【大学入試センターに詩を愛しているとは言わせない・10/13】共通テスト2018試行調査・国語第3問の問6 (ⅰ)《選択肢a》について
topos(場所)こそtopos(論点)だ−その表現はどこでつかわれているか
【問6】
この問題は、表現説明問題になっています。
(ⅰ)は、詩「紙」の表現にかんする説明文の空欄補充問題です。その空欄をふくむ一文は、
となっています。
この一文から、空欄aのほうは、「対比的な表現」とともに「用い」られた表現技法を答えればよいとわかります。
ただし、その「対比的な表現や( a )を用いながら」という部分が、「第1連に示される思いを( b )に捉え直している」という部分を修飾していることに、注意しておきましょう。すなわち、
といっているのです。「( a )を用い」ることが、「第1連に示された思い」の「捉え直し」にかかっている、ということですね。
ところで、この「直」すというのは、‘さらによくなるように、あらためてもう一度…する’ということです。つまり、まず、第1連で、何らかの「思い」が「示され」た。そして、第2連以降で、その「思いを」あらためてもう一度把握している。そのことを、「捉え直」すと表現しているわけです。
それゆえ、空欄aは、第2連以降で、「対比的な表現」とともに「用い」られた表現を答えなければならないことになります。
そして、空欄bのほうも、そうした表現を用いながら、「第1連に示される思いを」、第2連以降で、どのように「捉え直している」のかを考えればよい、ということになるでしょう。
まとめると、
ということになります。この問題は、単なる表現技法の問題ではありません。選択肢の表現技法が、本文中のどこで用いられているかをも、たずねているのです。このことを見落とした解説が流通しているようです(ということは、模試で練習できないということを意味しています)。注意しておきましょう。
それでは、まず、選択肢のaのほうから、みていきましょう。
【選択肢】
第2連以降で用いられた表現技法とは、何でしょうか。
・選択肢①のaの「擬態語」とは、‘状態や様子をマネた表現’のことです。たとえば、“きらきら”や“つるつる”、“のそのそ”などの表現ですね。
この擬態語は、詩「紙」では、つかわれていません。
(第1連の「しらじらし」いというのは、「擬態語」というより選択肢④のaにある「擬人法」といったほうがよいでしょう。いや、たとえ「擬態語」だとしても、第1連にあるため、正答とはなりえません)。
よって、選択肢①の「擬態語」ではありません。
・選択肢②のaの「倒置法」は、‘ふつうのことばの順序をひっくり返すこと’です。たとえば、“好きだよ、ぼくはきみが”のような表現ですね。
そして、この倒置法は、第1~2連で用いられています。そこでは、通常は、
とあるべきなのが逆になっているからです。とはいえ、空欄aは、第2連以降で使用される表現をえらぶのでした。したがって、第1連から第2連にわたる倒置表現を正答としてよいのかどうか、すこし迷ってしまいます。
けれども、第5連の「死のやうに生きれば/何も失はないですむだらうか/この紙のやうに 生きれば」というのも、倒置になりますね。なぜならば、それは「死のやうに(生きれば)」、「この紙のやうに 生きれば」「何も失はないですむだらうか」という一般的な語順の転倒になるからです。よって、正答候補になると判断できますね。
・選択肢③のa「反復法」は、「リフレイン」ともよばれます(この「リフレイン」は、短歌をとりあげたエッセイを素材文にした2017年の「大学入学共通テスト(仮称)/マークシート式問題のモデル問題例」でも出題されました)。
「反復法」あるいは「リフレイン」は、‘おなじ語句をくりかえすこと’で、たとえば、「かもめかもめ/去りゆくかもめ」の「かもめ」というコトバのくりかえしのことです。
この詩には、「反復法」が、文字どおり、反復されています。具体的には、第1連と第6連で「愛」や「紙片」が、第3連と第4連、第5連で「紙」が、第3連と第4連、第6連で「いのち」が、第6連では「乾杯」がくりかえされているのです。これらには、第2連以降の反復もふくまれています。したがって、正答かもしれませんね。
・選択肢④のaの「擬人法」は、‘人以外のものを人にたとえる表現’のことで、“山はまねく”がその例になります。
この詩は、「擬人法」を用いているのでしょうか。第1連の「紙片が/しらじらしく ありつづけること」というのは、選択肢①の解説でのべたように、「擬人法」かもしれません。なぜなら、たしかに、ここでは、人ではない「紙片」の存在を、人が「しらじらし」い(‘うそであることが見え透いている’)ようすをしていることに、たとえているようだからです。とはいえ、ペットをかっているひとは、たとえば買い物から帰ってきたとき、荒らされ/した家のなかをそしらぬふりをよそおって歩く犬や猫をみて、“人間みたいに「しらじらし」い”とおもったことがあるかもしれませんね。そうすると、「しらじらし」いのは、人間だけではなくなります。だから、人間以外の「紙」のことを「しらじらし」いと表現したからといって、「擬人法」だとはいえなくなってしまいます。
いや、仮に、第1連のこの部分が「擬人法」であるとしてみましょう。けれども、この空欄aは、そもそも第2連以降で使用される表現をえらばなければならないのでした。したがって、この部分を根拠とすることはできません。
では、第2連以降に、「擬人法」はあるのでしょうか。そうたずねると、受験生のみなさんは、第5連の「この紙のやうに 生きれば」という表現をあげます。これは、「紙」という「生き」てはいないものを、「生き」ている存在にたとえた表現です。したがって、たしかに、「擬人法」のようにみえるのです。しかし、「擬人法」とは、そもそも‘人以外のものを人にたとえる表現’でした。すると、「生き」ている存在にたとえているからといって、「擬人法」であるとはいえなくなります。なぜなら、「生き」るのは、そもそも人間だけではないからです。
それに対して、例であげた“山がまねく”の“まねく”は、人間だけにかかわる行為です。というのも、それは、ひとが合図をしてひとを呼びよせたり(例、手をふって子どもたちをまねく)、客としてひとに来てもらったり(例、誕生日に友人をまねく)、ひとが原因となって予期せぬ好ましくない結果をひきおこしたり(例、不用意な発言が誤解をまねく)する意をもつからです(であるからこそ、“山がまねく”が「擬人」的な表現として成立するわけですね)。
すると、人間ではない「紙」が「生き」ているといいあらわすだけでは、「擬人」的なものだとはいえないということが理解できるでしょう。
すなわち、「擬人法」は、第2連以降で用いられた表現技法とはいえません。
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