見出し画像

879~902年「アングロサクソン年代記(クロニクル)」抜粋抄訳

A.D. 851以降の部分がまた長くなったので、A.D. 879年以降の、「ヒーザン・アーミー (ヴァイキング軍)」の活動がフランク王国 (ヨーロッパ大陸) に移っているあたりをこちらに分割しました。
902年以降の翻訳は未定ですが、気が向いたらそのうち追加するかも知れません。
(ヘッダ写真はフランス南部。フランク王国つながり) 

文献、注意書き等は<前半>および<補足ページ>を参照ください。

【注意】879年以降に出てくるヨーロッパ大陸関連の記述は、(アングロサクソン関連よりも更に) 不案内であり、諸侯の表記や肩書など、過誤が250%マシマシになっていると思います。毎度恐縮ですが、参考程度に読んでください。※ベースにしている英訳文 (引用部) も100年くらい前の古いもので、各写本が入り混じっています。

【改訂・追加履歴】

Rev.0:878年まで翻訳、公開。(2020/10/26)
Rev.1:879~882年追加、微修正 (2020/10/30)
Rev.2:883~886年追加、微修正 (2020/11/1)
Rev.3:887~892/3年追加、ページ分割、
追記・修正 (2020/11/10)
Rev.4:893/4~895/6年追加、追記・修正 (2020/12/4)
Rev.5:896/7~902年追加、追記・修正 (2020/12/13)【一旦ここまで】
-----------------------------------------------

◆本文ここから◆


A.D. 879* (サイレンセスターとフラムに居座るヴァイキング、日蝕)

この年、異教徒軍はチッペナムからサイレンセスター* に移動し、そこに丸一年居座った。
同年、海賊 (ヴァイキング)* が集まって一つのグループを作り、テムズ川沿いのフラム* に居座った。

同年、日中に 1時間の日蝕があった。

A.D. 879. This year went the army from Chippenham to Cirencester, and sat there a year. The same year assembled a band of pirates, and sat at Fulham by the Thames. The same year also the sun was eclipsed one hour of the day.

<*訳注>
・879年
:880年?
・サイレンセスター (Cirencester/Cirenceastre):チッペナムから北東へ 20km程度の街。ここに集まったデイン勢は、グスルムがリーダーのグループと思われます。
海賊 (ヴァイキング) (pirates/wicing):ここで初めて、異教徒/デイン勢に対して「ヴァイキング (wicing)」=海賊 (pirates/sea-robbers) の単語が使われている(と思います)。
※「wicing」(wicengと表記ゆれあり)は、当時の発音だと「ヴィッキング」とかそんな感じっぽいはず。
フラム (Fulham/Fullanhamme ):現在のロンドンの南西部にある区域。当時はロンドンの外。当時の「ロンドン」は"Lundenburg"、現在の「シティ」エリアあたりのみ。 (851年の項参照) 
 ここに集まったヴァイキング軍は、次の 880年の項でフランク王国(西ヨーロッパ)に出かけるグループ。

▼ロンドン市街地の位置 (再掲)。

画像12


**********************************

A.D. 880* (ヴァイキング:イーストアングリア定住派と海外渡航派)

この年、異教徒軍はサイレンセスターからイースト・アングリアに移動して定住し、土地を分け合った*

同年、フラムに居座っていた異教徒軍が海を渡ってフランク王国のゲント*に行き、そこに 1年間居座った。

A.D. 880. This year went the army from Cirencester into
East-Anglia, where they settled, and divided the land. The same year
went the army over sea, that before sat at Fulham, to Ghent in
Frankland, and sat there a year.

<*訳注>
・880年:879/881年?882年?
イースト・アングリアに定住~:878年の項で洗礼を受けて「アセルスタン」に改名したグスルムが、和平協定を守り、このイースト・アングリアの定住ムーブでしばらく大人しくします。

フランク王国のゲント (Ghent/Gent):現在のベルギーのヘント。851年にもヴァイキングに襲われている。
 ※位置関係は884年の項の訳注の図参照。
 この時の渡航グループのリーダーが、ゴドフリッド (Godfrid/ Gottfrid/ Guðfrið) で、後のフリースランド公となったという説が Wikipedia (EN) にありますが、元ネタの信憑性は未確認。
[2020/10/31 追記] ヘントはこの当時は西フランク王国領内。国王は ルイ 3世、または 882年 8月以降なら カルロマン 2世。885年の項参照。
 なお、フランク王国内のヴァイキングの動向の資料は、ASCより後の 10世紀にフランスで書かれた「Annals of St-Vaast (Annales Vedastini)」("聖ヴァースト年代記")  などがあるようです。(参考記事 (英語))
<余談>
当時のフランク王国は(843~855年に存在した中部フランク (Middle Francia) が消えて)おおまかに西フランク東フランクの東西連立。
西フランク王国は880~882年の間は 南北に分割統治 されていたが、882年カルロマン 2世の下に再統一され、更に 884年12月~887年 は シャルル/カール 3世 (Charles/Karl III, Charles the Fat, シャルル肥満王) が東フランク・西フランク王国の両方の王となっている。

**********************************

A.D. 881* (フランク王国に食い込む海外ヴァイキング)

この年、異教徒軍はフランク王国のさらに内部まで進み、フランク人はこれに対抗して戦った*。
戦いの後、異教徒軍は馬を得て配備*した。

A.D. 881. This year went the army higher up into Frankland, and the Franks fought with them; and there was the army horsed after the battle.

<*訳注>
881年: 882年 (B本)。880年? (下記の戦いの日付)
・フランク人はこれに対抗して戦った
:あちこちで戦いの記録があり、同じ「異教徒軍」が関与しているのか、元々ヨーロッパ大陸で動いていたヴァイキングのグループによるものか、未確認ですが、例として:
リューネブルク・ヒース原の戦い (Battle of Lüneburg Heath).... 880年 2月 2日、東フランク王国のエルベ川下流域、ハンブルクの南のリューネブルク (Lüneburger Heide) において、ヴァイキング vs サクソン(ザクセン)公国ブルン (Bruno/ Brun) 他が戦った。ヴァイキング軍勝利。ブルンは溺死、列聖。
ティメオンの戦い(Battle of Thiméon).... 880年、東フランク王国のCharlesroi 近くの村、ティメオン (現ベルギー国内)において、ヴァイキング vs 東フランクのルードヴィヒ若年王 (Louis the Younger/ Louis III/ Ludwig III) &シャルル肥満王 (Charles the Fat) の兄弟が戦った。フランク軍勝利。
スークールの戦い (Battle of Saucourt-en-Vimeu) .... 881年、西フランク王国の ソンム川 (884年の項参照) 近くの村 オーシャンクール (Ochancourt、現フランス国内) において、ヴァイキングvs ルイ 3世(西フランク王国北部の王、東フランクのルイ 3世とは別)&カルロマン2世の兄弟が戦った。フランク軍が勝利。

・馬を得て配備:フランク人に勝って奪ったのか、他から手配したのか、未確認です。

**********************************

A.D. 882* (ミューズ川を遡上する海外ヴァイキング、アルフレッド王の海戦その2)

この年、異教徒軍はミューズ川* に沿って更にフランク王国のかなり内部まで入り込み、そこに 1年居座った*

同年、アルフレッド王船で海に出陣*し、デイン人の武装船 4隻と戦って、その内の 2隻を拿捕した。その船に乗っていた者達は全員討ち取られた。
残りの 2隻は降参したが、乗っていた者達は、降参の前にすでにかなり痛めつけられ、重傷を負っていた。

A.D. 882. This year went the army up along the Maese far into Frankland, and there sat a year; and the same year went King Alfred out to sea with a fleet; and fought with four ship-rovers of the Danes, and took two of their ships; wherein all the men were slain; and the other two surrendered; but the men were severely cut and wounded ere they surrendered.

<*訳注>
・882年
:883年?
・ミューズ川 (Meuse/ Maese/ Mæse):現在の河口部のオランダでは「マース」川、源流のフランスでは「ムーズ」川。ベルギーのリエージュあたりを通り、ほぼ南北方向に伸びている。
・ 1年居座った:マース川沿いのアセルト (Asselt/ Ascloha) にヴァイキングのキャンプがあり、882年にフランク軍に包囲されて撤退している (「アセルト包囲戦/ Siege of Asselt」)。
 この際、武力ではなく交渉の末、ヴァイキング側のリーダーのゴドフリッド (「海外組」リーダー? 880年訳注参照) がキリスト教徒に転向し、別のリーダーのシグフレッド (Sigifrid, 886年訳注参照) に和解金 (Danegeld) を払ってキャンプ解散した、という説。

船で海に出陣:2回目。1回目は875年。

**********************************

A.D. 883* (コンデに落ち着く海外ヴァイキング、ローマとインドに貢物を送るアルフレッド)

この年、異教徒軍はシェルト川* を上ってコンデ* まで行き、そこで 1年過ごした。

また*教皇マリヌス* からアルフレッド王に、「神の木 (lignum Domini)*」が送られた。

同年、シゲルムとアセルスタン*をローマに派遣し、アルフレッドからの寄進の供物* を持参した。また、インド*の 聖トマス教会と聖バーソロミュー教会* にも同様に送った。これらは*、ロンドンで異教徒軍に対峙した際に、王が寄進を送ることを誓ったものであり、神のご加護により、彼等は、誓いを立てると、その祈りの内容を大いに得たのだった。

A.D. 883. This year went the army up the Scheldt to Conde, and there sat a year. And Pope Marinus sent King Alfred the "lignum Domini". The same year led Sighelm and Athelstan to Rome the alms which King Alfred ordered thither, and also in India to St. Thomas and to St. Bartholomew. Then they sat against the army at London; and there, with the favour of God, they were very successful after the performance of their vows.

