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【読書ふしぎ体験記】読んでたら涙がボロリ…満員電車の中で!

満員電車の中で、不覚にもボロリと大粒の涙をこぼしてしまった、という経験はおありでしょうか? 私はこないだ、初めてやっちまいました。平日の夕方、中央線の荻窪から座って、読みたかったその本を開き、新宿を過ぎたあたりのぎゅうぎゅうに混んだ中央線の中でボロリと。
こっぱずかしくて電車内でうつむいていた、「ALL REVIEWS友の会」ライティングチームの坂元希美です。悲しいことや口惜しくて踏ん張っていたならともかく、読書でそんなことになったのは初めてでして…読んでいたのは原田マハ氏の『太陽の棘』でした

原田さんの作品は美術を題材にしたものが多く、私は美術関連も大好きなので、いつも嫉妬にも似た“わかりみ”が過ぎる…! と歯ぎしりしてしまうくらい。歴史の中の画家も、現実にはいない美術家も、キュレーターも家族も関係者も、まるで読者の自分がその登場人物と一緒にいて、できごとを垣間見ているような気分になる。そこで繰り広げられるドラマは体験したことのない世界なのに、彼らのほとばしる感情に没入してしまう。ストーリーは本当に劇的で、時間軸や空間軸を行ったり来たりしていても、読者を掴んで離さない…!

その原田さんが、「月刊ALL REVIEWS」のノンフィクション部門第1回に登場され、『ならず者たちのギャラリー 誰が「名画」をつくりだしたのか?』(フィルムアート社)について、鹿島茂さんと対談。

※動画は、ALL REVIEWS会員のみが閲覧できます

原田さんが「抜群におもしろい!」と絶賛し、鹿島さんが「原田さんの新たな作品が生まれますよ」と断言する1冊。こんなにお二人がわくわくする本なのか!(買っちゃいました~)


ザ・ドラマティック! 原田作品は映画のようで…

さて、『太陽の棘』を読んでいた時、たまたまノイズキャンセリングのイヤホンで聞いていた音楽が、あるシーンと見事にシンクロして、溢水してしまったのです。

『太陽の棘』は、第二次世界大戦直後の沖縄が舞台。新米ドクターのエドが在沖縄アメリカ陸軍の従軍医として赴任し、そこで迷い込んだ「ニシムイ・アート・ビレッジ」で沖縄の画家たちに巡り合う。お互いに、巡り合うとは夢にも思っていなかったアメリカの青年と、日本でもアメリカでもない宙ぶらりんの土地で、厳しく暮らす画家・タイラとその家族や仲間たちが出会い、「絵」を軸として交流していくのだ。

こってりとした映画のように、シーンを思い浮かべながら読み切ってしまう。原田氏が無類の映画好きでおられることも、ストーリー仕立てに影響があるのだと思う。映画であれば、動きがあり、色があり、音があるだろう。そして、たいていはBGMがある。

映画にはBGMがある。読書には?

ふつう、映画のBGMは場面に合わせたものが使われるし、作られる。効果音もある。今回、この本を読んでいてボロリと涙が出た瞬間に聞いていたのは、そんなふうにぴったりと合わせられたものではなかった。その曲は単体でもじゅうぶんに感動的な曲であり、名手による演奏ではあるけれど、BGMに向いているわけではないと思う。イヤホンに流れていたのはブラームスの「ピアノのための6つの小品」Op.118-2 イ長調 インテルメッツォ。クラシック音楽好きの方には、とても有名な曲だろう。

これは人気のあるグレン・グールドの演奏

私は、音楽も大好きだけれど主たるフィールドがロック(激しめ)で、クラシックは詳しくなく、興味があれば聞いてみようという程度。その時、デジタルプレイヤーに入っていたのはシーモア・バーンスタインの演奏によるものだ。たまたま惚れこんで入手したアルバムで、1時間ほど電車の中で読書をするにあたり、雑音を遮断しつつ集中できる(流し聞きができる)からと、その時にクラシック音楽だし~と選択して、そのアルバムを再生していたのだ。

苦悩のラブソング

Op.118-2 イ長調 インテルメッツォは、ブラームスが晩年にクララ・シューマンにささげたもの。クララは、ピアノの名演奏家であり、あのロベルト・シューマンの妻でもある。ブラームスはシューマンを師と仰ぎ、深く尊敬していたと同時に、クララに敬愛以上の愛を寄せていたという。

この曲は、言ってみれば美しいラブソングで、多くの有名な演奏家が弾いているし、Youtubeで検索すればたくさんヒットする。「テネラメンテ=愛を込めて、 優しさを込めて」と指示されているので、優しく美しく演奏されるのだろうが、シーモア・バーンスタインの演奏には苦悩が感じられるのだ。ブラームスが「わが苦悩の子守歌」と述べた小品集におさめられたこの曲は、尊敬するシューマンへの想い、クララへの40年に渡る敬愛と恋愛のはざまで作られたブラームス59歳の作品。演奏時間でいうと4分40秒あたりの盛り上がりで、シーモアの奏でる左手低音部が、心の底にくすぶる激情を瞬間的に吐露する。

曲がちょうどそこに差し掛かった時、『太陽の棘』の中で、主人公のエドとニシムイの画家・タイラが初めてぶつかる場面を読んでいた。絵画を愛するもの同士、言葉や立場を超えてうちとけてきた…と思い始めた頃、そのゆるみからか、エドの発した言葉がタイラを激昂させる。エドに悪意はまったく無かったし、合理的な意見だった。しかし、2人の間にある本来の隔たりは、そう簡単に超えられるものではなかった。タイラは必死に押し隠していたのだ。絵で繋がりあっているから超えられるんじゃないか、隔たりを感じさせたらその繋がりが壊れてしまう…けれど、抑えることができずに溢れた感情の爆発に、シーモアの左手低音部の音色がちょうど重なってしまった。私はストーリーに没頭していたのだけれど、その時、自分がボロリと大粒の涙をこぼすとは思ってもいなかった。押し殺していた激情が溢れるという、文字と音のふたつの表現が、偶然にぴったりと重なって、私の涙線のたがを飛ばしたのだった。

どうして文字や音が、感動させてくるんだ!?

ブラームスの話は、実はボロリ涙の後に調べたもので、そっかあ、それでかあと納得したのでした。でも、なぜこんなに感動したんだろう?

芸術は、絵画であれ音楽であれ文学であれ何であれ、感情を伝える手段だと思う。送り手と受け手の双方向だが、いつもバランスが拮抗しているとは限らないし、あいだに伝え手(演奏家など)が挟まることもある。その2者なり3者が、カチリと繋がるときにえもいわれぬ感動が呼び起こされるのではないかしら。読書でこんなにフィジカルにまで感動したのは初めてだと思う。偶然が押した涙線スイッチだったけれど、とてもいいものでした。

またそんな感動に出会いたい! という本を書評家たちがどんどん推してくるのです…ALL REVIEWSで。

ALL REVIEWS掲載の原田マハ氏作品書評

この記事を書いたひと:坂元希美
本をつくる人、よむ人、あむ人、ひろげる人、うけとる人…好きだからこそ、もっと知りたい! 京都人・HR/HM愛好家・がんサバイバー
https://note.mu/delilah_nya
https://twitter.com/delilah_nya

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