『富豪刑事 Balance:UNLIMITED』第1話「来た、見た、買った」*
クロニクル小海町(1)——『君の名は。』に見る湖の幻影
2016年に公開された新海誠監督の『君の名は。』には、糸守町という山あいの架空の町が巨大隕石により一夜にして湖の底に沈むという衝撃的な場面が登場する。東日本大震災に少なからぬ影響を受けたプロットであることは監督自身も認めているし(作品の起点は閖上であったという)、円形の糸守湖のモデルは諏訪湖だろうという人もいるが、監督の初期イメージは出身地である小海町の松原湖や大月湖だったようだ。
これは自分のこじつけなのだが、失礼を承知で言えば、新海監督の意識下には「町が湖に沈む」というモチーフが以前からずっとあったのではないかと勝手に思っている。なぜならば、監督の故郷である長野県小海町がまさに「かつて湖に沈んだ町」だったからだ。そして自分自身それを知ってから、小海町を通るたびについその衝撃的な光景を夢想してしまうからだ。
海のない長野県にある「小海町」という地名。それだけではない。小海線沿線には「佐久海ノ口」「海尻」「馬流」「海瀬」といった、「海」にまつわる駅名が頻出する。実はこれらの地名の多くは、約1200年前にこの地を襲った大災害を暗示している。平安時代、八ヶ岳の水蒸気爆発により千曲川とその支流が堰き止められ、大小二つの湖が突如として誕生したという。大きい湖の入口と出口に相当するのが「佐久海ノ口」と「海尻」で、この湖は120年あまり存続した。地名が定着するには十分な長さだ。「馬流」という地名も大災害の記憶を今に伝えている(なお、海瀬は災害とは関係ないそうだ)。そして小さい湖は小海と呼ばれ、こちらは1500年代まで存続していたという。そこが、現在小海町と呼ばれている地域である。
つまりこの一帯は、ほんの数百年前まで巨大な湖に覆われていたわけだ。そして地名として定着するほどに、そこに湖があることが当時の人々にとって当たり前の風景だったのだ。この事実は軽くショックだった。それを知って以来自分は、小海線に乗るたびにそこがかつて湖の底であったことを思い起こし、畑や民家が水没し山々の間に広大な水面がキラキラと光っていた時代のイメージを、車窓の向こうに想像してしまうようになった。まるでかつて太古の火星にあった海を想像するときみたいに。
だから、初めて『君の名は。』を観たとき、唐突に思い起こしたのはこの幻影のことだった。小海町に行った人ならわかると思うが、糸守町は雰囲気が小海町に本当に良く似ている。新海監督はその糸守町を湖の底に沈ませた。しかも「1200年前の大災害」というエピソードも史実と奇妙に符合する。
小海町で育った人間はきっと小海という地名の由来をどこかで教わっているはずだ。もしかしたら新海監督も、かつて日々の通学に使っていたという小海線の車窓の向こうに、巨大な湖を幻視したことがあるのではないか? 故郷の風景とは意外と儚く脆弱なもので、簡単に水底に沈みうるものであるというイメージを、実感として監督も持っておられたのではないか? こんな思いが頭から拭えなかった。新海監督の『遠い世界』の車窓にすらその幻影を追い求めるようになった(実際には『遠い世界』には湖は一切映っていない)
クロニクル小海町(2)——『天気の子』が幻視する失われた海辺
そして2019年公開の『天気の子』でそれは確信に変わった。むしろそのモチーフを新海監督がさらに凝縮し、より先鋭化した形で出してきたように思えて戦慄した。今回、監督は愛する東京全体を水底に沈めた。しかも冨美という登場人物(『君の名は。」の主人公の祖母にあたる)に、
東京のあの辺はさ、もともとは海だったんだよ。ほんのすこし前――江戸時代くらいまではね。
だからさ、結局元に戻っただけだわ、なんて思ったりもするね。
