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【大学入試センターに詩を愛しているとは言わせない・07/13】共通テスト2018試行調査・国語第3問の問4について

存在とは非-在で はない ある

【問4】

問4 傍線部C「在るという重み」とあるが、その説明として最も適当なものを、次の①〜⑤のうちから一つ選べ。

①  時間的な経過に伴う喪失感の深さ。
②  実物そのものに備わるかけがえのなさ。
③  感覚によって捉えられる個性の独特さ。
④  主観の中に形成された印象の強さ。
⑤  表現行為を動機づける衝撃の大きさ。

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

 傍線部「の説明として最も適当なものを」答えさせる問題です。
 その傍線部分の「在るという重み」とは、どういうものなのでしょうか。
 まず、傍線部をふくむ文章は、「絵画だって、ことばだってそうだ。一瞬を永遠のなかに定着する作業なのだ。個人の見、嗅いだものをひとつの生きた花とするなら、それはすべての表現にもまして在るという重みをもつに決まっている」となっています。「在るという重み」とは、文字どおりには、「それ」が「もつ」重さのことです。そして、「それ」は、直前の太字部分をさしています。したがって、「在るという重み」とは、「ひとつの生きた花」が「もつ」もの、あるいは「個人の」「一瞬」「見、嗅いだもの」が「もつ」ものだ、ということになります。
 それでは、この「個人」が「ひとつの生きた花」を「見、嗅」ぐ、というのは、どういうことでしょうか。それは、人間が、自然界に生きて存在している花をながめたり、その香りを吸いこんだりすることです。この自然に咲く花の存在が、傍線部の「在る」ということですね。そして、それは、傍線部をふくむ一文の前には「一瞬」とありますから、ほんのひとときの存在でもあります。
 ほんのひととき存在する自然の花とは、4段落の「造花」でも、5段落の「永遠の百合」でもなく、「ひと夏の百合」のこと。「枯れない花」(4段落)ではなく、いわば、秋になれば、「枯れ」る「花」。
 そうして人間が「見」たり「嗅いだ」りした、「生き」て「枯れ」もする「花」が傍線部の「在る」花であるとしましょう。そうであるなら、「在るという重み」の「重み」のほうは、いったい何になるのでしょうか。この「重み」とは、もちろん、たんに、‘重量感のある重さ(例、雪の重み)’という意味ではないでしょう。そうではなく、‘無視できない重要さをもっていること(例、一票の重み)’を意味するのでしょう。そうすると、解答としては、つぎのようなものを、想定できるはずです。

