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【大学入試センターに詩を愛しているとは言わせない・12/13】共通テスト2018試行調査・国語第3問の問6 (ⅱ)について

偶然か必然か

問6 詩「紙」とエッセイ「永遠の百合」の表現について、次の(ⅱ)の問いに答えよ。

(ⅱ) エッセイ「永遠の百合」の表現に関する説明として最も適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。
 
①    第4段落における「たった一つできないのは枯れることだ。そしてまた、たった一つできるのは枯れないことだ」では、対照的な表現によって、
枯れないという造花の欠点が肯定的に捉え直されている。
②    第5段落における「(と、私はだんだん昂奮してくる。)」には、第三者的な観点を用いて「私」の感情の高ぶりが強調されており、混乱し揺れ動く意識が臨場感をもって印象づけられている。
③    第6段落における「――もどす――」に用いられている「――」によって、「私」の考えや思いに余韻が与えられ、「花」を描くことに込められた「私」の思い入れの深さが強調されている。
④    第7段落における「『私の』永遠」の「私の」に用いられている「 」には、「永遠」という普遍的な概念を話題に応じて恣意的に解釈しようとする「私」の意図が示されている。

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

  問6の(ⅱ)のほうは、エッセイ「永遠の百合」の表現について説明する選択肢から、最適なものをえらぶ問題です。

【選択肢】

・選択肢①の「第4段落における『たった一つできないのは枯れることだ。そしてまた、たった一つできるのは枯れないことだ』」が「対照的な表現」だというのは、「できない」と「できる」や「枯れる」と「枯れない」が「対照的」だということでしょう。
 そして、そうした「表現によって、枯れないという造花の欠点が肯定的に捉えられている」とは、「枯れない」という否定形が筆者の詩論における要点となっていたことを指摘するものでしょう。1~4段落の筆者は、「枯れない花を造るのが」(4段落)神にではなく、人間にのみなし得る創作行為であると考えていたからです。正答です。

・選択肢②の「第5段落における『(と、私はだんだん昂奮してくる。)』には、第3者的な観点を用いて『私』の感情の高ぶりが強調されて」いるというのは、適当な説明といえるでしょうか。
 まず、たしかに、じぶんのことを「私」とよぶのは、1人称といわれます。そして、そうした表現は、「第3者的な観点」とはいえないと判断したひとがいるはずです。
 しかしながら、「昂奮」は、わざわざ「私」の「昂奮」というように断らなくとも、語り手の筆者の「昂奮」でしかないはずです。それを感じているのが「私」だとあえていうことに、むしろ、距離をとった「第3者的な観点」を読みとったひともいるかもしれません。
 また、「昂奮してくる」の「くる」は、補助動詞になっています。補助動詞の‘来る’は、“現在の時点を基準として過去をふりかえって、現在にむかって徐々に変化が見られるようす”を表現します(例、だんだんわかってくる)。つまり、過去からいま現在にいたる、変化しつつある状態を表わすのです。「私」が「だんだん昂奮してくる」/しつつある――そこに、リアルな「感情の高ぶり」の「強調」を見てとったというひとがいても、おかしくはないでしょう。したがって、この前半部分だけでは、誤答だと判断できないかもしれません。

※表現説明問題の選択肢の判断には、作家の表現を‘読者’がどう解釈したのかがほかの問題よりも大きく作用します。このばあいの‘読者’とは、出題者のことです。出題者の解釈は、受験生にはわかりません。よって、みなさんが自信をもって誤答と結論づけることができないときには、慎重になる必要があります。

 では、後半の部分をふくめてみると、どうでしょうか。「第5段落における『(と、私はだんだん昂奮してくる。)』には」、「『私』の感情の高ぶりが強調されており、混乱し揺れ動く意識が臨場感をもって印象づけられている」。「昂奮」とは、この選択肢にあるように、‘感情が高ぶること’です。そこには、なるほど、「意識」の「揺れ動」きといったものも認めることができるかもしれません。しかしながら、「混乱」は、‘秩序が乱れて、めちゃめちゃになること’をいいます。「昂奮」とあるのだから、「感情」が「高ぶ」っているということはできる。としても、だからといって、5段落において、筆者が‘めちゃめちゃになっている’と見なすことはできません。誤答です。

