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「手描き作画と3DCGの融和——『イノセンス』から『海獣の子供』まで」(『REBOX2』頒布記念)

背景説明

この文章は2021年9月26日大阪文フリで頒布予定の同人誌『REBOX2 特集:反映画』(@re_boxing)に寄稿した、「『海獣の子供』という寸断された身体」に付随する形で発表するものである。

経緯としては、映画に関する原稿を書かないかと誘われた際に、以前に書いたアニメ映画『海獣の子供』についてのレポートで語ることのできなかった、この映画を観ること自体の側面を文章にする良い機会だと思い、着手した。そこで『REBOX2』の頒布と同時に以前に書いたものをアップしようと考え、公開したのがタイトルの通り『海獣の子供』という作品の映像的達成について論じたこの文章だ。

これ自体は某大学某講義の期末レポートとして提出したものに一部手を加えたものであり、不特定多数に読まれることを想定して書いたものではないのだが、『海獣の子供』およびアニメ映画について語ることを試みたものとして裏表の関係にあるものとなったため、こちらも公開しようと思い立った次第である。(消えていたら、公開に問題があったということです)

どういった意味で裏表かは、『REBOX2』に寄稿した文章と併せて読んでいただければ幸いである。(ささやかな宣伝)とはいえ表層だけでも説明するなら、この記事が『海獣の子供』という映像を言葉で語ることに躊躇せず、素人なりにアニメーション表現それ自体について論じようとしているのに対し、『REBOX2』に寄せた原稿では言葉のみで映像を語ることの不可能性を正面から引き受けたうえで何かを書くことを試みた、論考とも批評とも呼べない実験的な何かである。

アニメ映画『海獣の子供』を銘打っておきながら、その映像表現について論じていないのは期待外れも甚だしいとも思ったため、こちらの文章を別途公開した、という側面もある。なにはともあれ、『REBOX2』を手に取っていただきこの記事に辿り着いた方は是非読んでみて欲しいし、この記事を読んだかたは是非『REBOX2』に寄せた原稿の方も眼を通していただければこの上ない幸せである。(初頒布は2021年9月の大阪文フリだが、その後の文フリや通販でもおそらく頒布されている)

著作権等の問題から図像はほとんど省略という形になってしまったが、調べるなり脳内補完して欲しい。前置きが長くなってしまったが、以下本文。

はじめに

 私が視覚芸術に触れる際、常に思い出されるのが19世紀の作家オスカー・ワイルドの「芸術が人生を模倣するよりも、はるかに人生が芸術を模倣する」という逆説である。(1)この逆説は伝統的な美しい自然の模倣物としての芸術に対して皮肉ることで、虚構を賛美するものである。アニメーションというものは画面内のその全てを描き、音を入れていく必要がある表現媒体であり、無意識までをも映してしまうカメラと異なり意図されたものだけがスクリーンに存在できる。だからこそ、そこには常に「模倣」の問題があるように思う。『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987)のロケット発射シーンのように、現実の資料をただ写し取るだけでもアニメーションには非常に高い価値が生まれるところからも、人の手によって描かれた線が動くというのはときに実写映像の模倣であっても、オリジナルの映像以上に魅力を持つ。

 そしてデジタル表現の普及によってアニメーションにおける制約はさらに少なくなり、ますますリアルな作画というものが好まれるようになってきている。デジタル表現の申し子ともいえる新海誠が現代を代表するアニメ監督となったことは象徴的であり、石岡良治の『現代アニメ「超」講義』によれば「新海誠アニメの背景表現の「コモディティ化」(本来はマーケティングの用語だが、ここでは新海誠の緻密な背景表現が普遍化したという意味で使っていると思われる)」が同じく写実的な描写で人気の京都アニメーションを中心に「深夜アニメの画面の精密化をフォトリアルな方向に推し進めていく流れ」を作っているという。(2)ロケハンやそこでの写真に基づいて精密な背景画の空間が作られ、そのなかを記号的なキャラクターが動き回るというものは、近年ではさらに覇権的な表現となっているように感じられる。