なんていう台詞まで言わせているのだ。どう見たってこれは「小海スキーム」そのものではないか。数百年のスパンで見れば、今いるこの土地も水面に覆われたりもする。それを実際に経験してきているのが小海町や東京であり、新海監督はきっと肌感覚でそれを理解している。だからこそ、水没する東京のイメージとこの冨美の台詞が出てきたのではないかと思ってしまうのだ。
つまり新海作品には、町を覆う巨大な湖のイメージが、形を変え繰り返し現れる。「喪失」「高い塔」などと同様、「湖に沈んだ町」も新海監督の共通的なモチーフと言ってもよいのではないか。『君の名は。』で湖に沈む糸守町。『天気の子』で水没する東京。さらに『星を追う子ども』の、地底湖の下に広がる異世界アガルタもそこに含めても良いかも知れない。湖底の街——このイメージは『HELLO WORLD』に登場するジュブナイル小説『大湖底都市』とも奇妙にシンクロする。新海監督に限らず、SFマインドを持つ人間を惹き付けてやまない情景でもあるのだ。
そしてこのモチーフは同時に、きわめて「クロニクル事業」的な装置でもある。『君の名は。』では、水底に沈んだ糸守の光景と沈まなかった糸守の光景が、どちらも紛れもない現実として観客に提示され、さらに1200年前の災害をも想起させる。『天気の子』では観客は冨美とともに、ほんの数百年前は入り江だったこの都市の情景をありありと想像する。これぞ「クロニクル小海町事業」ではないか? 四条堀川交差点でARゴーグル越しに「クロニクル京都」の平安の築地土塀を眺めていた観光客は、ここでは水に沈んだかつての町の幻影を見る。糸守や東京の光景のさらに向こうに、かつて小海町に存在した湖のきらめきを垣間見るのだ。
クロニクル東京——変わり続ける都市の記録としての『天気の子』
『天気の子』ではさらに別の意味で、監督が意識的にきわめて「クロニクル東京」的な考え方をこの映画に持ち込んでいることも指摘しておきたい。
東京オリンピック前の東京の記録でもある
作品の舞台は2021年ですが、2020年のオリンピックが開催される前の東京についても僕は描いておきたかった。これから東京という街がよくも悪くも変わって行く前に、「今の東京」をアニメーションに残しておきたい気持ちがありました。
——ウェザーニューズ:『天気の子』新海誠監督単独インタビュー 「僕たちの心は空につながっている」
変わり続ける都市を記録に残す。これこそクロニクル事業の真髄である。事実、この映画はオリンピック直前の東京を、視覚的風景だけでなくサウンドスケープまで含めて圧倒的情報密度で記録した一種の記録映画といえるし、実際この映画に出てきた一部の建物はすでに取り壊された。消えゆく東京の風景を少しでもこの映画の中にとどめてくれた監督の意気には感謝の念を禁じ得ない。この映画は現在進行形で「記録世界」としての意義を高めつつある。オリンピックが終わった東京で、僕らはどんな想いでこの記録世界を眺めるのだろう。
クロニクル防府・呉——『マイマイ新子』『この世界の片隅に』が現出させるオープンワールド
次は片渕須直監督の作品に触れたい。誤解を恐れずに言えば片渕監督の作品は、2つの意味で、まさにクロニクル事業を地で行くようなコンセプトで作られている。
一つは、記録世界もかくやと思わせるほどの徹底的な世界考証である。2009年公開の『マイマイ新子と千年の魔法』では、昭和30年代の防府市が綿密なリサーチによって今でも聖地巡礼できるレベルで再現されているが、それだけにとどまらず本作品は10世紀の周防の国の情景について、どこに何があり、いつ何が起こり、誰がどんな言葉を話していたかに至るまで、大量の史料を元に考え得る限りの忠実度で再現している。画面の隅々まで史料の裏付けがあるだけに情景の説得力が半端ない(おっと、ここも千年前は海の底だったようだ。制作スタッフは千年前の海を幻視しています)。