<*訳注>
・883年:882年 (Annals of St. Vaast)、884/885年?
シュルト川 (Scheldt/Scald):スヘルデ (スケルド) 川。上流のフランスでは「エスコー (Escaut)」 川。882年の項でうろうろしていたミューズ (マース) 川よりも 海(西)側を、ほぼ平行して流れている。
 スヘルデ川、マース川、ライン川 (オランダ部分は ワール/Waal川) の三川で、オランダの大デルタ地帯を形成。河口近くまで行ったか、途中で西側へ移動したのか。
・コンデ (Conde/ Cundoþ):現在のフランスの街、コンデ-シュル-レスコー (Condé-sur-l'Escaut)。現在のベルギーとの国境に接する。ここも西フランク王国領内。

「また、~」:これ以降の記述は、A本にはないようです。
・教皇マリヌス (Marinus I ):マリヌス 1世。在位882~884年。885年の項に詳細あり。アングロサクソン民に優しい、いい人。※885年の項の英訳文では「Martin」と誤記されています。
神の木 (lignum Domini) (リーニニュム・ドミニ):直訳は「主の木」(Wood of the Lord)。下記 885年の項に説明がありますが、キリストが磔刑にされた十字架、いわゆる聖十字架 (True Cross) の一部を、本物かどうか非常に怪しいですが、ありがた~いカケラとしてプレゼントしてくださったようです。アルフレッド大感激 (多分)。なおアッサーによると「小さいカケラではなく」だったそうです。
<メモ> lignumの通常のラテン語発音はリグニュム/リグニュー寄りで、教会ラテン語はリーニ(ュ)ニュム?
この「lignum Domini」という言い回しはASCのこの部分以外にはあまり見かけないっぽい。

シゲルム (Sihelm/Sihelm) とアセルスタン (Athelstan/Æþelstan):
またアセルスタン出てきた。グスルムともアルフレッドの長兄とも関係のない、別のアセルスタン。アセルスタン多すぎ。
寄進の供物 (alms/ ælmessan):原文の alms は、貧しい者達への施しもの/寄付の意ですが、ローマ向けは恐らく税金 (上納金) の意味合いも。885年の項で教皇マリヌスがサクソン県人会館の税金を免除してくれた旨が言及されていますが、上納金を弾んだ (?) 甲斐があった...多分。

・インド (India):いきなりインドが出てきてビビりますが、12使徒の聖トマスと聖バーソロミュー (バルトロマイ) の伝説/逸話にはインドに布教に行ったというバージョンがあり、特にトマスはインドで死んだことになっているので、教会が建っていたようです。
 また、使徒トマスが到達したのが現在のインド南西部のケララ州のあたりで、ここはローマとのスパイス貿易ルートの起点になっており、アルフレッドのお使いの2人も、この確立されたルートでインドまで行ったとの考察などがあるようです。(または「インド」は漠然とした語で、東方地域のどこか(別の地域) の可能性、など。)
 なお、参考にしているWikisource上の古英語原文 (B本) では「Iudea」(=Judea/ジュデア、ローマ帝国時代のユダヤ州、現在のエルサレム周辺の「西岸地区(West Bank)」 のあたり) と誤記されているのですが、単に誤記なのか、インド訪問そのものが後付けなのか、よくわかりません。

・聖トマス教会 (Sancte Thome):インドでトマスは「聖トマスの七つの教会 (Seven Churches/ Ezhara Pallikal) 」を建てたと言われており、その内のどれかか全部と思われます。
・聖バーソロミュー教会 (Sancte Bartholomeæ):ムンバイのあたりで布教したようなので、そのへんに教会があったんでは。

・「これらは~」:これ以降の文章の英訳 (参考:古英語原文 B本)の解釈がまちまちなので、自分の読解力不足で確定できずアレですが、例をいくつか列記しておきます:
a) シゲルドとアセルスタンがローマ・インドに寄進物を届けた後、ロンドンで異教徒軍と対峙したが、彼等が「誓い (ローマ・インドへの寄進?)」を果たした後だったので、神のご加護により、上手く行った。(上記に引用されている英訳文。筋が通らない気がしますが、原文通りなのかも)
b) 上記の日本語訳に同じ (翻訳元はGiles 1914版の英訳文)=アルフレッドがロンドンで寄進の誓いを立てたので、祈り (異教徒軍との戦いに打ち勝つ?) が叶った? ※後半の主語が「彼等」になっているのがよくわかりません。誤訳してたらすみません。
c) 上記の日本語訳にほぼ同じ、ただし「神のご加護」は、首尾よく誓いを果たす (ローマ・インドの寄進旅) 事が出来た、にかかる。(大沢一雄 訳「アングロ・サクソン年代記」※「E写本の記述」との事)


**********************************

A.D. 884* (アミアンに引っ越す海外ヴァイキング)

この年、異教徒軍はソンム川* に沿ってアミアン* まで行き、そこで 1年過ごした。

この年*、慈悲に満ちた司教アセルウォルド* が死去した。

A.D. 884. This year went the army up the Somne to Amiens, and there remained a year. This year died the benevolent Bishop Athelwold.

<*訳注>
・884年
:882~883年 (St Vaast)、885年(B本)
ソンム川 (Somme/ Sunnan):現在のフランス北部を東西に流れる川。
アミアン (Amiens/Embenum):ソンム川沿いの街。前年にいたコンデからは直線で南西に 120kmくらい。西フランク王国
 コンデからアミアンにまっすぐ行ったかと思ったら、ベルギー (フランダース) の方に戻って海沿いにつまみ食いしながら夏を過ごして、海からソンム川を遡上してアミアンに行ったっぽい。(St-Vaast, 883) やはり基本的に船で移動する民。

この年~:この一文は F本の記載で、後年加えられた誤記
・司教アセルウォルド (Athelwold/ Æthelwold):ウィンチェスター司教。没年は884年ではなく 984年。

▼異教徒軍のA.D. 880~884年のフランク王国内の動きをおおまかにメモ。
【注意】881年前後の位置は未確認、ルートも非常に適当な推測です。東西フランク王国の国境は反映されていません。

画像11


**********************************

A.D. 885* (ロチェスター包囲戦、アルフレッドの海戦 3&4、西フランク国王カルロマン2世の死)

この年、前述の異教徒軍* が 2グループに分裂し、片方は東*に向かい、もう片方はロチェスターに向かった。
彼等はこの街を包囲し、彼等自身の周囲にも別の砦を作った。しかし人々は、アルフレッド王が軍を率いて到着するまで、街を守り抜いた。
すると敵軍は自分達の船に向かい、作った砦も放棄した。その場所で彼等は馬も奪われ*、その後間もなく同じ夏に* 海の向こうに去った。

同年、アルフレッド王はケントからイースト・アングリアに向けて、軍船 1隻を出航させた。
スタワ川の河口* に来かかるとすぐに、16隻の海賊達の船* に遭遇した。彼等ははこれと戦ってすべての船を拿捕し、乗っていた敵勢を殺した。

同日、彼等が戦利品と共に帰航していると、大型の海賊船*と遭遇し、これと戦ったが、デイン勢* が勝利した。

同年、冬至期間の前に、フランクの王、チャールズ (1) [訳注: カルロマンII] が死去した。彼はイノシシに殺されたのだった。この 1年前には、同じく西フランク王国の王であった 彼の兄* [訳注: ルイIII] が死去した。
彼等は、同じく西フランク王国を支配し、日蝕があった年* に死んだルイ(1)* [訳注: ルイII ] の息子達であった。彼は、ウェセックス王・エセルウルフがその娘を妻* とした、シャルル* の息子であった。

同年、大船団*が終結してオールド・サクソン人* に対峙し、1年の内に大きな戦いが 2回あったが、フリース人* がこれに加勢し、サクソン人が勝利した。

同年、チャールズ (2) [訳注:シャルル肥満王] が、西フランク王国*、および地中海* のこちら側のすべての地域、かつこの海の向こう側の地域* を、彼の曽祖父* が統治したごとく、但しブルターニュ*を除いて、継承した。
このチャールズは、ウェスト・サクソンの王エセルウルフが結婚したジュディスの父であるシャルル ["禿頭王"] の、その兄弟であるルイ(2)* [訳注: "ドイツ人王"] の息子であった。彼等は ルイ(3)* [訳注: "敬虔王”] の息子であり、このルイは大シャルル*の息子であり、大シャルルは ピピン* [訳注: "短王"]の息子であった。

同年、善良なる教皇マリヌス* が死去した。彼は、ウェスト・サクソンの王アルフレッドの請願に応じて、イングランド国民学校を無税* とし、また、素晴らしい贈り物を、そして* キリストが受難した十字架の一部* を、アルフレッドに贈った。

同年、イースト・アングリアにいた異教徒軍*が、アルフレッド王との和平*を破った。

A.D. 885. This year separated the before-mentioned army in two; one part east, another to Rochester. This city they surrounded, and wrought another fortress around themselves. The people, however, defended the city, until King Alfred came out with his army. Then went the enemy to their ships, and forsook their work. There were they provided with horses; and soon after, in the same summer, they went over sea again. The same year sent King Alfred a fleet from Kent into East-Anglia. As soon as they came to Stourmouth, there met them sixteen ships of the pirates. And they fought with them, took all the ships, and slew the men. As they returned homeward with their booty, they met a large fleet of the pirates, and fought with them the same day; but the Danes had the victory. The same year, ere midwinter, died Charles, king of the Franks. He was slain by a boar; and one year before his brother died, who had also the Western kingdom. They were both the sons of Louis, who also had the Western kingdom, and died the same year that the sun was eclipsed. He was the son of that Charles whose daughter Ethelwulf, king of the West-Saxons, had to wife. And the same year collected a great fleet against Old-Saxony; and there was a great fight twice in the year, and the Saxons had the victory. There were the Frieslanders with them. And the same year succeeded Charles to the Western kingdom, and to all the territory this side of the Mediterranean and beyond, as his great-grandfather held it, except the Lidwiccians. The said Charles was the son of Louis, who was the brother of that Charles who was the father of Judith, whom Ethelwulf, king of the West-Saxons, married. They were the sons of Louis, who was the son of the elder Charles, who was the son of Pepin. The same year died the good Pope Martin, who freed the English school at the request of Alfred, king of the West-Saxons. And he sent him great gifts in relics, and a part of the rood on which Christ suffered. And the same year the army in East-Anglia brake the truce with King Alfred.

