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ルカ・グァダニーノ 『チャレンジャーズ』(2024) 規範としてのテニス、欲望の肯定

ルカ・グァダニーノはつねに「欲望」というものを描いてきた。社会から肯定されえないものを、唯一無二の美しさをもって描いてきたと言えるかもしれない。そんな彼が「テニス映画」という体をとって、社会から逸脱する3者の「欲望」を描く『チャレンジャーズ』が型破りでたいへん目の回るセクシャルでゾワゾワする映画だった。

テニス選手のタシ・ダンカンは確かな実力と華やかな容姿でトッププレイヤーとして活躍していたが、試合中の怪我により選手生命を絶たれてしまう。選手としての未来を突然失ってしまったタシは、自分に好意を寄せる親友同士の若き男子テニス選手、パトリックとアートを同時に愛することに新たな生きがいを見いだしていく。そして、その“愛”は、彼女にとって新たな“ゲーム”の始まりだった。

https://eiga.com/movie/98955/

これがあらすじ通り、愛=ゲームなのか?と問われればそうなんだろうか?と思う。三者はいずれも規範の上で右往左往しているような印象があり、それを優に超えてくる規範を超えた愛の形が結晶したラストのように感じられた。

一番印象に残るであろう、みずみずしい学生時代のホテルのシーンで、はじめて3人が親密な関係を結ぶ時。12歳のころのささやかなマスターベーションの思い出話(ここでのタシの表情が大好きすぎる)から、タシがパトリックとアートを誘ってキスの行為からタシがそっと抜けて、パトリックとアートがふたりでのキスに夢中になるとき、タシはまるでアフロディーテのごとくふたりのあいだに君臨する(ああ、ここで背後に流れているのはブラッド・オレンジ!)とき、映画史のなかで、三角関係というものがつねに女性を置き去りにしてきた歴史が頭のなかを駆け巡る。そして、この映画はタシを置き去りにしない!タシはまなざされる側であると同時に、まなざす側であることが示唆されるこの場面は、なぜ男性ふたり(しかもジョシュ・オコナーとマイク・フェイストという今をときめく俳優のふたり)がメインビジュアルに全面に押し出されておらず、タシ=ゼンデイヤが全面に出されているかという問いのひとつの答えをもらったような気がした。パトリックと関係を持ち、のちにはアートとも関係を持ち、そしてアートと結婚し、こどもが生まれたあとでも、彼女は満足を知らない。アートに「愛してる」と言われても「知ってる」とだけ返し、「テニスをやめても、負けても、愛してくれる?」とアートに聞かれた時、タシは「キリストか?」とむしょうの愛を拒絶する。パトリックとアートのあいだを行ったり来たりしては、自己嫌悪にも陥り、満足も得られないタシは、テニスにおける「勝ち」にこだわり続ける。テニス=白人の上流階級で親しまれた由緒正しき伝統のあるスポーツであり、ルールもきわめて細かいことを考えると、テニスで勝つことそのものがこの社会の強固な規範を感じさせるものとして機能するのだろうか。いつまでも満足の得られないタシは、モノアモリーが絶対的な社会規範となっている社会で、肯定されない欲望を感じているからだろうか。ふたりの男のあいだを行き来するタシがビッチやふしだらなんて言葉で語るおぞましさから逃れるための物語だったのではないか。規範のなかで、ふたりの男をまなざし、そして右往左往するタシの葛藤と否定されない欲望が描かれる13年間だったように思える。

冒頭、テニスコートを真上から映し出したカメラに映るネットはそういった強固な規範=ラインを示してくれるように思えた。それが、終盤にいつのまにかカメラはコートのなかに入り込み、ネットを優に超えてくる。カメラがボールとしてふたりの男の打ち合いに参加させられる。タシがテニスとはと問われたとき、「テニスとはリレーションシップ(関係性)である」「自分が彼方までいなくなってしまうもの」(タシ自身が黒人の出自を持つことで「テニス」がもつ規範からは逸脱しているが、ここで「勝つ」ためには規範を内在化しなければならないというジレンマがあるように思える)という言葉通り、映画のなかの試合=3者のリレーションシップを外側から見ていたわたしは、回想と試合が進んでいくにつれて、試合をしているふたりとそれを見ているタシの三者間の関係性のなかに入り込んでしまい、融解するような感覚だった。会話やケンカの応酬のあいだも、試合を映し出すあいだもカットの切り替わりがめちゃくちゃに早く、ボールとなったカメラの動きに目がくらくらして、三者間の行き来に目がまわり、なにがなんだかわからず混乱する。スローモーションで映し出される滑稽でもあり愛しくもある表情や汗は、ふつうじっと見つめたり、近くにいるときでしか現実で知りえないものだとおもうと、とてもどきまぎしてしまう。
これまでの回想で、アートとパトリックの関係は、切っても切り離せないものであることを、同性愛的な親密さで描かれている。それをタシはかつてのホテルでのふたりの空気で気づいているからこそ「略奪愛はなし」と答えていた。タシの試合を見るために横並びになったふたり、興奮してアートの太ももをぎゅっと握るパトリック、プロになりツアーを出たパトリックが久しぶりに帰ってきて真っ先に会いにいくのはアートであり(タシではない)、アートの緊張はパトリックの出現によってとける。学生食堂(?)のシーンでもアートが座るであろう隣の椅子をパトリックが足で引き寄せて距離を縮めたり、タシのことを悪く言おうとするアートの嫉妬心を、パトリックがチュロスを奪い、食べて、食べさせるという行為によって愛情への揺るがなさを表明したりする。パトリック、あまりにも愛に無意識すぎるよ。(『ゴッズ・オウン・カントリー』でのジョシュ・オコナー=クィアなペルソナがここで召喚され、わたしは叫び出しそうになりました。)そう思うと、パトリックはテニスプレイヤーとしての面でも「大人」という面でも型破りな人物として描かれていた。型破りなパトリックと堅実なアート、まさに「ファイヤー&アイス」ということか。試合がなされた2019年時点で、タシとアートのみの二者間の関係上の破綻を迎えていた愛は、型破りな火が合流することで完全な形になる。規範のなかでぐちゃぐちゃにこじれてしまった未来像を歩むタシとタシに忠実で堅実なアートの関係性には、やはり型破りなパトリックという人物が不可欠となるのかもしれない。

ラスト、テニスのルールにおいて、ネットに触れることやネットを越えて打ち返すことは違反となるはずなので、スマッシュを打とうとしたアートが、ボールを通り抜け、ふたりを隔てるネットさえなぎ倒し、パトリックが倒れ込んでくるアートと抱擁すると、決定的に隔てられていたネット=境界線を超えてふたりがいっしょになることで、同性同士の愛の可能性を開き、それによってタシの欲望も達成される。タシの13年間の右往左往がここで着地を見せる(=ポリアモリーな欲望の道を見出す)という結末を感じさせた。

デンデイヤがプロデューサーに入っていることに安心して観れる映画だったな〜と思ったりしたのと、ルカ・グァダニーノは、薄い色のジーパンに薄い色のシャツが似合う人が好きだな〜とニッコリする劇中シーン。どこか「We are who we are」も彷彿とさせる(ブラッド・オレンジとか)あたりもニッコリした。

2024|アメリカ|134分|1.85:1
監督:ルカ・グァダニーノ
脚本:ジャスティン・クリツケス
撮影:サヨムプー・ムックティプローム
出演:ゼンデイヤ、ジョシュ・オコナー、マイク・フェイスト

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