「光る君へ」のその後をめぐる宇治陵巡礼 その4 「坂の下に見えたあの街に」
どうも編集長の松島です。日本史と自分史を重ねて歩くお散歩エッセイ「宇治陵巡礼」シリーズのいよいよ中盤。前回は前半のクライマックスであり、宇治陵において南部にあたる黄檗エリア最大のお目当てであった藤原兼家の眠る(とされている)13号の魔力のようなものに冒されたのか、ちょっと語りすぎてしまった。ぼく個人の内面ではなく目にした情景を、それももうすこし淡々と描写していきたいと思う。
さて、13号を後にしてふたたび府道まで坂道を降りていく。しかしそれにしても、坂道である。ずっと。登っては下り、下っては登る。そのくりかえし。まるで人生のようだ、ははは。というわけで府道まで下りきると、そこからさらに北へ木幡駅方面へと向かってしばらく歩く。そうすると途中にJRの踏切に続く下りの坂道がある(まだ下るのだ)。ここに宇治陵1号がある。1号は「総拝所」とされていて、藤原家や藤原家から入内した天皇の中宮などの女性が埋葬された地とされている。脇に設置された立札には道長の姉で円融天皇の皇后となった詮子(「光る君へ」では吉田羊さん演じる)や、道長の長女で一条天皇の皇后となる彰子(「光る君へ」では見上愛さん演じる)などの名もある。以下が埋葬者名一覧である。
また傍には「藤原氏塋域」と書かれた石碑があり、冬嗣、基経、時平、兼家、道隆、道長、頼道、師實の名が見られた。ちなみに塋域とは墓、墓所のこと。まあつまりはすべてまわるのは大変なので、ここをお参りすればオーケーですよ、ということでもあるのだろうか。神社なんかでもそうだけど、こういう合理的なシステムをけっこう持っていたりするのがおもしろい。熊野詣では大変だから京都にも熊野神社をつくっちゃいました的なのとかね。
さてじつはこの場所、京阪木幡駅すぐ近くにあるぼくの実家から黄檗方面(さっきの東宇治図書館もそのひとつ)へ行くときによく通った道だったのだ。宇治らしく葦簀(よしず)と呼ばれる黒い覆いをした茶畑があり、その向かい側のこんもりした小さな森。そこが宇治陵1号総拝所だったのだ。子どもの頃からなんどもなんども通ったはずなのに、ここがそんな歴史的に大きな役割を果たした藤原北家にとっての重要な場所だったなんてまったく知らなかったなあ。歴史ファン、とくに平安文化や源氏物語が好きな人にとってはなんとも羨ましいというかもったいない話だとは思うのだけど、正直まあこれも京都人あるあるなのだろうけど。
総拝所をお参りしたとはいえ、一応この墓巡りはまだ続けていくことにしよう。次にめざすのは藤原基経の墓といわている宇治陵36号だ。じつは宇治陵を最初に整備したのがこの基経だったともいわれているらしい。1号からJR奈良線の踏切をわたり、旧奈良街道へとさらに坂を降りていって、住宅街の細く入り組んだ道を抜けると「響け!ユーフォニアム」に出てきた京阪宇治線の踏切がある。
その踏切をさらに超えると見えてくるのが、わが母校、木幡中学。昨年は「創立50周年」という大きな横断幕が掲げられていた。木幡中学は吹奏楽の強豪校で全国大会の常連校でもあった。家がすぐ近くなので夏休みでも日曜日でも吹奏楽部が練習している音がよく部屋まで聴こえていたっけ。「響け!ユーフォニアム」の吹奏楽部のモデルである東宇治高校が強かったのも、まあここの生徒の多くがそのまま進学するからだったのだろうね。それもいま振り返ってそう気づいたのであって、当時はなぜ日曜日にも吹奏楽の連中は学校で練習をしているのかさえよくわかっていなかった。あの頃のぼくはいったいなにを見て生きていたのだろうと思わず苦笑する。まあロックと古い映画と古い小説と女の子にしか興味がなかったのだから仕方あるまい。
ここは坂下千里子さん、NiziUのリクさんなんかの出身校でもある(といってもMVを見てもぼくにはいったいどの人がリクさんなのかもわからないのだけども)。坂下千里子さんはうちの弟と同じ学年だったこともあって卒アルに載っていたっけ。弟曰く「中学のときはそんなに目立った感じはなく、ふつうの子だった」とのこと。たしか市会議員さんの娘さんだったはず。ちなみに坂下というお名前だがお家は坂の上にある(ほんとにどうでもいいことだけど)。