<*訳注>
885年:884年?(教皇マリヌス没年他)、886年 (B本)。
前述の異教徒軍:フランク王国に行った海外グループ。フランク王国内で東に行ったチームと、イングランドに戻ってきたチーム?
東に向かい:このチームの事かどうかわかりませんが、885年頃にヴァイキング勢がアミアンの南東のランス (Rheims/ Reims) に行った記録など (St. Vaas) があるようです。
ロチェスター (Rochester/ Hrofesceastre) :839年にも襲撃されている。テムズ河口の手前の、海に近い街なので、海外からプッと戻ってきて攻撃するにはアクセスのよい場所。ローマ帝国時代に、街の周囲に石の城壁が築かれた。
・馬も奪われ (behorsode):上記に引用の英訳文には「provided with horses」(馬を供給され) とありますが、原文や状況から、Giles 1914版の英訳 ("deprived of horses") に依りました。  
 <メモ> 古英語原文の "behorsode" (behorsian, i.e. deprive of horse, 馬を奪う) の解釈違いか、写本ミスか。OE: "hie wurdon þær behorsode" : "them/ perished/ there/ deprive of horse." ⇔「馬を得る」は"gehorsod" (hoursed, mounted).
同じ夏に (in the same summer):Giles 1914版 (wikisource) では "in that same manner” (同じように) になっており、誤記か、Wikisourceの OCRミスか、写本のバリエーションか不明ですが、原文から「同じ夏」としました。
・スタワ川の河口 (Stourmouth/ Stufe muþan):イースト・アングリアの中部、イプスウィッチ (Ipswich) の南あたり。
 ※スタワ (Stour) 川は他にも何本かある。ケントのサネット島とサンドウィッチの間 (851年参照) など。
海賊達の船 (ship of pirates/ scipu wicenga): ここでも「ヴァイキング (海賊/ pirates)」表現が使われている。
大型の海賊船:芦ノ湖名物。もとい、多分ロングシップ? こちらは「大きな (micelne)」と表現しているので、16隻はそこまで大きくなかったっぽい。
デイン勢 (Danes/ Deniscan) :同じ「海賊」を、ここでは「デイン」と言い換え。

・チャールズ (1) (Charles, Carl/Karl):カルロマン 2世 (Carloman II)。866年頃生。西フランク王、在位 879~884年。兄のルイ 3世 (下記) と分割統治。北部が兄エリア、南部がカルロマン2世。「前年」882年に兄が死去した後は、兄の分も統合して統治していた。
イノシシに殺された」のは、イノシシ狩りをしていて逆に野生のイノシシに殺された。享年 18歳
(訳者も実際に東フランク王国内 (現ドイツ) でイノシシに遭遇したことありますが、山の斜面を正に猪突猛進で駆け上がっていってコワかったです)
彼の兄弟: ルイ 3世 (Louis III of France)。863/865頃生。西フランク王、在位 879~882年。弟のカルロマン 2世 (上記) と西フランク王国を分割統治した。享年17/19歳。
 女子を馬で追い駆けていて扉の上の所に頭をぶつけて落馬、頭外骨骨折で死んだらしい。兄弟仲良く並んでサン・ドニ大聖堂に安置されている。
ルイ(1) (Louis/ Hloþwig):ルイ 2世、ルイ吃音王 (Louis II, Louis the Stammerer/ Louis le Bègue)。西フランク王、在位 877~879年。上記カルロマン2世、ルイ 3世の父。記述どおり「日蝕のあった」A.D. 879年に死去している。
・日蝕のあった年
A.D. 879年の項。
その娘を妻とした:シャルル禿頭王 (下記)の娘、ジュディス (Judith)。アルフレッドの父王エセルウルフ、および兄王エセルバルド (Ethelbald) の妻となった。
シャルル (Charles/ Karles):シャルル禿頭王 (Charles the Bald/ Charles II le Chauve)。上記ルイ 2世の父。854年の項参照。

大軍船団 (great fleet/ micel sciphere):ヴァイキングの。
オールド・サクソン人 (Old Saxonsy/ Aldseaxum):イングランドのサクソンではなく、出身地のドイツ北部のサクソン人。ザクセン。※現在のドイツのニーダーザクセン州 (Niedersachsen) のあたり。続く「サクソン人 Saxons/ Seaxan」も同じ。
フリース人 (Frisians/ Frisan):フリジア/フリースラントの民。当時のフリジアは現在のオランダ北部とドイツ北部の、北海岸沿いの地域。

・チャールズ (2) (Charles III, Charles the Fat/ Karl III/ Carl) :シャルル/カール肥満王、カール 3世。839年生まれ。東フランク国王、在位876~887年。
上記の西フランク国王チャールズ(1) (カルロマン2世) の従兄で、カルロマンがイノシシに殺されたので、西フランク国王を兼任して継承。在位884~887。他にもカロリング帝王、イタリア王などを兼任。
西フランク王国:「チャールズ(1)」 (カルロマン2世) が治めていた。
地中海 (Wendel-sea/ Wendelsæ):現在の地中海全体ではなく、現在のイタリア半島の西のあたり(フランスの南)を指すっぽい。
この海の向こう側 (beyond this sea/ begeondan þisse sæ) :「この海」が上記の地中海 (Wendel-sea)を指すのか、イングランドとヨーロッパ大陸の間の海(北海&ドーバー海峡)を指すのか未確認。
曽祖父:シャルルマーニュ。
・ブルターニュ (Brittany/ Lidwiccium):ブルトン人(Bretons, イングランドの先住民ブリトン人と同じルーツの民)の地域。
・ルイ(2) (Louis II, Louis the German/ Ludwig II/ Hloþwig):ルイ2世 (上記のルイ2世"吃音王"とは別)、ルードヴィヒ2世、ルイ・ドイツ人王
・ルイ (3) (Louis, Louis the Pious/ Hloþwig):ルイ敬虔王。シャルルマーニュの息子。シャルル禿頭王とルイ・ドイツ人王の父。ルイ多すぎ。
大シャルル (the elder Charles/ aldan Carles):シャルルマーニュ。カール大帝。ルイ敬虔王の父。
ピピン (Pepin the Short, Pipin III/ Pippen):小ピピン、ピピン短王。シャルルマーニュの父。

教皇マリヌス (papa Marinus): 884年死去。883年の項参照。
イングランド国民学校 (English school / Angelcynnes scole) :ローマにあるイギリス県人会のスコラ・サクソナム (Schola Saxonum)。アルフレッドの義兄のマーシア王バーグレッドが埋葬されたあそこ。
・無税とした (freed):ローマにあるので現地の税金を払っていた (詳細未確認) のを、免除された。いい人だ!
そして:この部分、「そして」なのか「すなわち」なのか未確認。※「贈り物」が十字架のカケラのことなのか、他にもあるのか。
・十字架の一部883年の項でアルフレッドに贈った「神の木/ lignum Domini」のこと。いい人だ...。
(そもそもローマに本物の聖十字架があったかどうか怪しく、ローマ教皇庁の商売の一部でしょうが、まぁ有難いことです。)
なお、この時頂戴した Lignum Domini (Holy Cross) は、アルフレッド王が建てたシャフツベリ・アビー (Shaftsbury Abbey) にあったらしいですが、未確認。

イースト・アングリアにいた異教徒軍:グスルムさん (...おっとアセルスタンでしたね、アルフレッドのゴッド・チャイルドの!) のグループ。
和平 (peace/ friþ):原文は「平和を破った」。878年の項のエディントン(エサンデュン)の戦いの後に、ウェドモアで締結した (と言われる) 和平協定。

▼アルフレッド王が888年頃に建てたシャフツベリ・アビーの跡。尼僧院で、初代修道院長はアルフレッドの娘のアセルギフ (Aethelgifu)。片隅にモダンなアルフレッド王の像 (by Andrew DuMont, 1984) があり、ささやかな資料館もあります。
ここもヘンリー8世とトマス・クロムウェルのアレで廃院されました。

画像49


**********************************

A.D. 886* (海外ヴァイキングのパリ包囲、アルフレッドのイングランド統一)

この年、その前に東に行っていた異教徒軍* が、再び西に向かい、セーヌ川*に沿って遡上し、パリの街* に冬期の居住区を据えた。

同年、アルフレッド王がロンドン*の街の守りを固め城塞化した。
また、イングランド全土が、デイン民に占領されている部分を除いて*アルフレッド王に従った*
その後、彼は [ロンドンの] 街を州公エセレッド* の統治に委ねた。

A.D. 886. This year went the army back again to the west, that before were bent eastward; and proceeding upwards along the Seine, fixed their winter-quarters in the city of Paris. The same year also King Alfred fortified the city of London; and the whole English nation turned to him, except that part of it which was held captive by the Danes. He then committed the city to the care of Alderman Ethered, to hold it under him.

<*訳注>
886年:885~886 (海外ヴァイキング動向)、887年 (B本)
セーヌ川 (Seine/ Sigene):河口からではなく、途中で北から流れ込む オワーズ (Oise) 川を経由したようです。
※前年にいたランス (Rheims) にはエーヌ川 (Aisne) があり、川を西に下るとオワーズ川に合流する。

パリの街 (Paris):当時のパリは、セーヌ川の中州のシテ島 (Île de la Cité, "Island of the City") のみ。A本には「パリ」の記載なし? 英訳には「パリの近く」としている例もあるように、街の中には入っておらず、頑張って入ろうとした。
 この時の攻防戦が、「885~886年のパリ包囲 (Siege of Paris, 855-886)」。ヴァイキング側のリーダーはシグフレッド (Sigfrid/ Sigfred/ Siegfried, etc) と シンリック (Sinric)、および ロルフ、またの名を ロロ (Rolf/ Hrólf/ Rollon/ Rollo )。
当時のフランク国王は東西兼任のシャルル肥満王だったが、1年近く経ってから到着し、ヴァイキングに多額の和解金 (Danegeld) を払った上にセーヌ川の上流のブルゴーニュ地方の略奪を許したため、頑張って陥落を防いでいた パリ公ウード (Odo, Count of Paris) やパリ市民の反感を買いまくった。
カロリング王朝とフランスのターニングポイントとなった戦いだそーです。

▼セーヌ川の写真あった。これはシテ島より下流、オルセー美術館側からルーブル美術館を見ているところ。2003年撮影。

画像10

<メモ>
ASCには反映されていませんが、ラグナル・ロスブロックが率いたとされる「Siege of Paris (パリ包囲)」は40年前の 845年。当時の西フランク王は シャルル(2世)禿頭王 (アルフレッドの義母ジュディスの父)。
なお、フランク王国におけるヴァイキングの最初の侵攻の記録は、シャルルマーニュ時代の 799年頃。

▼シテ島のノートルダム大聖堂 (Notre-Dame de Paris) 。当時もノートルダム教会はあったものの、聖エチエンヌか聖トマスの教会の方がメインだったっぽい。(参考元記事。8世紀頃の地図がチラっとある) 2003年撮影。

画像11

<余談>
ドラマ「ヴァイキング」
ではパリ伯ウードロロラグナルのパリ包囲戦 (845年)に登場していましたが、実際は 885年の方。国王がシャルル禿頭王 (2世) だったのは歴史通りですが、娘の設定なども大胆にアレンジされてました。おもろい。

ロロ (Hrólfr Ragnvaldssonとも) 関連では、
876年の項に「ロロがノルマンディを征服した」という記述がありますが、ロロは(アイルランドやスコットランドで評判を上げた後)このノルマンディを含む、西フランク北西部のニューストリア (ヌーストリー/ Neustria) 地域で、ヴァイキング活動をしていたようです。
で、ニューストリアの北海岸部分がノルマンディ(=Nortman、北の民から派生) 、すなわちノルマン人=ヴァイキング移植者の地域で、911年にノルマンディ公国が成立し、ロロが初代ノルマンディー公に。その子孫の ウィリアムが 1066年にアングロサクソン・イングランドを征服したのでした。 ヴァイキングの血が騒ぐ!

