【大学入試センターに詩を愛しているとは言わせない・03/13】共通テスト2018試行調査・国語第3問のエッセイ「永遠の百合」について
創作とは永遠か一瞬か
そうして、まず、「永遠の百合」と題されたエッセイのほうを読んでいきましょう。
【1~2段落】
1~2段落には、昨年の夏、筆者が旧友に、「秋になったら捨てて頂戴ね」というメッセージといっしょにアートフラワーの百合の花束をもらった、という体験談が語られています。
自然にクリソツまじびびる
【3段落】
段落冒頭で、筆者は「びっくりし」た、と書いています。なぜでしょうか。
ここでは、「人間が自然を真似る時、決して自然を超える自信がないのなら、いったいこの花たちは何なのだろう」という一文に注目しておきましょう。これは、裏返せば、「人間が自然を真似る時」、「自然を超える自信が」あれば、「この花たちは何」ものかになることができる、ということでしょう。
つまり、人間が自然界に存在する百合の花を真似て、そのアートフラワーをつくるとき、自然には存在しないようなものをつくる自信をもつべきだ、ということです。
ところで、友人は、「秋になったら捨てて頂戴ね」というメッセージを添えていたといいます(2段落)。一方で、じぶんの作ったアートフラワーを「捨てて頂戴ね」というのだから、「にせものを造る人たちの、ほんものにかなわないといういじらしさ」をもっているといえるでしょう。その点で、友人はとても「謙虚」なひとのようにみえます。
しかし、他方で、百合の季節が終わる「秋になったら(捨てて頂戴ね)」ともいっています。つまり、生きている自然の花とおなじように、季節がかわって枯れてしまったら、処分してねと頼んでもいるのですね。それゆえ、「生理まで似せるつもりの思い上がり」も感じられます。そうした点では、「傲慢か、ただのキザなの」かもしれません。
いずれにしても、友人は、筆者とは異なった考えの持ち主のようです。すなわち、筆者によれば、人間は自然には存在しない作品をつくらなければならない。それに対して、友人によると、人間は自然に存在するものを真似て、せいぜい自然にそっくりの作品しかつくることはできない。
そうした違った考えにふれたため、筆者は「びっくりし」たのでしょう。
自然にクリソツちがうっしょ
【4段落】そんな筆者の考えを短く表現するのが、4段落冒頭の2文です。つまり、――
「枯れないものは花ではない」というのは、人間のつくるアートフラワーは枯れないのだから、それは自然界に存在する花とは違う、ということですね。
そして、「それを知りつつ枯れない花を造るのが、つくるということではないのか」というのは、さきほどの3段落のいいかえです。すなわち、「自然を超え」たものをつくるのが人間なんだという考えですね。
この筆者の考えとは、つまるところ、〈自然の花はかならず枯れるのに対して、人間がつくる人工の花は枯れることがない、その点でそれはマガイモノでしかない、だけど人間がつくるってそういうものをめざすんじゃないの〉ということです。
【5~6段落】以下、5~6段落は、このことを説明していきます。
ここでは、4段落の「枯れない」ことが(5段落で)「永遠」といいかえられ、4段落の「つくること」が(6段落においては)「絵画」や「ことば」による「描」出や「表現」「行為」でもあることをおさえておけば十分です。
(ちなみに、このエッセイ「永遠の百合」と詩「紙」は、同一人物によるものです。つまり、筆者は詩人でもあるのですね。とすると、6段落末の「私もまた手をこんなにノリだらけにしている」というのは、手軽にカット・アンド・ペーストできるパソコンやスマートフォンのない時代の詩人の文字どおりのアナログな推敲作業を意味するのでしょう)。
【7段落】
この7段落の「死なないものはいのちではない」というのは、いうまでもなく、4段落の「枯れないものは花ではない」に対応した表現です。その「枯れないものは花ではない」というのは、「枯れない」人工の花は自然の「花ではない」ということでした。そのことを前提にして、「枯れない花を造るのが」人間の創作なのだというのが4段落の内容でしたね。
それに対して、この「死なないものはいのちではない」のほうは、「死なない」人工の花は自然の花のような「いのち」をもつことが決して「ない」ということです。裏返せば、「死」ぬものは必ず「いのち」をもつ。逆にいうと、「いのち」は「死」ぬ。失われる。生は死と両立しない。これは世の定めでもあります。
そうすると、生き生きとした魅力を有する作品も/こそ、長いあいだ読まれ続ける、というわけにはいかなくなります。それゆえ、「『私の』永遠は」、「短い期間」「でよい」ということにもなるわけです。
4~6段落の詩人は、「永遠」に「枯れ」ることなく「死な」ずに生き残り読まれ続けてほしいという願いをこめて、1篇の詩を書くのかもしれません。「ただし」、7段落の筆者は、じぶんの作品のばあい「いのち」をもって輝くのは「たかだか30年」「でよい」というのです。
みなさんは、学校の国語の時間に、『源氏物語』や『吾輩は猫である』を読んで、なかなかいいな…とおもったことがあるかもしれません。しかし、リアルに心惹かれるのは、現代のマンガやアニメのほうではないでしょうか。とはいえ、それらサブカルチャーは、源氏が1000年、漱石が100年残ったようには、生き続けないでしょう。でも、みなさんの人生においては、あるマンガやあるアニメのほうが、源氏の1000倍、漱石の100倍重要だ、生きていくのには必要なんだ、とおもえることがある。これからも1000年、すくなくとも100年残るかもしれないものよりも、おなじ時代を生き、おなじ時代の空気を吸うクリエーターのつくったもののほうに、いいようもない感動をおぼえるということがあるでしょう。
永遠に残る作品より、そんなふうに生命力にみちた光を一瞬放ちながら、その後消えていくかもしれない作品を、筆者も書こうとおもった、というわけです。
このことは同時に、〈自然の花は、枯れて死んでしまって残らないけど、マガイモノの人工の花は、枯れることがなく残り続ける、人間がつくるってそういうことをめざすもんじゃないの〉とかつて思っていた筆者が、そうではないんだと考えを改めたということでもありますね。すなわち、〈枯れずに死なないようなものは、そもそも生命をもっていないものなのだから、生命をもったものを書きたいじぶんの作品は短い期間通用すればいいんだ〉という考えにかわったというのです。
【8段落】そうすると、筆者は友人の考え方を認めた、ということになるのでしょうか。しかし、8段落には、「私は百合を捨てなかった」とあります。ということは、友人のコトバにはしたがわなかったということですね。そのアートフラワーの百合「は造ったものの分までうしろめたく蒼ざめながら、今も死ねないまま、私の部屋に立っている」――というのですから、筆者は、じぶんの新しい考え方に対して、複雑な感情を抱いているのかもしれません。
創作とは永遠ではなく一瞬である
まとめておきましょう。
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