ところで高校はぼくはそのまま東宇治高校に進んだのだけど、そこの卒業生には安田美沙子さんもいる。よくもまあこんなちっぽけで坂道と住宅しかないようなローカルな街で育った人のなかから、芸能界のような華々しい世界でスポットライトを浴び、しかも長く活躍を続ける人がこんなにたくさん出たもんだ。ぼくにはまったくもって信じられない。
坂の下といえばぼくの実家や木幡中学があるあたりが下り坂の終点、つまり底にあたる場所である。すぐ近くに木幡池があるのだがこれはこの地域にあった巨大な池「巨椋池」の名残だそうで、まあいわばこのあたり一帯ではもっとも低い場所ということになる(宇治川を西に越えた槙島あたりはさらに低い土地になっているけど)。
そして唐突にだけど、ぼくはふとこの歌を思い出す。ぼく自身は尾崎豊の熱心なリスナーというわけではなかったのだけど、大人になってたまに聴いてみると、たしかにあの時代の空気、それもその頃の日本の郊外都市というか新興住宅地に暮らす若者の寂しさをよく表しているなあと思うようになった。小説でいうと島田雅彦とかあのあたり。世間を騒がせた金属バット殺人事件や神戸の酒鬼薔薇事件なんかも山を削って作った新興住宅地に住む孤独な少年が引き起こした事件だった。村上春樹が短編「五月の海岸線」で「君たちはいつか崩れ去るだろう」と阪神大震災による神戸の街の崩壊を予言をしたかのように、海を埋め立て山を削ってできた新興住宅地の空気は、どこか淀み、人を狂わせ、いずれ心理的あるいは物理的な崩壊を招くのかもしれないなとか思ったりもする。そういう意味では木幡ではいまのところそうした新興住宅地的巨大な悲劇は起きていない。数多くの墳墓や陵墓が残り、永遠の眠りについているやんごとなき人々への鎮魂の祈りが捧げられ続けていることで、ある種の守護のような力が働いているのかもしれない。できれば今後もそうあってほしい。
ともあれ、当時あまり尾崎豊の歌を好ましく思わなかったのは、いま振り返ってみるとどこか近親憎悪みたいなものもちょっとあったのかもしれない。「こんな自分たちにとってあたりまえの日常を自分だけのことみたいに歌になんかすんなよな」みたいなね。まあそれはともかく高校時代、昼休みに学校を抜け出してあてもなくぶらぶらと御蔵山や南山といった、まさにいまぼくが歩いているこの木幡の丘の坂道を歩いていたときの風景を思いだすとき、この歌がしみじみとてもよく似合うものだなと思う。初期のブルース・スプリングスティーンやビリー・ジョエルの歌に出て来るような、肉体労働者の街で暮らす退屈さと凡庸さを抱えた若者が、華やかな都会を夢見ている感じといっていいだろう。
そういえば宇治にもそういう一面はある。一般的に宇治といえばお茶と源氏物語なんかの雅なイメージなのかもしれないけれど、ぼくら住民にとってはヤンキーと工場の街であり、とりわけ木幡というのは、とにかくこの歌の歌詞のように、ひたすら坂道と夕焼けの街だったのだ。そしてアイデンティティに深く刻まれているのが宇治川の存在。ふとひとりになりたいときにボーッと座っていられる大きな川が近くにあるというのはありがたかったなあ。
というわけで今回はこのへんで。このエッセイは一応はざっくりとしたプロットに基づいてはいるものの、あまり推敲せずに一筆書きのような感じでとにかく思いつきで書き進めているものだから、いろいろ脱線やいきなりの設定が生まれたりしている。たとえば「その2」のボブ・ディランのとき、多くの日本古典文学が和歌を引用するように、テーマと関連する歌を引用していこうとなんとなく決めてしまったのもその一例だ。文字量も最初は大体1500字前後としていたのに、前回は3000字近くに膨れあがり、今回にいたってはいよいよ3500字を超えてしまった。なんだか中上健次の雑誌連載小説みたいだ。途中で絶筆(!)なんてことにならないように気をつけます。
さて、次回はいよいよ基経の墓(とされている)宇治陵36号。ここは中盤のハイライト。けっこう書くべきネタが満載なのでどうまとめようか。とにかくお楽しみに!