 特に3DCGによる整合性のとれた均質な空間設計は直近の人気作品である『鬼滅の刃』(2019-2020)や『呪術廻戦』(2020-2021)で印象的であった。具体的には『呪術廻戦』第2クールOPにおける前景のキャラクターに異物感を覚えるほどのフォトリアルな背景表現(図1)や、『鬼滅の刃』と同じくufotable制作の『Fate stay/night Heaven’s Feel Ⅰ.presage flower』(2017)におけるセット的に作られた路地裏の空間での戦闘シーン(図2・3)などが挙げられる。こういった表現はセルルックアニメのような全編3DCGから発したアプローチとは別方向で3DCGをセルアニメのなかで活かしていくものであると考えられる。

 このような空間的な背景というものを非常に高いレベルで最初に提示した作品として押井守『イノセンス』(2004)がある。そして手描き作画と3DCGの融和という観点で一つの到達点ともいえる作品として渡辺歩『海獣の子供』(2019)を挙げたい。本論ではこの二つのアニメーション映画作品の映像分析を通じて、アニメにおける手描き作画とCGの融合という観点からアニメーションにおける模倣について述べていく。

第一章 『イノセンス』——3DCGと手描き作画の差異と演出意図

 この章では『イノセンス』の特徴的な二つのシーン、主人公バトーが雑貨屋で電脳をハックされ彼の主観世界と客観世界がずれる場面、もう一つは中盤の台詞のないパレードの場面を取り上げる。どちらも2020年現在よりは未発達な3DCG表現をセルによる作画に対し効果的に用いるために明確な演出意図が表れている。

 まず雑貨屋のシーンだが、図4から見てとれるように店内にある商品はすべて3DCGでモデリングされており、キャラクターだけがセルアニメで描かれている。この場面はバトーがハッキングを受けたことで自分が攻撃されていると誤認させられ、客観的には自分の腕に向けて銃弾を発射して暴れている、というものだ。誤って無実の店主を撃ち殺す直前にバトーは仲間に止められ、客観的な世界へと回帰する。ハッキングから逃れた瞬間、画面の色調が変化し、図5のように店内が全て手描きで作画され俯瞰視点で描かれることで、今までスクリーンに映し出されていたバトーの主観世界がおかしくなっていたことが表現されている。3DCGによるモデリングはその名の通り模型的であり、加工しなければ手描きによるブレとCGによる整合性が衝突し、強烈な違和感を発生させる。この場面ではその作用を演出として利用し、主観世界と客観世界のズレを表現しているといえるだろう。アニメに限らず映像媒体のものは基本的に客観を映すものとして理解されがちだ。しかし押井守自身が前作から主人公が素子からバトーに変わった結果、「主人公の抱いている世界観も変わり、彼の見る世界、都市の景観もまた必然的に変化していなければなりません」(3)と語っているように、主人公の内面は常に画面に反映される。さらに現実と虚構が入り混じる『イノセンス』においては手描きと3DCGをあえて対立させることで、違和感を演出しているのだ。

 一方で、3DCGと手描き作画の質感や情報量の差異を消さずに、レイヤー的に融和させた例として、中華文化とゴシック建築が融合したかのような奇妙な神輿のパレードの場面を分析する。このシーンに台詞は一切なく、メインテーマに合わせて祭りの最中の非日常性、生と死、有機物と無機物の境目が曖昧になるという映画の主題を端的に表現するシーンとなっている。背景のゴシック調で色褪せた高層建築は3DCGで均質的に壁のように立ちはだかり、その前に色彩豊かな神輿が進行している。(図6)画面は背景の非常に高密度な情報量に合わせるかのように手前の神輿も細密なものとなっており、後景におびただしい数の人々が手描きで書き込まれている。ここでも3DCGの密度が画面内で浮いていることで、群衆が個を持った人ではなく幽霊的な存在感を醸し出すものとなっている。