ロンドン (London/ Lundenburg, Lundenburh):現在の「シティ (City)」周辺の地区。839/ 872年の項など参照。ローマ帝国時代の石壁を補修し、城壁に囲まれた街 (walled city) とした。
なお当時のロンドンの真ん中を南北に流れていたウォルブルック (Walbrook) 川は、現在は暗渠/下水道となっている。

イングランド全土がアルフレッド王に従った:記念すべきイングランド統一!! とは言え、デイン居住地の「デインロウ」を除く不完全な形態なので、実際は「イングランド」の半分くらい。更に北のスコットランド、ウェールズ、アイルランドも除くので、ブリテン島の 1/4程度
 結局「イングランド全土」を「統一」したのは、アルフレッドの孫のアセルスタン

デイン民に占領されている部分を除いて:このあたりの時期に、アルフレッドとグスルムで、デイン人居住区の境界線や法律 などの正式を取り決めを行い、これが独立行政区的な「デインロウ (Danelaw)」となった(おおまかに)。
 デインロウの範囲は、グスルムのイースト・アングリアマーシアの東半分あたり、および、イングヴァール (アイヴァー) 達が攻略した後はヴァイキング勢の拠点となっている ヨーク (York/ Eoforwic, ヴァイキング的には "Jovik") 周辺のノーサンブリア。多分。

州公エセルレッド (ealdorman Ethered/ aldormen Æþerede):ここではEthelred ではなく Ethered 表記ですが、アルフレッドの娘 エセルフレッド (Æthelflæd) の夫の、マーシア公 エセルレッド (Æthelred, Lord of Marcia) 。(アルフレッドの兄王とは別人です、念の為。)
 エセルレッド公とアセルフレッドの婚姻時期はASCには記載されておらず、いきなり 887年頃のチャーター (勅命状) にエセルレッドの妻として記載があるようですが、エセルレッドが886年にロンドンを任された事からも、既にアルフレッドの義理の息子だった可能性もあります。
 エセルレッド自身の出自はよく解っていませんが、アッサーのアルフレッド王の伝記の80節に、886年以前 (多分) の様子の言及があります。

▼テムズ川の Southwark Bridge 近くの Queenhithe Dock 横の通路に、アルフレッド王のロンドン再入植の1100周年を記念して 1986年にロンドン博物館等が設置した板っきれがあります。(Google Map上の位置はここ)

画像48

画像49

▼上記の記念板のすぐ手前にある、テムズ周辺の歴史を描いたモザイクタイル壁画「Queenhithe Mosaic」(2014)。
 この周辺のクイーンハイス地域 (Queenhithe) は、当時は「Ethelred's Hythe /Aeðereshyð (エセルレッドの船着き場)」と呼ばれていた旨も書かれています。(三枚目の写真、モザイク壁の向こう側の部分に名残りがある。)
※ ロンドン内ウォーキング・ルート(英語) の内の「Thames Path」の一部になっており、小さな道標で示されていますので、私有地じゃないかとビクビクしつつ狭い抜け道などを辿っていくと、結構面白いです。

画像50

画像51

画像52


**********************************

A.D. 887* (セーヌ上流の海外ヴァイキング、カロリング帝国の終焉、アルフレッドのローマ進物)

この年、異教徒軍はパリの橋*を越え、セーヌ川に沿ってマルヌ川* まで遡上した。
そしてマルヌ川を遡上してシェジー* まで行き、そこに居座った。また、ヨンヌ川河畔*にも留まり、2回の冬を 2か所の駐留地で過ごした。

同年、フランク国王シャルル [肥満王] が死去した。彼の死の 6週間前*、彼の兄弟の息子のアルヌルフ*が、彼から王国を奪った*
 この王国はその後 5分割され、5人の王* がそれぞれに聖別戴冠されたが、これはアルヌルフの同意の下に行われ、彼等はアルヌルフに従う事に同意した*。というのも、彼以外は生まれ持っての父系の継承権* がなかったからである。
従って、アルナルフライン川の東*の国土に留まり、ルドルフが中部のお王国0*ウードが西部*ベレンガーリオ* とウィサ* が ロンバルディアの地域* 山側の地域* の主となった。しかし彼等* はこれらの地域を大いに争い、2回の全面戦争を仕掛け、国土を頻繁かつ何度も破壊し尽くし、お互いを追放し合った。

同年、すなわち異教徒軍がパリの橋を越えて進んだ年、州公エセルヘルム* がウェスト・サクソン民とアルフレッド王の進物* をローマへ運んだ。

A.D. 887. This year the army advanced beyond the bridge at Paris; and then upwards, along the Seine, to the Marne. Then upwards on the Marne as far as Chezy; and in their two stations, there and on the Yonne, they abode two winters. This same year died Charles, king of the Franks. Arnulf, his brother's son, had six weeks before his death bereft him of his kingdom; which was now divided into five portions, and five kings were consecrated thereto. This, however, was done with the consent of Arnulf; and they agreed that they should hold in subjection to him; because none of them had by birth any claim on the father's side, except him alone. Arnulf, therefore, dwelt in the country eastward of the Rhine; Rodulf took to the middle district; Oda to the western; whilst Berenger and Witha became masters of Lombardy and the Cisalpine territory. But they held their dominion in great discord; fought two general battles, and frequently overran the country in partial encounters, displacing each other several times. The same year also, in which the Danish army advanced beyond the bridge at Paris, Alderman Ethelhelm led the alms of the West-Saxons and of King Alfred to Rome.

<*訳注>
887年: 一部 888年 (B本、シャルル肥満王没年)
パリの橋:シャルル禿頭王 (ジュディスの父) が 854 (861?) 年にヴァイキング対策で作った橋。橋げたが低く、船が通り抜けることができないため、防御の要のひとつとなった。
 シテ島の右岸 (北側) と左岸 (南) にあり、川幅の広い北側にある、現在のシャンジュ橋 (Pont au Change) の方が "大橋 (Grand Pont)"、南側の方が "小橋" (Petit Pont)。片方は石橋で片方は木橋 (多分「小橋」が木?) だったらしい。
 この橋が「包囲戦」の際にかなり役に立ったものの、ヴァイキング勢に川の下流を堰き止められたり、燃える船をブッ込まれたり (橋が焼け落ちる前に船の方が沈んだものの、脆弱化し、"886年 2月に大雨による増水で「小橋」が流された" (St. Vaas)) している。
 で、シャルル肥満王は、パリ包囲の解除を条件に、上流のブルゴーニュ (バーガンディ) 地方 (当時フランク王国に反旗を翻していた※) の略奪を許可したものの、激おこのパリ市民はシテ島周辺を船で通るのを許さず、ヴァイキング達は陸上を船を引っ張って通過したらしい。パリジャンの反抗心...。
※当時の「ブルゴーニュ」はかなり広い。「上ブルゴーニュ」か「下ブルゴーニュ」か未確認。

・マルヌ川 (Marne/ Mæterne):セーヌ川の支流。セーヌ川を現在のパリ市街の南東あたりで分岐し、東方面に伸びる。
シェジー (Chezy/ Cariei):現在のシェジ-シュル-マルヌ (Chézy-sur-Marne)。パリから約 90km、マルヌ川に沿っていくと 160kmくらい?
・ヨンヌ川 (Yonne/ Iona(n)) 河畔:ヨンヌもセーヌ川の支流。マルヌ川との分岐点を越えて更に進むとヨンヌ川に分岐し、いわゆる「ブルゴーニュ」地方 (ブルゴーニュ公国 (Duchy of Burgundy)) の真ん中を流れる。
「河畔」がどこか確認できませんでしたが、ヨンヌ川沿いにはサンス (Sens)、ウセール (Auxerre) などに、ローマ時代から続く重要な街 (や教会) があります。

▼関係ないですが、ヨンヌ川沿いの街 Villeneuve-sur-Yonne で2019年に行われたヴァイキング祭りの動画があり、羨ましいので貼っておきます (フランス語)。

彼の死の 6週間前:シャルル肥満王の命日は 888年 1月 13日。887年 11月 11日に、東西フランク王国、神聖ローマ帝王、イタリア王などから退位。現代の計算では 6週間ではないですが。
兄弟の息子のアルナルフ(Arnulf/ Earnulf):「カリンシア (ケルンテン) のアーナルフ/アルヌルフ」 (Arnulf of Carinthia, German Arnulf Von Kärnten)。
  シャルル肥満王の兄、バイエルン王カルロマン (Carloman of Bavaria ※イノシシに殺されたカルロマン 2世とは別) の 息子=甥。
 カリンシア/ケルンテンは、現在のオーストリアの南部とその南 (スロヴェニア北部) のエリア。
彼から王国を奪った:王に対する不信任要求の中心人物となった。
 持病等で既に影響力を失っていたところに、パリ防戦その他にも失敗したシャルルさん、これに抵抗せずに退位を受け入れ、別荘を貰って引退し、2か月後に死去。カロリング帝国の終焉であった...。(♪ドラマチックな音楽)