そのアプローチは2016年公開の『この世界の片隅に』において極限まで強化される(こうの史代さんの原作の時点で既にこの路線である)。もはや時代考証なんていう生易しいレベルではない。そのシーンの日時、その日の天気、呉の軍港に何という船舶がいて、空襲警報が何時何分に鳴ったか。今は広島平和公園と呼ばれている一帯にかつてどれほど賑やかな繁華街があり、そのどこに何の店があり、どんな外装で、どんな人が働いていたのか。人々はどんな服を着て、何を食べ、何を思って生きていたのか。膨大な一次史料から再現されたそれは、もはや現実と区別がつかないほどの情報量を持ったひとつのオープンワールドだ。この「クロニクル呉」「クロニクル中島本町」には、史料とフィールドワークから収集しうるかぎりの「全事象」が記録されている。
圧倒的な情報量は空前の臨場感を生み出す。この映画を見終わった後、まるで自分がずっと主人公・すずさんの斜め後ろで、同じ世界を生き同じ風景を見ていたような錯覚にとらわれなかっただろうか。自分が物理権限のないアバターとなって、この精巧に再現された記録世界の中をすずさんと歩き回ったような没入感。いつしか疑う余地のないほどに、すぐ隣に感じられるすずさんの実在感。これは、アルタラの実体験としての映画の一つの完成形である。そして広島を訪れた自分は、広島平和公園の木々の間にありありと歳末の中島本町の喧噪を幻視できる身体にすっかりなってしまっていることに気付くのだ。
クロニクル周防——千年の時を超える『マイマイ新子』の妄想力
さらに、この「かつてここにあった世界の幻視」は、「少女の想像力三部作」と呼ばれる片渕作品に共通するもう一つのクロニクル事業的要素でもある。これは特に『マイマイ新子』において実にストレートな形で表現されている。防府市に引っ越してきた少女・新子の伸びやかな想像力、いや、もはや妄想力は、川面に秘密の友達(緑の小次郎)を走らせ、麦畑の海に巨大な船を見いだし、しまいには平安時代の国衙の街並みをブラタモリさながらに現出させる。そこに暮らすキュートな姫・諾子も、すずさん並の実在感をもって周防の国を生き生きと駆け回る。ホワイトインといった「これは空想ですよ」的演出は一切排され、現実と空想は完全にシームレスに描かれていて、どこからが空想なのか判然としない。「こっちが現実、こっちが空想と入れ替わっていても、観客はその違いを観測できない。真偽を問うのは無意味だ」。
いい年して未だに車窓に小次郎ならぬ忍者を走らせている自分はどうも妄想癖が強いようで、すぐに小海町の湖やら呉港に浮かぶ大和やら京都市街の「ジドウ」レーンやらを視野にオーバーレイ表示させる悪癖があるのだが、新子の妄想はまさに自分の感覚の忠実な映像化そのものだった。全く同じ感想を抱いたのが、『HELLO WORLD』冒頭の四条堀川交差点のシーンだ。シームレスに立ち現れる平安の街並み。クロニクル京都事業が提供するARデバイスはまさに、新子の類いまれな妄想力の科学技術による具現化に他ならない。
そして平安時代の少女・諾子もまた周防の土地の記憶から、さらに遡ること数百年前、流れ星を追ってこの地に渡来してきた人々に想像力を馳せる一人である(『君の名は。』と対照的に、ここでの流れ星は製鉄業の発展の象徴であり、一種のテクノロジー賛歌だ)。豊かな感受性と想像力を持つ彼女はやがて成長して清少納言と呼ばれるようになる。
——清少納言。この文脈においては、『HELLO WORLD』スピンオフの一つとされる『枕草子 六百七段 ことばをしたたむるは』(野﨑まど)を否応なしに思い出してしまう。この小品で彼女は、諾子だった頃を彷彿とさせるような想像力で、書くこと、記録することを深く洞察し、その遙かな延長線上に確かに量子記憶装置アルタラの萌芽を感じ取る。彼女は平安時代にあって、クロニクル京都のコンセプトを確実に理解していた一人であろう。
物事書き澄ますはやむごとなし。留めずは一念に消えぬるものが、ことばにするに残りたる。(物事を書き留めることは大切である。書き留めなければ瞬く間に消えてしまうものが、文字にすることで残る)
