存在とは非-在で はない ある
【問4】
傍線部「の説明として最も適当なものを」答えさせる問題です。
その傍線部分の「在るという重み」とは、どういうものなのでしょうか。
まず、傍線部をふくむ文章は、「絵画だって、ことばだってそうだ。一瞬を永遠のなかに定着する作業なのだ。個人の見、嗅いだものをひとつの生きた花とするなら、それはすべての表現にもまして在るという重みをもつに決まっている」となっています。「在るという重み」とは、文字どおりには、「それ」が「もつ」重さのことです。そして、「それ」は、直前の太字部分をさしています。したがって、「在るという重み」とは、「ひとつの生きた花」が「もつ」もの、あるいは「個人の」「一瞬」「見、嗅いだもの」が「もつ」ものだ、ということになります。
それでは、この「個人」が「ひとつの生きた花」を「見、嗅」ぐ、というのは、どういうことでしょうか。それは、人間が、自然界に生きて存在している花をながめたり、その香りを吸いこんだりすることです。この自然に咲く花の存在が、傍線部の「在る」ということですね。そして、それは、傍線部をふくむ一文の前には「一瞬」とありますから、ほんのひとときの存在でもあります。
ほんのひととき存在する自然の花とは、4段落の「造花」でも、5段落の「永遠の百合」でもなく、「ひと夏の百合」のこと。「枯れない花」(4段落)ではなく、いわば、秋になれば、「枯れ」る「花」。
そうして人間が「見」たり「嗅いだ」りした、「生き」て「枯れ」もする「花」が傍線部の「在る」花であるとしましょう。そうであるなら、「在るという重み」の「重み」のほうは、いったい何になるのでしょうか。この「重み」とは、もちろん、たんに、‘重量感のある重さ(例、雪の重み)’という意味ではないでしょう。そうではなく、‘無視できない重要さをもっていること(例、一票の重み)’を意味するのでしょう。そうすると、解答としては、つぎのようなものを、想定できるはずです。
【解答】
【選択肢】
・選択肢①の「時間的な経過に伴う喪失感の深さ」は、たしかに、Yの〈ほんのひとときしか知覚しえないような失われやすさ〉にほぼ対応しているといってかもしれません。
しかし、②とくらべると、X〈真正な自然存在物〉が欠けています。誤答です。
・選択肢②の「実物そのものに備わる」というのは、X〈真正な自然存在物のもつ〉にほぼ対応しています。
また、「かけがえのなさ」も、Y〈ほんのひとときしか知覚しえないような失われやすさ〉に対応しているといってよいでしょう。‘自然物は失われやすいものであるにもかかわらず、真の実在性をもつ‘という文脈を反映した正答がこれになります。
・選択肢③の「感覚によって捉えられる個性の独特さ」は、X+Y〈真正な自然存在物のもつ、ほんのひとときしか知覚しえないような失われやすさ〉に合致しているとはいえません。誤答です。
・選択肢④の「主観の中(…)」は、どうでしょうか。
これは、傍線部をふくむ一文中の「個人」が「見」たり「嗅いだ」りするのに合致する、と感じたひともいるかもしれません(したがって、Yの〈ほんのひとときしか知覚しえない…〉というのをふくんでいる)。
しかし、その「主観の中に形成された印象の強さ」全体は、傍線部とズレています。Xが〈真正な自然存在物〉といっているからです。
つまり、本文の傍線部は、客観的存在である自然物を意味しています。
それに対して、選択肢のほうは、むしろ逆に、主観的存在である人間のいだく「強」い「印象」のことを述べていますね。誤答です。
・選択肢⑤も、④とおなじパターンです。すなわち、「表現行為を動機づける衝撃の大きさ」も、答えるべき‘自然の花’の存在ではなく、‘人間’存在についてのものになっています。誤答です。