5分割され、5人の王:色々とごたごたしていたので、明確にシャルル肥満王時代の区分に対応している訳ではなく、支配権も「俺が俺が」状態だったようですが、この後に列挙されている 5地域と 5人(アルナルフ、ルドルフ、ウード、ベレンガーリオ、ウィサ (グィド)。後述)のようです。

彼等はアルヌルフに従う事に同意した:別訳として「アルヌルフの手から王権を受けると言った」。なお、この辺の4人の「王」のアルナルフへの「忠誠」は、アングロサクソン側からそう見えただけのようです。
生まれ持っての父系の継承権:父方の血筋が王族の家系ではない。

アルナルフがライン川 (Rhine/ Rin) の東:アルナルフが東フランク王となった。
ルドルフが中部地域:ルドルフ 1世 (Rudolph I of Burgundy) が「オート-ブルゴーニュ (ユーラブルグント)王国」の王となった。※もう少し広い範囲という記述も見かけますが、未確認。
 オート(上)-ブルゴーニュ王国 (Haute-Bourgogne/ Upper Burgundy) は、後年のいわゆるワインのブルゴーニュ地方 (行政区画としては~2016年) というよりは、その東側の地域と現在のスイスの西半分周辺あたりで、かつて一瞬存在した中部フランク王国 (Middle Francia, 843~855) の真ん中あたりにゆるく該当する地域。
 ※当時の「ブルゴーニュ」はかなり広く、888年頃は後のブルゴーニュ地方周辺の「ブルゴーニュ公国 (Duchy of Burgundy)」、上記の「オート(上)ブルゴーニュ王国」、その下の「プロヴァンス王国 ("下"ブルゴーニュ王国) (Kingdom of Provence/Lower Burgandy) の3本立て+α で、地中海岸までまとめてブルゴーニュだった。っぽい。

▼9世紀後半のブルゴーニュの雑な勢力図。 参照元/Based on: Wikimedia Commons, by Marco Zanoli

画像53

・ウード (Oda/ Odo) が西部:パリ包囲戦で頑張ったパリ伯ウードが、西フランク国王 (フランス) に。西フランク王国と言っても、南部のアキテーヌ公国の主張がすごいので、北部のヌーストリー部分のみ (Neustrie/ Neustria, ニューストリア) だったっぽいですが、未確認。
ベレンガー (Berenger/ Beorngar):イタリア王 ベレンガーリオ 1世 (Berengar I of Italy / Berengario del Friuli)。フリウーリのベレンガーリオ。母方の曽祖父がシャルルマーニュ。
 ※地元 (担当地域) はフリウーリの国境地帯 (March of Fliuri)。辺境伯 (Margrave/ Markgraf)。なおフリウーリ (イタリアの東端あたり) はアルナルフのカリンシアと隣接する。
・ウィサ (Witha/ Wiþa ):スポレト公グィド (Guy III of Spoleto/ Guido II/ Wido II)。※数え方により グィド2世 またはグィド3世。父方の祖母 (Adelaide of Lombardy) がシャルルマーニュの孫娘。
「スポレト公 (Duke of Spoleto)」は、イタリア中部の地域の統治者。(※教皇領を除く。当時の教皇領は今の州 (Rigione) 2つ分くらいはあった)
 グィドは 887~888年の時点ではオードにフランス王の座、ベレンガーリオにイタリア王の座を競り負け、特に「王」にはなってませんが、後ろの文にあるように、ベレンガーリオとゴタゴタし、899年に「イタリア王」を奪取したようです。
・ロンバルディアの地域 (Lombardy territory):「イタリア王国 (Kingdom of Italy)」( 神聖ローマ帝国時代) 。当時はイタリアの北半分。当時の首都はパヴィア。8世紀にシャルルマーニュが ロンゴバルド王国 (Kingdom of Lombards /Regno longobardo) を征服し統合。817年頃に「イタリア王国」になったらしい。
・山側の地域 (Cisalpine territory/ þæm londum on þa healfe muntes):イタリア北部。「アルプス山脈のこちら (イタリア) 側/南側の地域」の意。
 「ロンバルディア (イタリア王国)」と「山側」がカブってる気がしますので、「ロンバルディア+山の南側の地域(=まとめて北イタリア)」と解釈してもよさそうですが、原文は「⁊ Beorngar ⁊ Wiþa to Longbeardna londe, ⁊ to þæm londum on þa healfe muntes (英: Beorngar and Witha to the land of the Lombards and to the lands on that side of the mountain) 」とわざわざ分けて書いてあり、よく判りませんでした。ヨーロッパ、複雑すぎる。

・彼等: ベレンガーリオとグィド (+アルナルフ) でイタリアの覇権争い
<時系列>
 887年 11月~、ベレンガーリオがイタリア王に。グィドは西フランク王になり損ねる (無冠)。
 888年夏、グィドが兵を集めてベレンガーリオのイタリア王の座を狙う。
 888年秋、ブレシア (Brescia) で両陣が戦い、ベレンガーリオ辛勝。889年 1月まで有効な停戦協定を結ぶ。
 888年秋~冬、アルナルフがイタリア侵攻を企て、フリウーリ国境 (ベレンガーリオの地元) に進軍したが、話し合いでベレンガーリオがイタリアをキープ。(※アルナルフの地元カリンシアとフリウーリは隣接。)
 888年1~2月、停戦協定が期限切れになり、トレッビア川 (Trebbia) のどこかで交戦。グィドが勝利し、「イタリア王」と名乗る。ベレンガーリオはフリウーリに追いやられるが、イタリア王の立場は連立的にキープ (?)
 891年、グィドが「ローマ皇帝 (イタリア部分の皇帝?) 」を戴冠。「イタリア王」は息子のランベルトに。
(以下略)

・州公エセルヘルム (Ethelhelm/ Æþelhelm):ウィルトシャー州公。アルフレッドの兄王エセルレッドの長男と同名ですが、同一人物か別人かで議論があるようです。(父系の王族の男子が ealdorman にはならないだろう、云々。)
進物 (alms):883年の項にもありましたが、上納金/税金代わりの意味合いも。(それ用のコインも作ったらしい) 


**********************************

A.D. 888* (姉エセルスウィス、大司教エセルレッド、州公エセルウォルドの死)

この年、州公ベオッカ* が、ウェスト・サクソン民とアルフレッド王の進物をローマへ運んだ。しかし、アルフレッド王の姉の女王エセルスウィス*亡くなった*。彼女の亡骸はパヴィア* に埋葬されている。

同年、カンタベリー大司教エセルレッド*州公エセルウォルド* も、ひと月の間に死去した。

A.D. 888. This year Alderman Beeke conducted the alms of the West-Saxons and of King Alfred to Rome; but Queen Ethelswith, who was the sister of King Alfred, died on the way to Rome; and her body lies at Pavia. The same year also Ethered, Archbishop of Canterbury and Alderman Ethelwold, died in one month.

<*訳注>
・888年: 889年 (B本)。
・州公ベオッカ (Beeke/ Beocca):英訳では Beeke (ビーキ) になっていますが、古英語原文は ベオッカ。ドラマ「ラスト・キングダム」の僧侶 ベオッカと同じ。ベオッカあるいは同様の名前はアルフレッド王および息子エドワードの時代の資料に何回か出てくるようです。(同一人物かどうかは不明。)
<余談>
サリー (現在のロンドン郊外) のチャーツィー修道院 (Chertsey Abbey、現在は) にベオッカという修道院長 (Abbot) がいて、871年頃にヴァイキングの襲撃に遭って殺された記録があるらしいです (William of Malmesbury)。A.D. 870年のレディング到来のあたり。参考:チャーツィー博物館のページ (英語)。

▼「ラスト・キングダム」のベオッカの名言集。

女王エセルスウィス (Ethelswith/ Æþelswiþ):アルフレッドの姉。マーシア王バーグレッドと結婚しマーシア女王となった (853年の項)が、デイン勢のマーシア侵攻により (恐らく) 夫と共にローマに疎開。バーグレッドはローマで亡くなり、サクソン県人会館内の教会に埋葬された (874年の項参照)が、エセルスウィスの動向は不明。下記参照。
亡くなった (forþferde):上記の英訳文は「ローマへの道中の途上で亡くなった」となっていますが、A本、B本の原文は「世を去った」のみ。
 そもそもバーグレッドと一緒にローマに行ったのか、それとも一旦実家のウェセックスに帰ってきていたのか謎 (未確認) ですが、ローマかパヴィア (下記) に疎開したままだったのかも知れませんし、ベオッカに同行して体調を崩して亡くなったのかも知れません。RIP。
・パヴィア (Pavia/ Pauie):当時のイタリア王国 (旧ロンバルディア王国) の首都。イングランド民がローマへ行く途中にいつも立ち寄るので、コネがあるのかも。
 アッサーのアルフレッド王の伝記 (Life of King Alfred, 14, 15節)には、かつてのウェセックス「女王」イードバーガ (マーシア王オッファの娘) が夫を誤って毒殺した後 (800年の項)、国を追われてフランク王国に逃れ、最後はパヴィアで乞食をして死んだ、というゴシップが書かれています。

▼エセルスウィスの名前が裏側に掘られた指輪。1870年にヨークシャーで見つかった。大英博物館。

カンタベリー大司教エセルレッド (Ethered/ Æþelred):870年の項で就任している大司教。ここでも時々「エセレッド」と誤記されていますが、エセルレッド。アルフレッドの兄王や義理の息子と同じ名前。
・州公エセルウォルド (Ethelwold/ Aþelwold ):この人もアルフレッド王の甥 (兄王エセルレッドの息子) と同名ですが、別人。紛らわしさの極み。

**********************************

A.D. 889* (ローマへ手紙を送るアルフレッド)

この年、アルフレッド王が手紙を持たせた 2人の使者を送ったのを除いて、ローマへの旅は無かった。

A.D. 889. This year there was no journey to Rome; except that
King Alfred sent two messengers with letters.

<*訳注>
・889年: 890年 (B本)。短い訳注!