【解答】

・人間がほんの一瞬見たり嗅いだりする、
  枯れやすい自然の花のもつ
   存在の重要性。
  ↓
・人間がほんの一瞬知覚しうる自然物の、
  失われやすくもある
   存在の*真正性。
  ↓
・X=*真正な自然の存在物がもつ、
・Y=ほんのひとときしか知覚しえないような
   失われやすさ。
*真正=まちがいなく本物であること。「~の/な人類愛」。
※枯れてしまう自然の花は、筆者によると、「在るという重み」をもつ。いわば、真の存在です。
 それに対して、枯れることのない造花は逆に、「在るという重み」をもたない。すなわち、真の存在ではない、ということになります。
 わずかな時間をすぎれば、失われてしまうものこそ存在するものだが、時間がたってもたやすく失われるわけではないもののほうは、存在しないものだ…。ないものこそあるもので、あるものこそないものである…。
 こうした考え方は、たしかに、矛盾しているようにみえるかもしれません。
 しかし、近現代の日本の知識人が元ネタにしてパクリたおしている、(前回の【問3】の解説でも触れた)ヨーロッパの伝統的な考え方でもあります。
 そのヨーロッパ的な思考の根っこには、キリスト教があります。キリスト教では、この自然の世界は、神が創ったもの(creation)とされています。そして、神の創造した自然は、完全な存在、つまり真の存在をもつとされているのです。
 それに対して、人間の作ったもの(fiction)は、何であれ、不完全なものとされ、真の存在をもつことがないとされるのです。
 神の創った自然界に生きる花は、たしかに、枯れて、死んでしまう。そうして土にかえる。しかし、やがてまた、種子となったものの土壌ともなり、肥やしとなり、新たな生命を育むようになる。つまり、神-自然には、リサイクルが可能だということです。
 人工の造花も、やがてはほころび、形を失い、ゴミとなって廃棄されてしまう。ところで、現代の科学技術は、あるていどのリサイクルを可能にしてはくれたでしょう。しかし、完全なリサイクルは可能ではありません(可能であるなら、環境破壊にかんする問題にわたしたちが悩まされることはなくなっているはずです)。そうすると、完全には土にかえらない、廃棄された造花は、いつまでたってもゴミのままです。この‘いつまでたってもゴミのままで’あることが、「在ることの重み」をもたないことの意味です。
 自然物は枯れてしまう。しかし、だからこそ、生命をもつことができる。死んでも、霊魂となって生きながらえることになる。
 逆に、人工物は枯れない。しかし、だからこそ、生命をもつことができないし、死ねば霊魂となって生きながらえる…こともない。
 こうした考え方は、キリスト教だけではなく、哲学や思想(たとえば、リアルじゃなくイデアこそ実在だとする古代ギリシアのプラトンのアイディアリズムや延長よりも思惟こそ実体の要とみなす近代哲学の始点となったデカルトのコギト・エルゴ・スム、意味がないのが唯一の意味だという現代思想におけるシニシズム)などにもひろくみられるものです(あるものはないんだ、ないものこそあるもんなんだ…、否定的なものこそ肯定的なものに転化しうる[/転化させなきゃ諸般の事情によりマズイ]んだ…、みなさんのまわりにもいませんか、’救いのないのが救いなんだ…希望のないのが希望なんだ…’という囁きーという名のジャブでフェイントをかけつつ超低空高速片足タックルでテイクダウンしたあと、パスガードしてマウントをとるー令和年代にあって!ーような人間が?)。
 そして、もちろん、(「永遠の百合」の6段落までの)筆者にとっての芸術は、枯れず失われないがゆえに永生をもてないはずの人工物に、にもかかわらず、永生をあたえようとこころみる(「ひと夏の百合を超える永遠の百合。それをめざす(…)」)ものなのです。

【選択肢】

・選択肢①の「時間的な経過に伴う喪失感の深さ」は、たしかに、Yの〈ほんのひとときしか知覚しえないような失われやすさ〉にほぼ対応しているといってかもしれません。
 しかし、②とくらべると、X〈真正な自然存在物〉が欠けています。誤答です。

・選択肢②の「実物そのものに備わる」というのは、X〈真正な自然存在物のもつ〉にほぼ対応しています。
 また、「かけがえのなさ」も、Y〈ほんのひとときしか知覚しえないような失われやすさ〉に対応しているといってよいでしょう。‘自然物は失われやすいものであるにもかかわらず、真の実在性をもつ‘という文脈を反映した正答がこれになります。

・選択肢③の「感覚によって捉えられる個性の独特さ」は、X+Y〈真正な自然存在物のもつ、ほんのひとときしか知覚しえないような失われやすさ〉に合致しているとはいえません。誤答です。

・選択肢④の「主観の中(…)」は、どうでしょうか。
 これは、傍線部をふくむ一文中の「個人」が「見」たり「嗅いだ」りするのに合致する、と感じたひともいるかもしれません(したがって、Yの〈ほんのひとときしか知覚しえない…〉というのをふくんでいる)。
 しかし、その「主観の中に形成された印象の強さ」全体は、傍線部とズレています。Xが〈真正な自然存在物〉といっているからです。
 つまり、本文の傍線部は、客観的存在である自然物を意味しています。
 それに対して、選択肢のほうは、むしろ逆に、主観的存在である人間のいだく「強」い「印象」のことを述べていますね。
誤答です。

・選択肢⑤も、④とおなじパターンです。すなわち、「表現行為を動機づける衝撃の大きさ」も、答えるべき‘自然の花’の存在ではなく、‘人間’存在についてのものになっています。誤答です。

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