・選択肢③「第6段落における『――もどす――』に用いられている『――』によって、『私』の考えや思いに余韻が与えられ、『花』を描くことに込められた『私』の思い入れの深さが強調されている」。
 たしかに、「――」(ダッシュ)は、「余韻」(=言外の趣き)を「与える」表現ではあります。つまり、「――」をおいて、そのあとにくるべきコトバや文を省略することで、なんらかの意味やイメージを読者に想像させるのです。

※たとえば、エッセイではなく高田敏子の詩の引用になりますが、「水は つかめません/水は すくうのです/指をぴったりつけて/そおっと 大切に──」。

 しかし、「――」が「余韻」をもたらすのは、一般的に、「(コトバ)――」という形式においてです。「(コトバ)――(コトバ)――(コトバ)」という形においてではありません。すなわち、「そおっと 大切に――」というなら、「余韻」がたしかに感じられます。対して、「あえてそれを花を超える何かに変える――もどす――ことがたぶん、(…)」といっても、そう感じられないということです。では、この「――」は、どのような用法なのかといえば、それは、‘挿入による言いかえ’となるでしょう。

※本文の6段落には、「個人」が「見、嗅いだ」現実の花を、「あえて」「花を超える何かに変える――もどす――ことがたぶん、描くという行為なのだ」とあります。「変える」が、「――」によって、「もどす」に、どうして‘言いかえ’られることになるのでしょう。
 ところで、筆者の吉原幸子は学生時代にフランス文学を学び、ピエール・ルイスというフランス詩人の作品を翻訳して出版しています。そのピエール・ルイスが属するフランス象徴主義には、独特な詩学がありました。
 つまり、いまあるコトバには、意味と音のズレがある。たとえば、フランス語の‘昼’(jour)は、意味が‘昼’なので、‘明るさ’という語意ももつ。しかし、音(‘ジュール’と発音します)はにごっていて暗い。逆に、‘夜’(nuit)は、その‘夜’という意から、‘暗さ’もあらわす。ただし、音(‘ニュイ’)は軽く明るい。だが、こうしたズレを直すものこそ詩なのだ、という考えが存在したのです。
 具体的には、jourというコトバを、詩句の適切な位置に、適切なほかのコトバ‘とともに(com-)’‘置くこと(poser)’、そうして文字どおり‘詩作すること(composer)’で、jourに、本来あるべき光を与えてやるのだ、という考えです。
 そうして書かれた詩のなかのjourには、影がさすことはない。そのとき、詩人は、現実の陰りのある響きをもつjourを、「ことば」によって、それ「を超える何かに変える」ことになる。それは同時に、jour本来の輝きの回復でもある。そこで、当然、「もどす」ということにもなる。詩とは、現実の花とはちがった観念そのものの花―しかも音楽にも似て甘美な花(musicalement se lève, idée même et suave, l’absente de tous bouquets)―を生みだす営みだ、というのがこのグループの考え方だったのです。
 そうした思考法に、吉原も慣れ親しんでいたのかもしれません。