**********************************

A.D. 890* (グスルムの死)

この年、修道院長 バーンヘルム* が、ウェスト・サクソン民とアルフレッド王の進物をローマへ運んだ。

そして、北方民*の王であるグスルム*、洗礼名アセルスタンが、世を去った。彼はアルフレッド王のゴッドサン (代子)* であった。彼は、初めての定住地であるイースト・アングリアの民と共生した。

また同年、異教徒軍がセーヌから*ブレトン人* とフランク人の [地域の] 間のサン-ロー* に進んだ。ブレトン人はこれと戦って勝利し*、彼等を川へと追い立てたため、多くが溺れ死んだ。

また同年、プレグムンド* が、神とその諸聖人により、カンタベリー大司教に選ばれた。

A.D. 890. This year Abbot Bernhelm conducted the alms of the West-Saxons and of King Alfred to Rome; and Guthrum, king of the Northern men, departed this life, whose baptismal name was Athelstan. He was the godson of King Alfred; and he abode among the East-Angles, where he first established a settlement. The same year also went the army from the Seine to Saint Lo, which is between the Bretons and the Franks; where the Bretons fought with them, obtained the victory, and drove them out into a river, in which many of them were drowned. This year also was Plegmund chosen by God and all his saints to the archbishopric in Canterbury.

<*訳注>
・890年: 891年 (B本)。
・修道院長バーンヘルム (abbot Bernhelm/ Beornhelm):詳細未確認。実際の発音はベョルンヘルムとかでしょうか。

北方民 (Northern men/ norþerna):表現が柔らかくなっております。今までは「異教徒民 (heathen/hæþen men)」、「海賊/ヴァイキング (viking/ wicing)」「デイン (Dane/ Deniscan)」など。
 ※ B本の787年に「Norðmanna」がありますが、A本には無いぽい。
・グスルム (Guthorm): 880年参照。イーストアングリア (デインロウ) 王となり、約10年間統治したようです。RIP。
ゴッドサン (god son/ godsunu):878年参照。アルフレッドが洗礼の後見人=ゴッドファーザー (god father) 。となった。
 <余談:「god parents/children」訳語についてメモ>
 日本のカトリックでは "god son/daughter (children)" を「代子」、"god father/ mother (parents)" を「代父/母」と訳すようですが、宗派により色々ありそうなので、敢えてカタカナ語にさせていただきました。「名付け親/子」も、当時のイングランドでの慣習が未確認ですので、避けました。

・セーヌから:セーヌから一旦海に出て、ヴィエ川をサン-ローまで遡上したっぽい。後述 (下記)。
ブレトン人 (の地域) (Bretons/ Brettum):フランク王国下のブルターニュ王国 (Kingdom of Brittany/Bretagne, 851~939)。ブレトン人はイングランドのブリトン人 (Britons) と同じルーツ。 かつて「アルモリカ」と呼ばれていた場所 (序文 1 訳注参照)。
 885年にシャルル肥満王が東西フランク王国の王となった際にも「ブルターニュを除いて」とある (885年参照)。
・サン-ロー (Saint Lo, Saint-Lô/ Sant Laudan, Sandloðan):マンシェ県 (有名なモンサンミッシェルがあるらしい) =クトンタン半島 (Cotentin) の根元あたり、内陸部にある村。ヴィエ川 (Vire) で海と繋がる。
 現在はノルマンディ地域にありますが、当時はブルターニュ領内で、867年にシャルル禿頭王がブレトン側に譲ったクトンタン半島エリアの、境界線あたりだったっぽい。
戦って勝利し:ブレトン人(サン-ロー市民)が勝ったように書かれていますが、サン-ロー村サイト (フランス語) の歴史によると、「889年にヴァイキングがヴィエ川を遡上してサン-ローを包囲した。100年前にシャルルマーニュが (多分) 作った強固な土塁に守られていたので、街は降伏しなかったが、
その後、敵勢が給水源を断った為、住民は降伏を余儀なくされた。ヴァイキングは住民を (クタンスの司教を含め) 虐殺し、街を破壊し尽くした」とあります。この 890年の項の襲撃とは別の回かも知れませんが、参考まで。

・プレグムンド (Plegmund/Plegemund):マーシアのチェシャ地域、プレムストール (Plemstall) 出身と言われる。教区を再編したり、教皇大グレゴリウス1世の「牧会規定 (Pastoral Care)」などの宗教関係の文書をラテン語から古英語に翻訳する作業に携わったりした。
<余談>
「牧会規定」
の翻訳本にアルフレッド王が付けた序文が、ゲーム「アサシンズ・クリード:ヴァルハラ」の予告に使われていた、というnote 記事も書きました。

▼アルフレッド王が「翻訳した」(※プレグムンドのような有識者の協力の許に) 「Pastoral Care」の、前文の部分。ボードリアン図書館蔵。
※大英図書館ブログの記事 (英語) ですが、”View Images from this item” から画像が見れます。

 **********************************

A.D. 891* (ルーヴェンの戦い、スコットランドの3人の巡礼者、スウィフナ先生の死、コメットさん)

この年、異教徒軍は東に向かった。アルナルフ王は、東フランク勢、サクソン勢*バイエルン勢* と連携して、[異教徒軍の] 船が到着する前に、その騎馬勢* と戦い、彼らを撤退させた*

また、アルフレッド王の許に、3人のスコットランド人が、櫓の無い船*アイルランド*からやって来た。というのも、彼等は、神への愛に準じて巡礼者*として生きることを望んで、そこ [アイルランド] からひそかに出国してきた上、[行き先は]どこであろうと構わなかったからである。
彼等が乗ってきた船は、2枚半の獣皮* で出来ており、7日間分の蓄えを携えていた。そしておおよそ 7日目に、コーンウォールに上陸し、その後すぐにアルフレッド王の許に向かった。
彼等の名は、ダブスレイン、マクベス、マエリンマン* と言った。

また、スコットランド人の中で最高の教師であったスウィフナ* が世を去った。

同年のイースターの後、ギャング・デイ* の頃またはその前に、書き言葉 [ラテン語]* の[わかる] 者達が「コメータ (cometa)*」と呼ぶ星が現れた。人によってはこれは「髪の毛の星」だ、と言い、何故なら、長い光の流れが、ある時は片側に、またある時は両側に、現れるからだった。

A.D. 891. This year went the army eastward; and King Arnulf fought with the land-force, ere the ships arrived, in conjunction with the eastern Franks, and Saxons, and Bavarians, and put them to flight. And three Scots came to King Alfred in a boat without any oars from Ireland; whence they stole away, because they would live in a state of pilgrimage, for the love of God, they recked not where. The boat in which they came was made of two hides and a half; and they took with them provisions for seven nights; and within seven nights they came to land in Cornwall, and soon after went to King Alfred. They were thus named: Dubslane, and Macbeth, and Maelinmun. And Swinney, the best teacher that was among the Scots, departed this life. And the same year after Easter, about the gang-days or before, appeared the star that men in book-Latin call "cometa": some men say that in English it may be termed "hairy star"; for that there standeth off from it a long gleam of light, whilom on one side, whilom on each.

<*訳注>
・891年: 892年 (B本)。※最後の彗星の記述は 892年の場合も。
・サクソン勢 (Saxons/ Seaxum):大陸側のザクセン人。トップはザクセン公オットー1世 (Otto I, Duke of Saxony)。880年 (訳注) にヴァイキング軍と戦って溺死したブルン (Brun) の弟。
バイエルン勢 (Bavarians/ Bayerns/ Bægerum):アルナルフが統治中。
騎馬勢 (ræde here):上記の英訳文は「land-force」(陸上部隊) ですが、原文が "ræde" (mounted [on hourse] ) とありますので、騎馬としました。
※here=army。ASCのこのあたりの記載では主にヴァイキング軍の意。
彼らを撤退させた:「ルーヴェンの戦い (Battle of Leuven)」。ルーヴェンは現在のベルギー、ブリュッセルの東 25kmくらいにある街。戦いで街を流れるディル川 (River Dyle, ディレ川)が血に染まり、「ディルの戦い (Battle of Dyle)」とも。
 ヴァイキング側のリーダー、シグフレッドゴドフリッドが戦死したようです。882年の訳注と同じペアか。
<メモ>
シグフレッド/ジークフリード (Sigfrid/ Sigfred/ Siegfried, etc) はよくある名前で、シグルド (Sigurd, etc) ともチャンポンになりやすいので、どのシグフリッドなのか不明
ゴドフリッドと同名のフリースランド公ゴドフリッド (Godfrid, Duke of Frisia)は 885年に死亡済み。

櫓 (オール) の無い船:または「漕ぎ手のいない船」。
・アイルランド (Ireland/ Hibernia):原文は「ヒベルニア」。
巡礼者として (elþiodignesse):国を離れて放浪する。<主に巡礼、宗教上の義務、国外追放、亡命などにより。[Bosworth Toller 辞書]
・2枚半の獣皮* (þriddan healfre hyde):「Hyde (hide)」は現在はカットする前の処理済みの 1頭分の皮革のようですが、当時のレザー (leþer) との区別がよくわからないので、「獣皮」としました。
 「þridde」は "third" [3番目, 1/3]、「healf」は "half" で、何故これが「3枚半」ではなく「2枚半」になるのが謎ですが、3枚目の半分、つまり2枚半?(雑感)
ダブスレイン、マクベス、マエリンマン (Dubslane, Maccbethu, Maelinmun):ASCではこれ以上の事は不明ですが、100年ほど後の歴史家、エセルウォード (Ethelward/ Æthelweard, アセルウェアード, etc) の「クロニクル※」によると、3人はこの後ローマに行き、そこから更にエルサレムへの巡礼を計画していたようです。
 ところが、ダブスレインはすぐに (ローマへの途上か、ローマで? 891年頃) に死んでしまい、マエリンマンは故郷に帰り (?returned home)、マクベス (Macbeth)は「ダブスレインの聖遺物」をどうにかしたようですが、このあたりの原典は未確認です。(参照元:PASE Dubslane, Maccbethu, Maelinmun
 ※「エセルウォードのクロニクル (Chronicon Æthelweardi)」:アルフレッド王の次男ではなく、兄王エセルレッドの子孫 (自称) で、セイン (thegn/thane) または州公。975~983年頃に「アングロサクソン・クロニクル」をラテン語に翻訳 (編訳) した。100年後のせいか、あるいは当時は他の資料が豊富だったのか不明ですが、古英語版のASCには書かれてない事もあれこれ盛られている。ラテン語も独特らしい。
北米アマゾンKindle版ですが、英語版「Ethelwerd's Chronicle