 しかし神輿の上で踊る人などはしっかりと顔をもったキャラクターとして手描き作画で描かれている。(図7)ここの画面では前景の祭りを見る人々の後ろ姿と神輿の上で踊る数人が手描きで、残りが3DCGであると考えられる。しかし色彩や陰影表現により、神輿の上の人々を3DCGに近づけることで、画面全体が違和感なく一枚の絵として完成している。一番後ろの高層ビル群、画面中央の神輿と踊り手、一番手前の群衆という三層に分けることで3DCGと手描き作画を部分的にではあるものの融和させたものとして、2004年時点では特筆すべき画面であると私は考える。

 石岡良治は押井の演出技法について、「押井守が強調した、徹底的に情報をコントロールするレイアウトメソッドは、「背景」「人物」「カメラアイ」とその間にある「空間」を設計し、カメラがどう風景を切り取っているかを観客に意識させることで、画面の外にも風景が続いていることを想像させる」(4)と整理している。このパレードのシーンは非常に緻密な空間表現を成功させているにもかかわらず、それはセット的でなく、脳内世界を二次元上に再構築したかのような広がりをもつものとなっている。

 そして「模倣」の問題を取り上げている本レポートでは、なぜ人形という人間の似姿を主題とした映画を作る必要があったのかという疑問に対して、 3DCGと手描き作画という観点から結論を最終的には展開するが、ここではひとまず監督自身の発言を引用する。

「人間は人間についてあまりにも長いこと考えつづけ、ついに人間について何も語れなくなってしまった。人間はむしろ傍らにいる動物と語ることを目指すべきだった——彼らこそが人間が何者なのかを語ってくれた筈なのに。」(5)

押井は語ることができなくなってしまってもなお、その形を写し取る情熱だけが今も人間を支えており、だからこそ人形を作るという原初的な営為に集約されると述べている。奇しくもこの押井が語るテーゼは『海獣の子供』の主題へと接続されている。『海獣の子供』はラストシーンが琉花の「一番大切な約束は言葉では交わさない」(C1450)という台詞で締めくくられ、主題歌「海の幽霊」のサビの歌詞に「大切なことは言葉にならない」という言葉があるように、言葉では表現できないものがテーマとして設定されている。事実クライマックスシーンでは台詞による説明が放棄されたかのような観念的なイメージによって物語が展開している。ジュゴンに育てられた少年たちと自分の感情をうまく面に出せない少女琉花の交流と、壮大かつ宗教的な自然の祝祭を描いたこの作品は動物や自然そのものと語ろうとする物語であるとともに、アニメーションとしては言語化できないものを描き切ろうとしている非常に挑戦的なものであると考えられる。この作品の映像分析を通じて、世界を描くものとしてのアニメーションにおける模倣の問題に引き続き3DCGと手描き作画の融和という主題から述べていく。

 第二章 『海獣の子供』——3DCGと手描き作画の融和のマスターピース

 つづいて『海獣の子供』のシーン分析をこちらも二つの場面を取り上げる形で行う。一つは主人公琉花が自らの憤りを抱えながら坂を駆け下りるシーン、もう一つは作中でヴィーナスと呼ばれる胸に眼のような紋様のある鯨が海面から顔を出し再び潜るシーンである。『海獣の子供』のアニメーションを一言で表すならば、3DCGと手描き作画との完全なる同質化である。漫画家五十嵐大介の特徴的なフリーハンドの線がアニメーションとして再現されているのは、キャラクターデザインを務めた小西賢一の力量によるものだろうが、緻密かつ情報量の多い、特に自然の、生物の描写をアニメーションで可能としているのはCGの技術に他ならない。