・選択肢④の「第7段落における『「私の」永遠』の「私の」に用いられている「 」には、「永遠」という普遍的な概念を話題に応じて恣意的に解釈しようとする「私」の意図が示されている」は、どうでしょうか。
 この選択肢については、4つにわけて検討していきます。
 第1に、‘「私の」永遠’における「 」(カギカッコ)の用法、第2に、「『永遠』という普遍的な概念」、第3に、「『永遠』という」「概念」の「恣意的」な「解釈」、第4に、「恣意的」な「解釈」という「意図」。以上にわけて、順に見ていきましょう。
 まずは、カギカッコの用法についてです。たしかに、筆者が、ふつうのばあいとは違った意味をあるコトバにあたえるために、そのコトバをカギカッコでくくるというのは、よくあることです。
 それでは、‘「私」の永遠’の「 」は、そうした用法になるのでしょうか。その部分をふくむ一文は、「『私の』永遠は、たかだかあと30年――歴史上、私のような古風な感性の絶滅するまでの短い期間――でよい」となっています。つまり、‘「私」の永遠’とは、「私のような古風な感性の絶滅するまでの短い期間」のこと。具体的には、「たかだかあと30年」間のことだというんですね。この「30年」は、当然、文字どおりの意味での「永遠」(時間や空間をこえていつまでもかわることなく続くこと。例、「永遠の眠りにつく(=死ぬ)」)ではありません。よって、‘「私の」永遠’の「私の」は、通常の意味とは異った「永遠」をあらわすためのものだといえます。

※それに対して、「ひと夏の百合を超える永遠の百合」(5段落)は、「一瞬」「見」たり「嗅いだ」りした百合を「ことば」にして「永遠のなかに定着」(6段落)した作品のこと。つまり、5段落の「永遠」のほうは、辞書にあるような文字どおりの「永遠」という意味をあらわしています。要するに、筆者は、5~6段落では、詩人は「永遠」に読まれるような作品を「めざす」べきだと思っていた。しかし、7段落になって、そうではなくなった。「私の」センスが生き生きとした働きをなす「30年」という「短い期間」だけ読まれる作品を書ければいいと考えるようになった。そこで、その“「私の」センスが生き生きとした働きをなす「30年」という「短い期間」”のことを、‘「私の」永遠’とよんでいるわけです。

 つぎに、出題者が、「『永遠』という普遍的な概念」ともいっていることについて。これは、いわば「永遠」が「普遍的な概念」である、というのですね。しかし、そういえるのかどうかは、議論がわかれるところです。こうしたところは、誤答の根拠とはしないでおきましょう。
 それでは、そうした「『永遠』という」「概念を」、「私」-筆者が「話題に応じて恣意的に解釈しようと」しているといってよいのでしょうか。「恣意的」とは、‘思いつくまま、勝手気ままにものごとをするようす’をいいます。したがって、「『永遠』という普遍的な概念を話題に応じて恣意的に解釈しようとする」というこの選択肢が意味するのは、こういうことになります――

〈“じぶんの作品が短いあいだだけ読まれればいい”ことを‘「私」の永遠’と表現して、「『永遠』という」「概念を」、思いつくまま勝手気ままに「解釈しようと」している〉。

 しかし、筆者は、たんに、偶然思いついて、勝手気ままに、たまたま‘「私」の永遠’と書いたのではありません。むしろ、逆です。というのは、必然的根拠があって、そう書いたということです。
 “じぶんの作品の寿命が短くてもかまわない”のを、なぜ、‘「私の」永遠’と記したのか。「死なないものはいのちではないのだから」(7段落)という、これ以上ないほど必然的な根拠があるからです。死なないものは生命をもたない。裏をとれば、死ぬものこそ生命をもつ。逆にいうなら、生命をもつものは必ず死んでしまう。だからこそ、じぶんの作品が生き生きとしたリアリティを伴って受容されるのは、「たかだかあと30年」「でよい」。そのあとは「死」んでしまってかまわない、というわけです。であるがゆえに、誤答となるのです。

※ちなみに、「恣意的」と“意図的”の語意の区別は、2次試験が問うこともあります。「恣意的」とは、‘思いつくままにおこなうようす’の意でしたが、“意図的”とは、‘あるもくろみや考えをもって行うようす’です。
 たとえば、本文の「恣意的」なことをのべた箇所を、選択肢が“意図的”と表現していれば、その選択肢は、当然、誤りになるでしょう。しかし、この選択肢④は、「恣意的に解釈しようとする」「意図」と述べています。いわば、‘思いつくままに-「解釈しようとする」-もくろみや考え’といっていることになります。こうした事態が成立するか否かもまた、断定しづらいところですね。ここについても、判断は保留としておきましょう。

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