消えぬるよりよければ、片端なりとも、我は記し留めゆかむとおぼゆ。(消えてしまうよりはよいと思われるので、不完全だとしても、私は文字の記録を残していこうと思う)
しからば、この刻もまた見つけられて、我がもの書き留むるすがたを、りんと記すべしと思ふ。(そうならば、今のこの時もまた(後の時代に)見つけられて、私がものを書き留める姿を、精密に記録してもらえるのだろうと思う)
この時代を先取りした感性、千年もの時を超えて未来を見通す想像力は、確かに諾子のそれである。そして僕らは今度は、京都の地においても再び彼女を幻視することすらできる。京都歴史事業記録センターから借りたARデバイスがあればそれを片手に、なければ自分の妄想力だけを支えに、ナオミや連レルの通勤路、すなわち出水通を西進しよう。千本通の交差点の少し手前あたり、かつての大内裏の登華殿で、興に乗って筆を走らせる彼女の幻影を御簾の向こうに垣間見ることがきっとできるはずだ。
クロニクルハリウッド in 1969——『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』と記録世界の改竄
最後は2019年に公開された、クエンティン・タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』である。もしまだ見ていない人がいたら、できれば本作が1969年に起きた「シャロン・テート殺害事件」を題材にした物語であることだけは把握したうえで鑑賞してほしい。それを知らずに本作を観ることは、原爆投下という史実を知らずに『この世界の片隅に』を観るに等しいからだ。
『ワンハリ』の舞台は1969年の西海岸である。西部劇の黄金時代に斜陽が射し始め、マカロニ・ウェスタンが台頭し、でもまだ皆がゴールデンタイムに同じチャンネルにダイヤルを合わせている時代だ。本作も徹底した時代考証がなされている。主人公2人は架空の人物だが、彼らにもすずさん並の実在感が与えられ、当時のTV映像、プロップ、風景、ファッション、世相、空気感に至るまで「1969年」が再現されている。
しかし『ワンハリ』が再現した1969年のハリウッドはあくまで手段であって目的ではない。そこが上述の作品群と比べても特に強い動機付けとなっている。では一体何をするための手段か。それは、記録の改竄。「シャロン・テートが生き続ける世界」の構築だ。
一つだけでいい。幸せになった彼女の笑顔が欲しい。その記録が欲しい。思い出が欲しい。たとえそれが、現実じゃないとしても。たとえそれが
——映画の中の世界だったとしてもだ。
タランティーノ監督にとっての映画は、まさにカタガキナオミにとっての量子記憶装置アルタラなのだ。惨殺されたハリウッド女優、シャロン・テートが平穏に生き続ける世界を構築するために、監督はその「神の手」でセカイを細部まで作り込み、注意深く隣人を配置する。彼女を映画館に連れて行き、少しでも映画人としての幸せを感じてもらおうとする。二人の主人公ですら、シャロン・テートを生かすために生み出された存在だ。しかし彼らの人物造形の深さは作品世界の作り込みと相まって、彼らをしっかりと主人公たらしめている。そしてこれらの強固な物語構造と綿密な設定、徹底した時代考証に支えられて、この世界線において彼女の生は必然となる。もちろん監督は、幸せになった彼女を連れ去ろうなんて不粋なことはしない。新たな世界線は開闢し、自走をはじめる。彼女は幸せに、まっさらな人生を生き続けていくのだ。「映画の中の世界」で。
"I'm Sharon Tate. I'm in the movie." ——Sharon Tate
ここで「ワンス・アポン・ア・タイム」——「昔々、ハリウッドで……」というタイトルが重要な意味を帯びてくる。どう見てもこれは、物語、おとぎ話(TALE)の語り方だ。タランティーノ監督は、これが「おとぎ話」に他ならないと二重線を引いてくれている。これはフィクションだ。「現実の彼女は戻らない」。でもフィクションの世界で彼女は救済され生き続ける。