・スウィフナ (Swinny/ Swifneh, Suibhne, etc.):アイルランド中部の オファリー郡 (Offaly) にある Clonmacnoise 僧院 (monestery) の僧/書記か。
「スコットランド人 (Scotts)」とありますが、Suibhne」はアイルランド人の名前らしい。 (当時は「スコットランド/アイルランド人」の定義が今と異なる。
<メモ>Suibne, son of Maclume (Annals of Ulster, Annales Cambriae)
現在の発音はスウィブナー等。上記の英訳にある名前「Swinny」はイングランド語っぽくした名前。(発音しづらいので)

・ギャング・デイ (gang-days/ gang dagas):Rogation days。キリスト昇天祭/Ascension Day (聖木曜日 Holy Thursday) の前の 3日間 (月、火、水曜日)。
・書き言葉 [ラテン語] (Latin/ boclæden):書物の言語、つまりラテン語。話し言葉は古英語。
・コメータ (cometa):彗星。アングロサクソン時代には合計 11回くらい彗星が観察されており、9回は縁起の悪い出来事に付随しているようですが (参考記事、英語)、今回は平和でした。

**********************************

A.D. 892/893* (大ヴァイキング軍のケント再来、テムズ河口キャンプ)

この年、前述の大[異教徒]軍* が、東の地域から戻って再び西に向かい、ブローニュ* まで行った。そこから、馬やすべて* をまとめて一気に渡航できるように、船に積んだ。
そして250隻の船で、アンドレッド* と呼ばれる広大な森の東端に位置する、東ケントのリム川の河口* に到来した。
この森 [アンドレッド] は、東西の長さ 120マイルまたはそれ以上あり、幅は 30マイルに渡っている。前述の [リム] 川は、この森林地帯から流れて出ている。
彼等は、この川に沿って、河口の港からはるばる森林地帯 [アンドレッド] まで、4マイルほど船を漕いで* いった。そして、湿原* の中にあった砦を襲撃* したが、その [砦の] 中には数人の平民が常駐しており、急いで作った[作りかけの] ものだった。

この出来事のあと間もなく、ハスタイン* が 80隻の船を率いてテムズ河口に現れ、ミルトン* に砦を築いた。また、別の [リム川の方の異教徒] 軍も、アップルドア* に同様の砦を築いた。

A.D. 893. This year went the large army, that we before spoke about, back from the eastern district westward to Bologne; and there were shipped; so that they transported themselves over at one time with their horses withal. And they came up with two hundred and fifty ships into the mouth of the Limne, which is in East-Kent, at the east end of the vast wood that we call Andred. This wood is in length, east and west, one hundred and twenty miles, or longer, and thirty miles broad. The river that we before spoke about lieth out of the weald. On this river they towed up their ships as far as the weald, four miles from the mouth outwards; and there destroyed a fort within the fen, whereon sat a few churls, and which was hastily wrought. Soon after this came Hasten up with eighty ships into the mouth of the Thames, and wrought him there a work at Milton, and the other army at Appledore.

<*訳注>※この訳注は古英語原文とあまり照らし合わせていません。
・892/893年: 892年 (A, E本)、893年 (B本)。上記に引用している近代英訳 (Ingram) は「892年」がなく893年になっていますが、Giles版 (1914) では彗星エピソードを「892年」とし、本節を893年にしています。
 A, B, C本は、892年まではほぼ同じ内容らしいです。

大[異教徒]軍 (micla here):891年に東に向かいアルナルフと戦ったグループ。
<メモ:「軍」の訳語について、再度
当方の和訳では説明のため「異教徒軍」と補足訳していますが、原文は基本的に「軍 (the army/ here)」で、たまに「大軍 (great army/ micel (micla) here)」や「異教徒軍 (heathen army/ hæþen here) などになっています。
 この「here (army)」は、ASCの (少なくとも) 9世紀後半部分では、基本的にヴァイキング側の「略奪する者達のグループ」として使われ、アングロサクソン側は招集された自由農民の「民兵軍 (fyrd, フョード/ファード/フィルド/フュルド)」が多いのですが、たまに王の正規軍 (職業軍人集団) らしき部分に「here」が使われていたり、民兵と区別が出来ない (訳者が未確認) 場合もありましたので、便宜的に「異教徒軍」とさせていただいています。

ブローニュ (Bologne/ Bunann):現在のブローニュ-シュル-メール (Boulogne-sur-Mer)。ドーバー海峡に面した、ローマ帝国時代からある街。カレー (Calais) の南東 30kmくらい。(884年の地図参照)
馬やすべて:家族 (妻・子) や家財などすべて。
アンドレッド (Andred):現在「The Weald (ウィールド)」と呼ばれている、ウィンチェスターあたりからケントまで広がっていた広大な森林地帯 (weald)。755年参照。
 後述の「東西120マイル、南北30マイル」=190km x 50kmは、当時のマイル尺度は現在と異なると思いますが、まあまあサイズ感的に合っているようです。ローマ人が測量したデータが残っているのでは。(アングロサクソンの測量技術を馬鹿にしすぎ)

リム川の河口(mouth of Limne/ Limene):[Rev.4 追記] ドーヴァーの西にある、現在のリム村 (Lympne) のあたり。現在は少し海岸から離れていますが、かつてはリム川で海と繋がっており、リム村の南の Stutfall Castleという城址にローマ時代の港 (Portus Lemanis) の痕跡があるようです。当時既に Limenwaraと呼ばれるアングロサクソン人が住んでいた。近隣には Hythe (船着き場) という地名なども見受けられます。
 リム川自体は現在は消失しており、西の「アンドレッドの森 (The Weald)」部分を流れている現在の ロザー川 (River Rother)が、言及されている「森林 (weald) から流れ出る」上流部分だったようです。
 なお、かつてはアップルドア (後述) と「ロザー川」の間は入り江 (三角江) だったようで、リム川とロザー川は一旦途切れてますが、どちらも「リム川 (Limanis)」だったっぽいです。
<余談>リム村から Rother 川の河口近くまで、現在も「Royal Military Canal」という運河で繋がっていますが、これは19世紀のもの。

船を漕いで (tow up, pull up, row/ tugon):[2020/12/05 修正] 「船を引っ張って」と訳していましたが、「漕いで」に変更しました。
<言い訳>古英語原文の「tugon (teón)」の訳語は draw, pull up 等がメインで、「漕ぐ」「船で進む」等に意訳してもよかったのですが、他の箇所のような「船で行く」ではなく敢えてこの語 (teón)を使っているため、また、リム川はよく土砂で詰まっていたらしい、という記述を見かけたのにも引っ張られ、漕げるほどの水深が無かったのか、ヴァイキング側の船が大きすぎたのか...などと邪推したせいで、「引っ張る」を採用。
 が、単に「漕ぐ (row)」の訳語を見落としていたのに気づいたので、「漕ぐ」にしました。
 とは言え、かつて (ローマ時代?) は外海側からアップルドアまで船で直接入れたっぽい?のに、わざわざリム川を遡上したのは、地図/知識が古いのか、アップルドア側の水道(ロムニー湿原あたりの三角江)もすでに埋まっていたのか、気になります。
・湿原 (fen/ fenne):低層湿原 (フェン)。現在も Royal Military Canal と海岸線の間あたりが「ロムニー湿原 (Romney Marsh)」として残っていますので、このあたりの事かと。(当時とは恐らく範囲が異なりますが。)

ハスタイン (Hasten/ Hæsten/ Hásteinn, etc):
ヴァイキングのリーダー。ハスティン、ハスタン、ハステン etc。ラグナル・ロスブロックの息子 (と言われる) ビョルン・アイアンサイドと一緒にフランス、スペイン、地中海のあたりでブイブイ言わせていた (死語)らしい。ただしこのハスタインは834年~頃から活動していた説もあり、892年にはかなり高齢なので、同名の別人か、ASCを書いた人がとりあえず「有名なヴァイキングに襲われた~!」みたいな感じで適当に書いた可能性も。未確認。
<余談>!注意!ドラマ「ヴァイキング」ネタバレ
ドラマ「ヴァイキング~海の覇者たち~」のシーズン3の最後 2話 (E9, 10) の、ラグナルの洗礼と埋葬の元ネタは、ハスタインだそうです。ただし都市はパリではなく Luna (現在のイタリアのLuni )で、ハスタイン達はローマと間違えて襲ったらしい。また、この逸話の出典元 Dudo of Saint Quentin著「Historia Normannorum (ノルマンの歴史)」は 100年後くらいに書かれたもので、大元ネタは不明。

▼ドラマ「ヴァイキング」S3 E9、ラグナルの洗礼シーン。

・ミルトン (Milton/ Middeltune):[Rev.4 修正] シェピー島の西のミルトン・レジス (Milton Regis)。シェピー島との海峡 (The Swale) から 2km程度、内陸に入っていますが、ローマ時代からある入り江 (Milton Creek) に面した「港町」だったようです。
 (「テムズ河口に来た」とあるのでテムズ下流の街 グレイヴゼンド (Gravesend) にあるミルトン (Milton-next-Gravesend) かと思いましたが、「テムズ河口地域」のミルトン・レジスでした。)
エセルウォード版クロニクル (891年訳注参照) では、ハスタイン達はこのミルトンで「一冬を越した」とあります。

アップルドア (Appledore/ Apuldre):リム川河口 (リム村) から約 20km西の村。ローマ時代からあり、昔はロザー川 (リム川の上流部) の三角江の河口にあった港町。13世紀に大嵐でロザー川の流域が変わってしまったため、港町ではなくなった。現在はリム村から流れる「Royal Military Canal」沿いにある。
 なお、エセルウォード版クロニクルでは、この前に襲撃した「湿原の中の砦」をアップルドアとして、『古い城 (砦?) を (ヴァイキングが) 破壊した』となっていますが、アップルドアは古い街で「作りかけ/急ごしらえ」ではないので、整合しない気が。
<余談>このアップルドアがアーサー王のアヴァロン(で、アーサー王が築いた砦があった)という説があったので、。どこにでも出てくるアーサー王。ご参考までにリンク (英語)。どこにでも出てくるアーサー王。

