「光る君へ」のその後をめぐる宇治陵巡礼 その7 「New World Coming」
どうも、編集長の松島直哉です。日本史を自分史と重ねてたどる連載お散歩エッセイ「宇治陵巡礼」もいよいよフィナーレ目前、残すところあと2回となった。塔、光、坂、神、死ときて、今回は「新」をテーマにしてみようと思う。前回、藤原道長の陵墓(とされている…これをいちいち書くのもめんどうになってきたが一応プロのライターなのもあって諸説あるものはそう記載しておかないとどうにも落ち着かない性分なので)を巡った。「光る君へ」の主人公でもある道長なので、まあ今回のシリーズのメインイベントといっていいだろうと思う。もはやここで終わってもいいのでは?という気もしてくる。
だがしかし、である。じゃあ残りは消化試合なのかというと、まあやっぱりそうでもない。人生はメインイベントが終わった後からが本番みたいなところがあるものだからだ。ぼく自身の人生だって、若かりし春の日の記憶はもはや遠く、燃え盛る夏の日もとっくに過ぎさって、秋もそろそろ晩秋を迎えようかというところにさしかかった。でもだからといって、残りの時間をただロッキングチェアに座って美しい思い出に耽りながらパイプを燻らせているつもりはない(というかまあそんな金銭的余裕などあるはずもない、というのが実態ではあるのだけれど)。でもだからこそ、この章を「新」としたのだ。まあぼくのわりあい早足の歩みにあわせて、さっさと筆を進めていくことにしよう。
先にも紹介したように、お次に向かうのは宇治陵35号。今昔物語で自身の叔父の若妻を寝盗ったお話「時平大臣取国経大納言妻語」をはじめ、好色家としても知られる藤原時平の陵墓とされているものだ。時平というのは調べてみるとけっこうおもしろい人である。まずあの許波多神社の境内にあった宇治陵36号の主とされる藤原基経の長男ということだから、まあ当時は超絶エリートして育てられたのだろう。とんとん拍子で出世し、左大臣に昇りつめる。同時期に右大臣を勤めていたのがあの天才・菅原道真。時平は政敵である道真を太宰府へと左遷し、追い落とす謀りごとの中心人物だったとの説がある(もちろん例によって諸説ある)。しかしその後、時平は39歳の若さで死去。死因は道真の怨霊によるものとされ、以後、天神信仰が広まってからというものは、時平はだいたいにおいて極悪人として描かれることが多くなったのだそうだ。今昔物語なんかの描きぶりも、まあそういう例のひとつなのかもしれない。それにしても自分の死後に、あっちこっちで悪人として描かれるというのはいったいどんな気分なのだろう。
さて、その時平の陵墓はこれまた住宅街の細い路地にある民家のすぐ隣に、忽然とその姿を表す。すぐ目の前が近隣の住人の方々のゴミ置き場というのもシュールというかなんともいえないものがあるが、まあほんとうに住宅が密集した地域の真っ只中にあって、そこだけ突然にして大きな木と生垣のようになっているのだから、まあ仕方がないと言えば仕方がないのだろうけど。これまでの中では基経の36号が許波多神社の中にあるのでもっとも陵墓っぽいというか「祀られた感」はあった。ほかの陵墓についても住宅地の只中にあるとはいえ、丘のかなり上のほうだったり、他の陵墓と隣り合って小さな森のような空間を形成していたりしたため、どこか静謐というか、生活感からは少し離れている印象があった。もちろん今回37あるとされるすべての陵墓を巡ったわけではないので、もしかしたらそれらのなかに似たような陵墓があるかもしれないが、ここ35号はあまりにも住宅と住宅の只中にあって、いかにも窮屈そうだった。それもあの極悪人・時平への仕打ちということなのだろうか(まさかね)。もうすこしスペースをとって住宅との空間を空けておいても良かったのでは?などと勝手に思ったりもする。まあもしかしたら、かなり最近発見されたものとかで私有地との関係や区画整理の問題などで、どうしようもなかったのかもしれない。
それにしても、先にも書いたが自分の死後に預かり知らないところで(まあ死後のことはだいたい預かり知らないことにはなるのだが)そのようにしてさまざまな文献でときに悪人として描かれ、ときに笑いものようにされるというのはいったいどんな気分なのだろう。もしそれが叶うであれば、ここに眠る時平にそのことを聞いてみたいと思ったものだ。「死んでしまえばそんなことは気にならないさ。よかったらキミもいちど死んでみるといい」とかいうかもしれない。死ぬことの最大のメリットは他人からの評価や出世への野心、お金の心配などなど世の瑣事の一切とのかかわりを持たなくて良いことなのだから。
「笑いもの」といえば、ぼくにはちょっと悲しいことや辛いことがあったとき、自分の運命を恨みたくなるような出来事があったときなどにはいつも思い出すようにしていることがある。それはキャス・エリオットのこと。彼女のあまりに孤独で哀しい生涯とその悲劇的な死についてである。
キャス・エリオットはあの「California Dreaming」の大ヒットで有名なママス&パパスのメンバーだった女性だ。圧倒的な歌唱力を持ちながら、大柄で太っちょな体型からどこかユーモラスで親しみやすいイメージを持たれていた彼女だが、その人生はいくつもの哀しいエピソードに彩られている。