ALL TALE。すべての物語。クロニクル事業の核であるアルタラが保持している記録世界は物語でありフィクションだ。しかしその世界の住人にとって個々の物語は紛れもない現実だ。イーガン的宇宙論においては記録世界と現実世界は等価だからだ。そしてフィクションは現実すら変えていく。金のカラスの手助けがなくとも、物語は第四の壁を破って世界の見え方を改変する。たとえそれが完全な作り話であるとわかっていても、映画鑑賞後のシャロン・テートに対する僕らの想いは確実に何かが変化している。物語にはそういう力がある。
同時に本作は、フィクションが本質的に孕む危うさを観客に提示することも忘れていない。作中において、当初は史実通りシャロン・テート邸を襲撃しようとしていたカルトコミューン、マンソンファミリーのメンバーは、ふとしたきっかけから予定を変更し、隣の家を襲撃する。シャロン・テートを救うためにタランティーノ監督が行った「記録の改竄」——それは襲撃犯の一人が偶然、隣に住む往年のTVスター、リック・ダルトンを見かけて閃いた天啓。こんな決定的なスピーチである。
"We all grew up watching TV, you know what I mean? And if you grew up watching TV, you grew up watching murder. Every show on TV that wasn’t I Love Lucy was about murder. So, my idea is: We kill the people who taught us to kill. I mean where the fuck are we, man? We’re in fucking Hollywood, man! The people who an entire generation grew up watching kill people live here."——Sadie Atkins
TVは、ハリウッド俳優達は、殺人を教えてくれた。だから、それを教えてくれた奴らを殺す。この台詞は、ついさっきまで「虚構が現実を変えていく」などとほざいていた僕らの脳天に突き刺さるようにも思える。しかしこれを表明した狂信者の作品世界での末路からもわかるように、タランティーノ監督は本気でこう思っているわけでは全くない。むしろその正反対だ。かねてより監督は映画の中の暴力と現実との関係について何度も聞かれうんざりしつつも、「現実の暴力は現実の暴力、映画は映画だ」という一貫した主張を続けている(こちらのレビューは映画の中の暴力に対する彼の姿勢について丁寧に解説している)。襲撃犯の台詞は、ある意味とても「正しい」。だけどその「正しさ」はマンソンファミリーの集団妄想そのものであり、対峙すべき思想なのだ。
この問題についてはしばらく考えていたのだけど、こちらの考察を読んで大いに納得できた。メタに考えるとこれは、フィクションとフィクションの戦いなのだ。集団妄想というフィクションと映画というフィクションの戦い。そして、ここで勝利を収めるのは映画である。
それでも、彼は映画の力を信じる自分流の「お伽噺」として「映画の勝利」を描きたかったのだと思っています。
——【ネタバレあり】『ワンスアポンアタイムインハリウッド』解説・考察:お伽噺の結末に込められた意味とは? | ナガの映画の果てまで
物語は強大な力を持っている。映画を生み出すのも、集団妄想を生み出すのも、その根底にあるのは物語であり、あってほしかった世界をありありと幻視する力だ。物語はシャロン・テートを殺すこともできるが、幸せな生を与えることもできる。クロニクル事業の功罪がここにある。そして物語が救済するのは登場人物だけではない。観客である僕らもまた救われている、変化させられているのだ。『マイマイ新子』で諾子という物語が現実世界の貴伊子を救ったように、僕らはシャロン・テートが生き続ける世界に祈りにも似た感情を抱き、車窓に小海の幻を垣間見ては世界の見え方を新たにし、映画という没入体験に生きる気力を与えられている。これも、クロニクル事業の隠れた力なのだ。
