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うっかり撮ってしまった写真が語る私の真実

写真が嫌いだ。もうずいぶん長い間、証明写真や集合写真など必要な時を除いては、絶対に写真を撮らないようにしてひっそりと生きてきた。
 
あまりに長い間写真を撮っていないので、葬式の時の遺影が、いったいいくつの時の写真になるのかと心配になるレベルである。

写真が嫌いな理由は、わかりやすくいうと写真の中の自分と脳内の自分とのギャップにある。「写真映りが悪い」という一言で片付けるには解決できないほどの、あまりにも残酷な現実がそこにはある。

毎日鏡を見ているにも関わらず、私ってこんな顔なんだ、というショックが酷い。

先日、ある美術館の展覧会に行った時。あまりにも素敵なフォトスポットがあったので。そして、その日は買ったばかりのお気に入りの服を着ていたので。ついつい軽はずみに写真を撮ってしまった。

家に帰って、スマホの中のその写真を、ついうっかりスワイプして拡大して見た。

   驚愕である。

誰だよ、これ???

私は普段、実年齢よりずいぶん若く見られることが多い。精神年齢が追いつかず、ミーハー精神の塊で、可愛いものが大好きで。選ぶ服も若い頃と大差ないせいもあるのだろうが。

ところが、写真の中の私は、完全にシニアである。どこからどう見ても、年相応のおばさんでしかない。

購入時から「私の年齢でこのデザインは大丈夫ですか?」と多少抵抗のあった小さなドット柄のお気に入りの服も、この顔には違和感でしかない。

写真なんか撮らなきゃよかった。拡大して顔までじっくり見なけりゃよかった、と後悔したがもう遅い。

1枚の写真がつきつける残酷な真実。それは立ち直れないほどの衝撃であり、完全にノックダウン状態。久々に立ち直れないほど打ちのめされてしまった。このショックは大きいな。

いや、これは特別写真映りが悪いんだ、この日はもともと体調が万全ではなくコンディションも悪かった、等々無理やり理由をつけて、もう一度写真を撮り直してリベンジをしたい、と思わないでもない。

けれども、多分、何回撮っても結果は同じだ。その証拠に昔から写真を撮る度、100%ショックを受け続けてきた。

そう言えば数年前の免許証の写真も酷かった。これも「これ、私じゃないよね」と不快感さえ覚えた。ただ免許証の写真なんてみんな酷いし、と自分を納得させてもいた。

それでも、身分証明として免許証を提出しても誰からも「誰ですか、これ?」とは言われないわけで。残念ながら、他人の目には私の顔はこんな風に映っているのだろう。

とりあえず、今回の悲しい写真には、できる限りの加工をほどこしてドーピングしておきたい。真実を突きつけられたことを忘れ、何事もなかったかのように現実から目を背けて生きていこう、と決意する。

これからも写真を撮らなければいい。自分の姿を見なければいい。服の趣味だって変えてたまるかと妙に挑戦的な気持ちになったりもする。

人は老いからは逃れることはできないけれど、目を逸らすことはできる。たぶん。

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