たとえば彼女が太っていることがビジュアル面でマイナスだと考えたメンバーのジョン・フィリップスからグループへの参加を認めらえない期間が長くあった。しかもその差別的な理由を明かすことがバンドにとってもマイナスだと考えたのか、キャス・エリオット自身が急遽バンド加入した際の理由について「落ちてきたパイプが頭を直撃してそれがきっかけで音域が3音近くは拡大したの」という滑稽なエピソードとともに嘘の理由を述べている。しかしもちろんそんな事実はなく、彼女の歌声はそれ以前から素晴らしいものだったのだ。そしてそのジョン・フィリップスは同じくメンバーのミシェル・フィリップスと結婚していたのだが、ミシェルはあろうことかもう一人の男性メンバーであるデニー・ドハーティと不倫していた。そのドハーティというのはキャス・エリオットが愛していた人物でかつて彼女はドハーティにプロポーズをして断られている。まあつまり、彼女はたった4人のメンバーのグループの中でそのすべてである3人にある意味では裏切られていたといってもいいだろう。さらに彼女は2度結婚しているのだがその1度目の結婚は、お相手がベトナム戦争の兵役を逃れるための偽装結婚だったとされ、初夜を迎えることなく無効になっている。ぽっちゃりとした彼女のあっけらかんとしたイメージとは対照的に、彼女の心痛はおそらくは深いものだっただろうと思うと、胸が張り裂けそうになる。
ママス&パパス解散後はソロとして活躍。多くのヒット曲を世に出すが、1973年ロンドンでの公演の初日を終えたあと、彼女は滞在先のホテルで心臓発作により亡くなる。まだ32歳の若さだった。ここまででもじゅうぶんに哀しい話なのだが、じつはこの哀しい物語には後日談的な続きがある。彼女がホテルの部屋で亡くなった際ある週刊誌が「ベッドの脇に食べかけのサンドイッチがあった」と報じ、そこから彼女の死因はサンドイッチを喉に詰まらせて死んだのだと広く信じられるようになった。実際にはそのような事実はなかったのだが、彼女のその体型とキャラクターがその話を多くの人に信じ込ませたのだろう。しかもそれはのちにいくつかのドラマや映画などでジョークのネタとして笑い話に引用されていく。つまり彼女はその悲劇的な死後でさえも、体型とキャラクターをいじられ笑い物にされていたということだ。生前、そのようにしてあまりに不当に虐げられてきた彼女が、どこまでも楽観的で明るい歌を伸びやかな声で歌い続けてきたことが、より彼女の悲しみと孤独を色濃く浮かび上がらせるような気がする。
彼女の生涯とそれを彩るいくつかの哀しいエピソードを知ってからこの歌を聴くと、この底抜けに明るく未来への期待をあっけらかんと歌い上げているこの歌詞が、どこか違った印象を帯びてくる気がするのだ。もしかしたらこの歌は、彼女がもっともほしかったにもかかわらずどうしても手に入れることが叶わなかったものたち(平和と喜びと愛に満ちた新しい人生)への彼女なりのレクイエムだったのかもしれない。
彼女は歌手としては才能にも恵まれ、成功を収めた人だったといっていいだろう。でも彼女の人生が楽しく健やかで明るいものだったとはぼくには到底思えない。もし自分が彼女の立場だったら。成功者としての才能よりも、間違いなくささやか幸福のほうを選んだことだろう。哀しいことがあると、ぼくはこの歌を聴き、彼女の人生に想いを巡らせる。彼女のチグハグで皮肉な人生に比べたら、ぼくの悲しみなんてちっぽけなものではないか、と。
長くなったな。そろそろさすがに墓巡りに戻ろう。響け!ユーフォニアムに登場する印象的な坂道(煉瓦造りのお家と茶畑)の元となっているのがここ。JR六地蔵駅から御蔵山の住宅地へと続くわりあい急な坂道である。撮影していると学校帰りの小学校低学年くらいの男の子が撮影の邪魔にならないよう、そこで撮影が終わるまで足を止めて待ってくれようとしていたので「どうぞ」と声をかけると、できるだけ邪魔にならないようにとの配慮だろう、タタタと走って坂道を降りていった。僕らが子どものころだったらわざと邪魔をしたりピースサインをしたりしていたかもしれない。スマホで写真があたりまえになって、そういったリテラシーも自然に身についているのだろうなと想像した。
そしていよいよ今回訪問する予定の最後の陵墓となる34号へとやってきた。ここは藤原冬嗣の墓とされているようだ。冬嗣は藤原家にありがちな権謀術数に長けていたタイプの人ではなく、純粋に優秀な人物だったようで、とんでもエピソードやおもしろ話はとくにはでてこない。嵯峨天皇の信頼が厚く最初の蔵人頭になったというくらいである。まあいわゆる堅実な人だったのだろう。
34号の周囲にも民家はあるものの通りから少し奥まったところにあるため、坂道になったアプローチもあって、じつに陵墓らしい姿形をしていた。門のところまで上がっていき振り返ると方角的にはたぶん六地蔵方面だと思われるが、眼下に遠く街が見えた。かなり高いところまで上がってきているのだとあらためて気づかされる。この陵墓巡り、いまやっといてよかったなとつくづく思った。なぜならあと10年もすれば、歩いてこの坂道をあがったり下ったりしながら巡ることは、もしかしたら叶わなかったかもしれないからだ。40歳になったときは「ああもうジジイだ!」なんて思っていたが、50歳を過ぎて振り返ると40歳は若いなあと思う。たぶん60歳になったら50歳はまだまだぜんぜん若いよと思うのだろうな。できるうちになんでもやっておくべきなのだ。なぜって死んでしまったら、極悪人のように好き勝手に描かれて笑いものにされても、クレームのひとつさえ申立てできなくなるのだから。
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