クロニクル京都——そしてテクノロジーは妄想力を実体化していく
随分と回り道をしてしまった。ようやく『HELLO WORLD』のクロニクル京都の話をする。といっても実は言いたいことは上の方でだいたい言い尽くしている。
自分がこれまでいくつかの映画を観て共通的に(半ば無理矢理に)感じとってきた、
(1)失われた遠い風景を可能な限り克明に記録する
(2)それを圧倒的な情報量で目前にありありと再現する
(3)それにより、その中の人々に現実と等価な新しい生を与える
というモチーフを、そのまんま純度99.999%まで精製して中性子星みたいな高密度でこちらの喉元に突き付けてきたのが、クロニクル京都事業であり量子記憶装置アルタラだった。あまりにストレートな一球を受けて自分の頭は混乱した。
そもそも、クロニクル京都事業を立ち上げた「千古恒久」という登場人物の名前からしてヤバい。「千古」「恒久」である。クロニクル事業のために生まれてきたような名前だ(ちなみにフォロワーさん情報だがその名も「クロニクル千古の闇」というファンタジー小説のシリーズがあるらしい。未読だがちょっと直実が読んでいた「エイラ」シリーズを思い出させる)。
千古の時を経て存続し続ける京の都と、「あらゆる時代の、あらゆる情報を記録に残す」量子記憶装置アルタラ。ALL TALE。「あらゆる物語」。
『君の名は。』『マイマイ新子』『HELLO WORLD』『ことばをしたたむるは』に共通する千年という時間スケールの妙を思う。そこにあるのは、圧倒的な時間の隔絶をも超える想像力、「夢物語ではなくこの世界の延長線上に」その光景を感じ取る力だ。
片渕監督の『アリーテ姫』(全くSFの顔をしてないのにゴリッゴリのハードSFという意味で『HELLO WORLD』に通じるものがあるので、SF好きは観て下さい)の終盤、主人公アリーテ姫は言う。
今、遠い浜辺に立っていた?
千年もの時を飛び越えて、すごい魔法が詰まってるのよ、人のここには。
そして、それは未来へ向ける事だって…。
そう、千年もの時を飛び越えて、僕らは遠い浜辺に立つことができる。周防の潮風に吹かれ、呉の街の夕餉の匂いを嗅ぎ、小海の水平線のきらめきを見つめ、ハリウッドの撮影所のクラッパーボードの音を聴くことができる。その時間の矢を未来に向ければ、逆にそのまなざしに対して「入り給へ、ゆくすえの人ぞ」と声を掛けることさえできる。アバターもARゴーグルもなしに、僕らの想像力はそれをやすやすとやってのける。それが「物語」の持つすごい魔法の力だ。
その意味で、アルタラとクロニクル事業は既に概念としてはとっくに実現しているのだ。数多の映画や小説という形を借りて。映画を観た後、京都に降り立った自分の身体はそれを「体感」した。目にはドローンが空を飛び自動運転の京都市バスが行き交う2027年の堀川通が、さらに情報材にまみれた2081年の京都ピラアまでもが映る。スクリーンで観たとおりの景色、いや、むしろスクリーンではカットされていた膨大な情報量の奔流がそこにある。カメラフレームの外にあったはずの風景、主人公が感じていたはずの音や風や匂いや手触りが五感に一気に流し込まれ、脳がバーティゴを起こしかける。描かれていなかった主人公の思考や行動原理さえトレースできるような錯覚に陥る。伏見稲荷駅前での咄嗟の判断、アルタラセンターへの通勤経路、そういったものが現実世界の圧倒的な情報量の助けを借りて肌感覚として実体化する。それは完全に「オタクの妄想」以外の何物でもない。しかし妄想とわかっていても、そこに新しい世界が生まれ、生を受けた登場人物達は勝手にそれを謳歌し始める。
以前、アルタラの追体験としてのGoogleストリートビューという記事を書いた。
