44. 千曲川新絹のごとく光跳ね
日本で一番長い川である信濃川は、甲武信ヶ岳を源として、佐久、上田、善光寺平を通り犀川と合流して新潟県へ続き、日本海に注いでいる。甲武信ヶ岳は甲斐、武蔵、信濃の三つの国名に因んだ山で、山名からその位置が伝ってくる。今でいう山梨、埼玉、長野の三県が交わるところである。
44.千曲川新絹のごとく光跳ね
信濃川という名前は新潟県内の呼称なのだが、長野県内では同じ川の流れを千曲川と呼んでいる。一級河川信濃川は、河川法では「信濃川(千曲川含む)」と表示されていて、国土交通省も千曲川という名称を認知している。地域によって川の呼び名が変わる例はいくつかあるという。例えば、奈良県の吉野川は和歌山へ入って紀の川に、滋賀県の瀬田川は京都府では宇治川に、大阪府へ入ると淀川となる。1994年(平成6年)の『河川情報研究No.2』に「河川の名称と地域とのかかわり」という一文があり、これによれば一級水系97(現在は109水系)のうち、地域によって本川の名称が変わるものは37水系もあるというから、決して珍しい例ではないのである。地域の生活に密着した出来事や情景が川の呼び名に込められ、国もそれを尊重している。
千曲川沿いは最近ではワインバレーとして名高い。雨が少なく日照時間が長い気候と、水捌けの良い土壌がワイン作りに適しているのだ。玉村豊男の『千曲川ワインバレー 新しい農業への視点』がユニークだ。
「もちろんこの地域(当時の東部町)が日本一おいしい巨峰の名産地であり、小諸から上田に至る千曲川沿いの河岸段丘は日本でも一、二を争う小雨地帯であることは知っていましたので、当然ワイン用のブドウにも適しているだろう、と想像することはできましたが、この土地は、ただそこから見える風景が気に入って買うことにしただけで、葡萄をつくるために選んだわけではないのです。」
と書かれているが、今では玉村のヴィラディスト・ワイナリーを含め、多くのワイナリーが並ぶワインバレーになっていて、葡萄作りからワイン醸造事業参画の良い連鎖が起きているのである。ワイン葡萄の栽培地は、以前桑畑だったところが多い。ワイン葡萄と桑の育つ気象や土壌の条件が似ているのである。その昔、信州は蚕糸・製糸業で随分賑わったことはよく知られている。玉村は
「ヴィラディストのある里山も、昭和三十年代までは桑山として利用されていました。」
と書いている。
上田に養蚕・製糸を学ぶ官立学校「上田蚕糸専門学校」が出来たのは、1910年(明治43年)である。阿部勇の『蚕糸王国信州ものがたり』に、『信濃蚕糸業史』から引用した文章が載っている。「上田地方は本県中最も早くより蚕桑の業開け生糸織物等に従事するもの多く、其声価夙に宇内に高かりし」このような事情から、日本でも長野県、長野県でも上田に蚕糸専門学校ができたのである。阿部は
「この官立専門学校は、現在の信州大学繊維学部の前身に当たる。繊維学部という名を残した大学は全国にただ一つだ。」
と、誇らしく書いている。多くの大学が繊維という名を外してきているが、信州大学は違う。ホームページによれば先端繊維・感性高学科、機械・ロボット学科、化学・材料学科、応用生物科学科やファイバーイノベーション・インキュベーター施設等も備えていて、先端性は十分である。それでも繊維という名称にこだわっているのは、歴史のつながりを大切にするとともに、さらにチャレンジをする姿が窺えて、とっても素晴らしいことだと思う。
「諏訪地方の冷たくも澄んだ空気、製糸業の工場経営の経験、優れた労働力の確保、といった好条件が重なり、諏訪地域においてはまさにポスト蚕糸業として精密業が始まり、世代を超えて受け継がれる地場産業となった。」
と、阿部は続けて書いて、第二次世界大戦中、国策として首都圏から地方へ疎開した、富士通信機製造や第二精工舎の名前を挙げる。富士通信機製造はのちの富士通であり、第二精工舎の協力会社大和工業は、のちにセイコーエプソンに発展していった。中学生の頃、信州は良質の水と澄んだ空気があり、精密機械工業が発達していると習ったのを思い出す。蚕は、生糸だけでなくワインや精密機械も紡ぎ出したのである。
千曲川沿いに住んでいる知人の話を聞くと、いいことづくめである。冬の寒さが気になるが、外壁やサッシの断熱性能、暖房システムが確立されているし、日照時間が長いので太陽光パネルの効率も高いらしい。さらに夏は冷房はいらない。信州は日本のレタスの30%〜40%を生産しているが、レタスだけでなく新鮮な野菜や日用品は地元のスーパーツルヤに行けばなんでも安く手に入り、暮らしやすいという。ツルヤで買った信州蕎麦を茹でて食べてみたが、美味しかった。ちなみに、私の毎朝の食事のお供はツルヤの100%信州トマトのジュースである。トマトを飲む感じがしてとてもいい。密を避けるために、住み替えを考えてみるのも面白い。
●財団法人河川情報センター発行『河川情報研究No.2』1994年 に、岡崎忠郎の「河川の名称と地域とのかかわり」が掲載されている。
●『蚕糸王国信州ものがたり』編著:阿部勇 信濃毎日新聞社 2016年
●玉村豊男『千曲川ワインバレー 新しい農業への視点』 集英社 2013年