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これまで自分が「これが私だ」と思ってきた自分像が崩壊していくとき、人は戸惑いや苦しさを覚えます。

それは魂視点からすると「ホントの自分」に還って行ってるので喜ばしいことなのだけど、自我の私はこれまでと「あり方」が変わるのをキライます。

これまで信じてきた自分像は自我の視点からみた「偽りの自分」で、ホントの自分ではありません。生まれてこの方ずっとそれが自分だと思ってきたので新たな自分が出てきたときにどうすればいいのかわからないのです。

自我は変化をキライます。
口では「変わりたい」と言っていても簡単に変われないのは、強固な自我が「それは安全ではない」「変化なんて危険だ」と働くからです。

それでも「いいや私はホントの自分で生きると決めたんだ」と強い意志を持ちビビりながらも魂の声に従って進んでいくと少しづつ心の解放がおき、目覚めていきます。

私も今この道のりの途中にいて、葛藤や戸惑い、苦しさを感じます。

そんなとき同じ志を持つ仲間たちから教えてもらうことがあります。
それは直接アドバイスをもらうというより、彼女たちを見ていて氣づかされることがある。自分ごとは分からないのに人を見て氣づくというのは「あるある」ですが笑。

数か月前のこと。
モニターセッションをさせてもらった仲間のひとりが
「最近自分の知らなかった自分が出てきた。そんな自分を見たことがなくてどうすればいいのか分からなくて困ってる」という相談を受けました。

また同じセッションで別の仲間からも
「みんなといる時の自分がこれまでの自分ではない。これまでの自分もいるしそうでない自分もいる。どうしたらいいのか分からない…」という似たようなお話を聞きました。

そのときは数秘とホロスコープの観点から私の感じることをお話させてもらったのですが、その後私も彼女たちと同じ経験をし「こういうことを言ってたのか」とようやく言葉にできるようになったので今回シェアしたいと思います。


今年の春、3年ぶりに家族に会いました。

これまでの私の心は、大部分を家族やパートナーが占めていました。
無自覚のうちに自分を犠牲にして家族に尽くし、オットに尽くし、というのをやっていました。
それを「愛」だと勘違いしていました。

そんなあり方が苦しくなり、しばらく家族と連絡を絶ち自分の心を見ることを始めました。

その期間様々な学びをし少しづつ自分も変わっていったのだと思います。
「思う」と表現したのは、自分ではどのように変化したか分からなかったから。その変容を実感したのが家族との再会でした。

会う前は自分の心が家族の言動によって揺さぶられるんじゃないか、それによってまた苦しむんじゃないか、と心配していたのですが、実際は全く逆でした。

あれだけ嫌悪していた父に対して何も思わない。
可愛そうだと思ってきた母に対しても。
苦手だと感じてきた妹にさえも。

自分でも驚くぐらい心が揺れなかったのです。
ポジティブにもネガティブにも偏らない自分にビックリしました。

そしてそんな自分の「あり方」に戸惑いました。

まさに友人たちが言っていた「どうしていいのか分からない」状態です。

これまでの自分からは想像できない自分に出会ったのです。

これが冒頭に書いた「ホントの自分」に出会い、自我の私が戸惑っている、ということでした。

でもそのときはそんなこと分からなかったので、ただただ困惑し居心地が悪かったです。

友人たちが苦しさを訴えたのもこの「心地悪さ」によるものなんだなと、今になって分かりました。

起こっている事としては自我の枠を超え、魂の自分に近づいていってるので「ホントの自分」に還りたい人にとっては望む方向へ進んでいるのだけれど、変化を嫌う自我はそれに戸惑い「居心地悪い」として感じてしまう。

それだけのことなんだなと分かりました。

人は分からないものを嫌う性質がありますが、分かると納得する。
私も今こうして言葉にできてようやく腑に落ちた感があります。


どんなことでもそうですが、心の変容はその時は何が起こっているか分からずすぐに受け入れられないことが多いように感じます。

脳が分からないことを「不快」と察知するからです。

でもそのときに覚えていてほしいのが、不快だから排除するのではなく「一旦保留」にするということ。

すると今回の私のようにタイミングが来てわかる時が来ます。

それが自分で説明できなくても、人から聞いたり本で読んだり、映画で観たり、その人にとってベストなタイミングで分かるようになっていると思います。

人は「あり方」が変わるとき戸惑います。

でもそれは「ホントの自分」に還ってる証拠。

コワがらなくて大丈夫なんだと知ってもらえたらうれしいです。

今日も読んで下さりありがとうございます。
また書きます。





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