当時の自分にとって、映画の世界を追体験する書籍以外の手段はストリートビューしかなかった。そして記事に書いたようにGoogleストリートビューはPluura社のクロニクル事業のこの世界での実装例として秀逸なメタ構造を形成している。この主張は今でも変わらないが、聖地巡礼の臨場感はあまりに圧倒的だった。現実世界の情報量の質と量にGoogleストリートビューは今はまだとうてい勝てない。でも。きっと遠くない将来、テクノロジーはそれを可能にしていく。科学技術の発達の本質がヒトの能力の拡張であるならば、僕らの想像力・妄想力もまたその対象となりうるからだ。それがクロニクル事業の行き着く未来のひとつだ。
上記の記事では映画のエンドロールでキースポットとして登場する京都マルイを引き合いに出し、Googleストリートビューの助けを得て、かつてそこにあった「失われた風景」、四条河原町阪急を幻視するという話を書いた。まさかその十数日後に京都マルイ自身が「失われた風景」への道を歩み出すとは夢想だにしなかった。京都マルイが2020年5月に閉店するというニュースは制作側にもファン側にも大きな衝撃をもって受け止められた。しかし図らずもこれにより、この映画自体が世界の記録、クロニクル京都事業の暗喩である、という物語構造がよりいっそう強固なものとなった。「京都マルイのある風景」を永遠に記録世界に残してくれたこの映画に感謝したい。
近い将来、京都マルイは記録世界でしか訪れることのできない場所になる。しかし僕らはいつでもその跡地に京都マルイの姿を、四条河原町阪急を、さらには舟の行き交う高瀬川の賑わいだって幻視することができる。それがフィクションの力だ。そして『HELLO WORLD』は自分のただの妄想に過ぎなかったそれを、量子記録技術というテクノロジーの力で実体化できるようになったほんの少し先の世界の物語だ。ただそれだけの話だけれど、この世界観、このモチーフの多重性が、私がこの作品に強烈に惹かれてやまない理由のひとつである。
* * *
なお、アルタラおよび本作にはさらに「記録する」「記述する」「書く」というモチーフ、それから「世界の等価性」「すべての物語の肯定」というモチーフがあると感じていて、これらについてもずっと書きたいと思っているのだが、あまりに本稿が長くなりすぎたのでこれについてはまた稿を改めたいと思う。まだ続くのかと思ってうんざりした方、ここまで読んで頂いた(飛ばし飛ばしでも)というだけでもその艱苦と尽力たるや、感に堪えません。
追記:2020年5月4日の世界から
伊藤監督のBD発売記念インタビューに、京都マルイについてのコメントが載っていた。ある部分にハッとさせられた。
マルイさんが製作委員会に入っていたので、面白がって勝手に俺の方でやってしまいました。それに、俺はアーカイブに残すのが好きで、『世紀末オカルト学院』でも数年後に無くなる長野駅前のモニュメントを映像で描いたんです。それは時代的に正しかったから良かったのですが、ロケハンに行った時に「このアングルだな」と色々写真を撮って映像にしたものが、まさか嘘になってしまうとは……。でも、2027年までにまた京都マルイが同じ場所で復活するかもしれませんし、そうなるのを期待しています。
——「“本当に面白いのか?”の自問自答が繰り返される作品。『HELLO WORLD』監督がオリジナル劇場アニメーション初挑戦で経験した苦労と面白さ」:WHAT's IN? tokyo
「アーカイブ」。このnoteでグダグダと書いてきた自分の嗜好はまさしくこの一言に集約される。クロニクル事業の真髄。
自分が惚れ込んでいるこの概念を、伊藤監督は意識してこの映画に盛り込んでおられたのか。そう思うとこみ上げるものがある。つくづく頭のおかしい鑑賞の仕方しかできないと思っていた自分の視点が、ほんの少しだけ肯定されたような気になってしまう。おこがましいのは分かっているけれど。