 アニメーションはまさに絵で演技するものであり、キャラクターの身体は描かれた通りに感情を表現する。夏休み初日、主人公琉花は自分に怪我を負わせるような嫌がらせをしてくる部活のチームメイトに逆に怪我を負わせ、それに対し教師が一方的に琉花を非難し、自らの気持ちを説明しようとするが言葉が出ず、教師からは謝らない限り部活に来ないよう言い渡される。このC90の坂を駆け下りるシーンは、そのまま行き場を失った憤りを吐き出すかのように駆け下り(図8・図9)、最後につんのめって転んでしまう(図10)までを林佳織の手によって実に390枚の原画によって描かれている。(6)彼女の表情を映すために基本的に画面の手前側に走っていく構図となっているが、入り組んだ住宅街のなかにある坂のため背景はどんどん切り替わっていく。さらにレイヤーを動かしていくような背景描写ではなく、琉花の細かく揺れ動く身体を捉え続けるようにカメラアイがシームレスに移動していくため、3DCGでなければ不可能なものとなっている。しかし、図からも分かる通り、静止画として見ると背景とキャラクターのタッチや塗りは素人目には区別のつかないものとなっており、冒頭で例に出した『呪術廻戦』や『Fate stay/night HF』のように3DCGによる背景からキャラクターが浮いてしまうようなことがない。これはカメラマッピングというCGで作られた空間に背景美術が貼り込まれうえにエフェクトを加える技法で作られており、実写的な身体による演技がまったくの違和感なく、人の手によって描き出すことが可能なっている。(7)

 もちろんこれより遥かに手間のかからない、キャラクターのモノローグといった言語的メッセージや、非現実的な演出をすることでイコン的なメッセージを含ませ、心情を伝えるということが従来のアニメで行われている技法であるだろう。しかしこの『海獣の子供』においては主人公琉花の言葉にできない吃音的なパーソナリティを表現するために、絵のみで演じ切る必要があったのだと考えられる。その結果、従来のアニメに見慣れているほど違和感を覚えるような非常に贅沢なアニメーションが成立したのだ。

 もう一つ取り上げたいのがこの『海獣の子供』でCG表現が最も活かされている海洋生物の描写である。前景の生物は作画で、後景の生物はCGという形で表現されている。例えば図11のシーンなどはCGの魚と作画の琉花が密に絡んでおり、加工によってCGを作画に寄せることで一つの画面に違和感なく融合しているのが見てとれる。(8)そしてアニメーションの一つの到達点という言葉も過言ではないと私が考えるのがC1091のヴィーナスと呼ばれる鯨が飛沫を纏いながらその巨躯を海面に叩きつけるシーンである。(図12・図13)このカットは作画監督である小西賢一によるラフレイアウトに合わせるためにヴィーナスのセットアップが組まれ、特徴的な胸にある眼のような人のような模様もまたラフの線に合わせている。(9)その結果生物特有の存在感と、小西賢一の線の味を残した画として完成している。その質感はおそらく手描きと思われるC1092(図14)とC1093(図15)のものと比べても遜色ない。漫画原作であることが意識されるような線が全面で出ているヴィーナスの眼のアップや模様のアップと3DCGによるカットが違和感なくシームレスに繋がっており、一見でこれを見分けるのはアニメーターでなければ至難の業であるだろう。ここまで分析してきたが、原画集やインタビューで明言されているカット以外をどこまでが3DCGでどこからが手描き作画か判別するのは不可能である。

 このように近年の作品である『海獣の子供』においては3DCGと手描き作画の融和が違和感を生じさせないほどにシームレスに成されていることがわかった。結論では『イノセンス』および『海獣の子供』の映像分析をふまえて、各々の作品における3DCGの必然性について自らの考えを示し、はじめにで述べた「模倣」の問題に対して論を展開する。

結論

 『イノセンス』と『海獣の子供』という二つの作品は、それぞれ「人形と身体」「言葉にできないもの」という全く違う主題をもち、3DCGも前者は主に建築物や機械などの無機物に使用されたのに対し、後者ではおびただしい数の海生生物をモデリングしている。しかし第一章の末尾で述べたように、人間について語ることの不可能性に対してアニメーションという媒体をもって挑戦した作品として二作品は接続できるように思う。