そして、伊藤監督の「アーカイブ」に対する鋭い感性を再認識させられたのが、2020年4月に放映開始した監督の最新作、『富豪刑事 Balance:UNLIMITED』の第1回「来た、見た、買った」である(この回の絵コンテ・演出は伊藤監督自身だ)。
東京・銀座の街並みのワンカット。街行く人々がみな、マスクをしている。
鳥肌が立った。
この映像は確かに、いまも轟音を立てて変わり続ける僕らの日常を、この世界の空気を、切り取った「記録」だ。
数年後、このシーンを見た僕らは何を思うのだろう。あの時は大変だったねえと懐かしがるのだろうか。それともマスクのないシーンにむしろ失われた風景を感じるようになっているのだろうか。もはやこの混迷する世界線が一体どこに向かっているのか、皆目見当もつかない。けど、今後このシーンを見るたびに、きっとこの非日常的な日常に流れていた空気を思い出すだろうし、忘れたくないと今は思う。数多のフィクションが文字通り世界から振り落とされていくなかで、『富豪刑事 Balance:UNLIMITED』は現在進行形のこの世界に確かにしがみついて爪痕を残すことに成功している。それが、アーカイブの力だ。
『富豪刑事 Balance:UNLIMITED』は、新型コロナウイルスの感染拡大に最大限の配慮をするべく、3話以降の放送延期が決定した。いっぽうで京都マルイは、恐らく臨時休業のまま閉店の日を迎える可能性が高い。映画館も書店も閉鎖され、すっかり人の気配が消えてリカバリ中の京都みたいにしんとした世界に出ると、かつての人類の典型的な行動様式だった群衆の姿を幻視する。穏やかだった日々はいかに本や映画やTVや音楽、ショッピングやスポーツや旅行に救われていたかに気付く。フィクションの一部は今この瞬間も僕らを救い続けている。今年のゴールデンウィークは、Googleストリートビューを使ったオンライン帰省が奨励されている。そしてその「記録世界」でかつての家族と再会した人々がいるという。虚構が現実と混線していく。
秒単位で変容していく価値観や行動様式に翻弄されながら、ふと、この時代の空気を忘れてはならない、この世界を記録せねばならない、と思う。
クロニクル京都事業が開始したのは、奇しくも2020年である。
1ヶ月半前に書いたこの記事がすっかり別の世界の話に思えてしまう(ええと、オリンピックって何でしたっけ)ほどのスピードで変わり続ける世界において、あらゆるフィクションはかつての人類社会のアーカイブ、失われた風景の記録としての意味を持ちつつある。そして今この現在をも果敢にアーカイブしようとする作品や、ディスタンス時代の新しい表現形式(ディスタンス・アート)さえ生まれようとしている。今はただフィクションの力に支えられながら、全ての人達に新しくも穏やかな日常が戻るのを祈ることしかできない自分がいる。それでもこの世界の変転を少しでも記録し、記憶に留めていきたい、とクロニクル事業元年であるいま、思う次第である。
片端なりとも、我は記し留めゆかむとおぼゆ。
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(注)この考察はあくまで(自分なりに納得できる)解釈の一例であり、異なる解釈を排除したり反論する意図は全くありません。今後考察を深めていく過程でこの考察がひっくり返る可能性も十分にありますので、何卒ご承知置き下さい。特に本稿で紹介した映画については記憶を頼りに書いているため、事実誤認があるかもしれません。
また、これらの解釈は恐らく制作者の意図とは異なるだろうと考えています。ただし本作の制作陣がこの作品に自由な解釈の余地を意図的に残している以上、観客の数だけ「ALL TALE(すべての物語)」が存在し、それらはすべて肯定されている、それぞれがこの作品世界において「観たい物語」を紡ぐことができる—『HELLO WORLD』は、そんな作品だと思っています。