 何故我々はカメラというものがありながら、アニメーション上に再現された写実的な建築や風景に魅力を感じ、二次元上に描かれたものに現実以上の価値を見いだすのだろうか。『海獣の子供』でCGアニメーターを務めた平野浩太郎がインタビューのなかで語っていた「実写映像は「現実世界のシミュレーション結果」ですからね」(10)という発言に表れているように、現実世界を再現するには無限のピクセル数が必要になってしまう。漫画家・デザイナーの永野護も、自身で監督も務めた『花の詩女ゴティックメード』(2012)に関して、そこに登場する主役メカのアニメーションを26メートル原寸大のポリゴンが組めない以上手描きでやるしかなかった、と述べており、現実のシミュレーションとしての3DCG、つまりは美しい自然の模倣としての3DCGは未だ不可能なものであると考えられる。(11) それに対する一つの解答が『海獣の子供』における凄まじい腕を持つアニメーターの描く線や原作漫画のタッチに可能な限り合わせることによって成立した3DCGと手描き作画の融であるだろうし、海洋生物が無数に泳ぎ回る海の中を作画のみで描き切るのは不可能であった。

 しかし、アニメーションにおいて何故ここまで徹底して模倣することが欲望されるのだろうか。整合性をもった3DCGでモデリングされた人間に不気味さを感じる一方で、『イノセンス』パレードや『海獣の子供』のヴィーナスには底知れない魅力を感じるのも確かだ。この違いを単なる技術的な巧拙だと片付けるのは簡単だろうが、ここでは別の観点を導入したい。模倣とは根源的にオリジナルとは異なるものであり、換言するならば似ていることである。美術批評家の宮川淳は鏡を主題とするエセーのなかで似ていることについて「似ていること、それはこの背後のないことそのもののあらわれ、……(中略)……それゆえに、われわれを魅惑し、われわれを、見ないことの不可能性のなかにとらえるのだ。」(12)と述べている。似ていることの本質とは何ものかの再現である事ではなく、むしろ自己同一性の間隙、ずれであり、それゆえに私たちは魅惑され目が離せなくなり、それを壊したいという欲望まで抱くこともあるという。それこそ「まるで実写」というアニメの評し方はむしろ実写とは明確に異なるからこそされるものだと私は考える。
この差異、ずれはけっして埋まることはなく、だからこそ人によってゼロから作られる表象物であるアニメーションは現実世界を模倣することを追い求め続けるのだと思う。そして現実世界を模倣することに苦心しているからこそ、アニメーションは虚構として実写よりも遥かに高いポテンシャルを発揮するものであると考えられないだろか。そのようなアニメーションの営為として、『イノセンス』は3DCGと手描き作画を単なる二項対立ではなく共存するものとして示した初期の傑作であり、『海獣の子供』は21世紀の日本アニメで常に問題となってきた3DCGと手描き作画に対し、徹底して手描き作画に合わせる形で手描き作画では不可能なカットを描くという一つの解法を示したものであるといえる。

 引用注

(1) オスカー・ワイルド『英米文芸論双書-9-「虚言の衰退」』p47-51 昭和43年 吉田正俊訳 研究社 
(2)石岡良治『現代アニメ「超」講義』p.39  2019年 株式会社PLANETS/第二次惑星開発委員会
(3)押井守『イノセンス 創作ノート—人形・建築・身体の旅+対談—』p.p.99-100 2004年 徳間書店
(4)前掲書 石岡良治 p.85
(5)前掲書 押井守 p.53
(6)『映画「海獣の子供」原画集』 p.p.106-117 監修:小西賢一 2020年 大誠社 
(7) CGWORLD.JP「映画『海獣の子供』公開記念! STUDIO4℃のCGスタッフが語る制作の舞台裏:第1回〜海洋生物篇〜」 2019.06.25  2021年1月31日閲覧
(8) CGWORLD.JP「映画『海獣の子供』公開記念! STUDIO4℃のCGスタッフが語る制作の舞台裏:第2回~海を中心とした背景篇~」2019.07.19  2021年1月31日閲覧
また、このページにはCGのみの画面、CGと原画を合わせた画面、完成映像の三種が比較できるよう掲載されており、私もそれを参照した。
(9) CGWORLD.JP「映画『海獣の子供』公開記念! STUDIO4℃のCGスタッフが語る制作の舞台裏:第1回〜海洋生物篇〜」 2019.06.25
(10)同前
(11) 『ユリイカ12月臨時増刊号 第44巻第14号 総特集†永野護——『ファイブスター物語』の普遍、『花の詩女 ゴティックメード』の衝撃』 2012年 青土社
(12) 宮川淳「鏡について」p.22 『宮川淳著作集1』所収 1980年 美術出版社

図版(著作権の関係で省略)
図1:『呪術廻戦』第2クールOP(2021)などで近年見られる、キャラクターを除くと、写真と変わりない写実的な画面。
図2:セットとしての整合性のとれた均質的な都市空間でのufotable制作のアクションシーン。『Fate stay/night Heaven’s Feel Ⅰ. presage flower』(2017)
図3: 『Fate stay/night Heaven’s Feel Ⅰ. presage flower』(2017)
図4:銃弾で飛び散るモデリングされた商品の破片(中盤、バトー雑貨屋で電脳をハックされるシーン) 『イノセンス』(2004)
図:5同じ雑貨屋だが、こちらのカットは手描き作画と思われる。『イノセンス』(2004)
図6:チャイニーズゴシックの街を行くパレード。後景の群衆は手描きで描き込まれ幽霊的な存在感を醸し出している。『イノセンス』(2004)
図7 :3DCGの神輿の上で踊る三人の男。手描きとCGが非常に高いレベルで融和している。『イノセンス』(2004)
図8: 坂をおりていく琉花 (C90)『海獣の子供』(2019)
図9:坂をおりていく琉花 (C90)『海獣の子供』(2019)
図10:言葉にすることができない憤りが燻り、チームメイトに負わされた膝の怪我もあったからか転んでしまう琉花。当たり前の日常であった部活からも追放された断絶が、突然の転倒として表現されている。(C90)『海獣の子供』(2019)
図11:息継ぎをしながら魚と泳ぐ琉花。(C747)『海獣の子供』(2019)
図12:ヴィーナスが海面から頭を出す。(C1091)『海獣の子供』(2019)
図13:鯨のアニメーションは3Dで、白波やなどが書き足されている。(C1091) 『海獣の子供』(2019)
図14:嶋田真恵による原画 手描き部分は白波のみで鯨やその紋様はCGであることがわかる。 『映画「海獣の子供」原画集』p.308
図15:ワンカット前のCGから手描き作画へとシームレスに繋がり、漫画原作であることが意識されるような線で描かれた質感が全面に出ている。(C1092)『海獣の子供』(2019)
図16:ヴィーナスの特徴的な模様。このカットは手描きと思われるが、CGの場面はこの模様もカットごとにラフに合わせる形でモデリングされている。 (C1093)『海獣の子供』(2019)

その他参照物
TOHO animationチャンネル「TVアニメ『呪術廻戦』ノンクレジットOPムービー/第2クールOPテーマ:Who-ya Extended「VIVID VICE」」2021.01.15
2021年1月29日閲覧
『海獣の子供』SCRIPT BOOK Blu-ray【完全生産限定版】付録
「海の幽霊」作詞・作曲: 米津玄師

付論への接続

ここまで読んでくださった方はありがとうございました。
正直書いてからそこそこ時間が経っているので、今読むとダメな部分がわんさかあり、恥ずかしいのですが内容面には手を加えず載せています。またCGを含む特殊撮影技術は実写作品でこそ発達してきた歴史があり、その方面に全くと言っていいほど知識のない筆者の書いたこの文章はそちらの観点が欠落しており、それこそ庵野秀明監督作品などのフォロワーからは失笑されるものかもしれないです。

それこそ今年2021年は『シン・エヴァンゲリオン:||』が公開されましたし、『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』など日本のアニメ映画の臨界点を更新するような作品が次々と登場し、この文章は古いものとして押し流されていきます。(それ自体はアニメファンとして大変喜ばしいことです。)特に今名前を挙げた二作品はこの記事に載せた論考や『REBOX2』に寄稿した文章の内容にも深くかかわってくるものだと思います。というわけで、この記事に続けて明日文学フリマ大阪当日に「付論:2021年の映画館——『シン・エヴァンゲリオン:||』、『少女☆歌劇レヴュースタァライト』」という短い論考をアップしようと準備しています。

……まだメモ書きの段階なので、あがってなくても許してください。

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