▼この892/893年の位置関係。地形はローマ時代の地図 A.D. 500年頃のこちらこちらなどをベースにしていますが、かなり雑ですので信用しないでください。

画像12

**********************************

A.D. 893/894* (1/2: サクソンvsヴァイキング総当たり戦)

この年、彼等が東の王国に砦を構えてから*  約 12か月後、ノーサンブリア民とイースト・アングリア民 [=デインロウ民*] がアルフレッド王に誓いを立て、イースト・アングリア民は 6人の人質を差し出した。
にもかかわらず彼等 [デインロウ民] は、固い誓約に反して、他の[異教徒]軍勢* が頻繁に総勢で [攻撃/略奪に] 繰り出す* のに倣って、[他の異教徒軍と] 一緒に、または自分達の別部隊で、繰り出した。

これを見てアルフレッド王は、自軍* を招集して進軍し、両方の[異教徒]軍の中間かつ、出来るだけ森の砦と川の砦*の近くに野営地* を定め、もし彼等 [異教徒勢] のいずれかが開けた場所* に出てきた場合に、どちらにも対応できるように備えた。
すると彼等 [異教徒勢] は、森林地帯*少人数のグループ* で入り込み、その時々で、兵力が配置されていない [防御されていない] 森の境界部分* を狙うようになった。

また、彼等 [異教徒軍] は、他の集団*、すなわち [ウェセックス] の民兵軍、あるいは城塞の者達* からも、ほぼ毎日、あるいは夜も、探索されていた。 
[アルフレッド]王兵力を二手に分割し*、半分は常に地元の村*に置き、半分は野戦*に割り当てた。各城塞都市を常に防御する任務の者達は、これに含まれていない。

[異教徒] 軍は、彼等の拠点から2回以上、全員総出で出てくることはなかった。まず、最初にこの地に到着した時で、[アルフレッド王の] 軍が編成される前。もう1回は、彼等の拠点から出ていく時。[つまり] 充分な略奪品を集め終えたら、その時には、テムズ川を越えて北に行き、エセックスの彼等の船に向かう* のだった。

しかし [エドワードが率いる (?) 民兵] 軍* が馬を駆って彼等 [異教徒軍] に先んじ、ファーナム*で彼等と戦い、異教徒軍を敗走させ、略奪品を取り返した。
彼等 [異教徒軍] は、浅瀬のないテムズ川を越えて*逃げ去り、その後、コウン川*小島 [中州?]*まで移動した。

ここ [小島/中州] で 民兵軍* が彼等 [異教徒軍] を包囲し、食糧の続く限り粘った。しかし彼等 [民兵軍] には兵役期間があり、食糧も底を尽いてきた*
そこで[アルフレッド]王は、直属の部隊を率いて*、彼方 [包囲戦の現場] に向けて進軍した。

彼 [ア王] がそちらに向けてに進軍している間、もう一方の [エドワードの] 民兵軍は帰還の途*に就いていた。しかしデイン勢は、彼等の王* が戦いで怪我を負っており、彼を移動させられなかったため、居残ったままだった。

すると、ノーサンブリア民*とイーストアングリア民と共に居住していた者達 [デインロウ民] が船を集め、約100隻* の船で南回り、約40隻の船で北回りで移動し、[北回り勢は] デヴォンシャーの北海側にある砦* を包囲し、南回りで行った者達はエクセター* を包囲した。
[アルフレッド] 王はこれを聞くと、全軍* を率いて、エクセターに向けて西進した。ただし、ごく一部の兵力*東に向かわせた。
彼等 [東進軍] はロンドンまで行き、そこで[ロンドン] 市民および西からの応援部隊と合流して、東のベンフリート* に向かった。
そこには、以前ミルトンにいたハスタインとその仲間達が来ていた*。また、リム河口のアップルドアに居座っていた者達* もここに来ていた。

ベンフリートの砦* はこれより前にハスタインが築いたもので、その後 ハスタインは略奪に出て行ったが、[リム川の] 大 [異教徒] 軍が街に居座っていた。
そこに彼等 [ロンドン経由のサクソン軍] がやって来て、[異教徒] 軍を追い払い、砦を破壊し、その中にあったすべての物を獲得し、財産、女達、および子供達*も捉えて、すべてをロンドンに持ち帰った。また、[異教徒勢の] 船はすべて、粉々に破壊するか焼き払い*、あるいはロンドンまたはロチェスター* に持っていった。

また彼ら [東征軍] は、ハスタインの妻と2人の息子を [アルフレッド] 王の御前に連れて行ったが、彼 [王] は彼等を彼 [ハスタイン] の元に帰した。というのも、彼等 [ハスタインの2人の息子] のうちの一人は彼 [ア王] のゴッドサン* であり、もう一人は州公エセルレッド* の [ゴッドサン] だったからである。
[訳注:以下、過去シーン]
彼等 [ア王とエセルレッド公] は、ハスタインがベンフリートに来る前に、彼等 [ハスタインの息子達] を [ゴッドサンとして] 受け入れていた。彼 [ハスタイン] は彼 [ア王] に人質を差し出して [停戦の] 宣誓を行い、また、王も彼 [ハスタイン]に多くの金銭を与えた。また、彼 [ア王] が子供と妻を [ハスタインに] 返した時* にも、同様に [金銭の支払いを] した。

しかし彼等 [ハスタイン勢] がベンフリートに来て砦を築くと、彼 [ハスタイン] はたちまち彼 [ア王] の王国の、彼の [息子の] ゴッドファーザー* であるエセルレッドが統治する地域* の略奪を行った。
[訳注:過去シーン終わり]
そして再度、彼の [ベンフリートの] 砦が破壊された際にも、彼 [ハスタイン] は同じ王国 [支配地域] を略奪中だった*。[2/2へつづく]

[訳注:893/4年は長いので2分割しました。下記引用英文の後の 2/2へつづく。※訳注は2/2の後にまとめてあります]

A.D. 894. This year, that was about twelve months after they had wrought a work in the eastern district, the Northumbrians and East-Angles had given oaths to King Alfred, and the East-Angles six hostages; nevertheless, contrary to the truce, as oft as the other plunderers went out with all their army, then went they also, either with them, or in a separate division. Upon this King Alfred gathered his army, and advanced, so that he encamped between the two armies at the highest point he could find defended by wood and by water, that he might reach either, if they would seek any field. Then went they forth in quest of the wealds, in troops and companies, wheresoever the country was defenceless. But they were also sought after most days by other companies, either by day or by night, both from the army and also from the towns. The king had divided his army into two parts; so that they were always half at home, half out; besides the men that should maintain the towns. The army came not all out of their stations more than twice; once, when they first came to land, ere the forces were collected, and again, when they wished to depart from their stations. They had now seized much booty, and would ferry it northward over Thames into Essex, to meet their ships. But the army rode before them, fought with them at Farnham, routed their forces, and there arrested the booty. And they flew over Thames without any ford, then up by the Colne on an island. Then the king's forces beset them without as long as they had food; but they had their time set, and their meat noted. And the king was advancing thitherwards on his march with the division that accompanied him. But while he was advancing thitherwards, the other force was returning homewards. The Danes, however, still remained behind; for their king was wounded in the fight, so that they could not carry him. Then collected together those that dwell in Northumbria and East-Anglia about a hundred ships, and went south about; and with some forty more went north about, and besieged a fort in Devonshire by the north sea; and those who went south about beset Exeter. When the king heard that, then went he west towards Exeter with all his force, except a very considerable part of the eastern army, who advanced till they came to London; and there being joined by the citizens and the reinforcements that came from the west, they went east to Barnfleet. Hasten was there with his gang, who before were stationed at Milton, and also the main army had come thither, that sat before in the mouth of the Limne at Appledore. Hasten had formerly constructed that work at Barnfleet, and was then gone out on plunder, the main army being at home. Then came the king's troops, and routed the enemy, broke down the work, took all that was therein money, women, and children and brought all to London. And all the ships they either broke to pieces, or burned, or brought to London or to Rochester. And Hasten's wife and her two sons they brought to the king, who returned them to him, because one of them was his godson, and the other Alderman Ethered's. They had adopted them ere Hasten came to Bamfleet; when he had given them hostages and oaths, and the king had also given him many presents; as he did also then, when he returned the child and the wife. And as soon as they came to Bamfleet, and the work was built, then plundered he in the same quarter of his kingdom that Ethered his compeer should have held; and at another time he was plundering in the same district when his work was destroyed. 

A.D. 893/894 (2/2: サクソンvsヴァイキング総当たり戦)

[893/894 (2/1) の続き]
さて、前述のように、[アルフレッド] 王とその民兵軍は、西に方向転換してエクセターに向かったが、[異教徒軍] がその都市を包囲していた。しかし彼 [ア王] が現地に到着すると、彼等 [異教徒軍] は自分達の船へと戻った*

彼 [ア王] がこのように西部で [異教徒]軍に対応している間、[ハスタイン勢&リム勢の異教徒] 軍の両方がエセックスのシューバリー* に集合し、そこに砦を築いた。その後、[ハスタイン勢&リム勢の] 両軍は揃ってテムズ川に沿って遡上し、イースト・アングリアとノーサンブリア [デインロウ勢] の両方からの大幅な加勢と合流した。
その後、彼等は [更に] テムズ川に沿って、セヴァーン川* に行き当たるまで遡上し、そこからセヴァーン川に沿って遡上した。

これにおいて、州公エセルレッド*州公エセルヘルム*、および州公エセルノス*、および各城塞都市に残って [守備していた] 王のセイン達*が、パレット川* の東、およびセルウッドの森* の東西、ならびにテムズ川の北*、セヴァーン川の西* のすべての街、および北ウェールズの民* の一部から兵力を招集した。

全軍が集合し終わると、彼等はセヴァーン河畔のバッティントン* で [異教徒]軍に後方から追いつき、[異教徒軍のいる] 砦を全面から包囲した。

そして彼等 [サクソン・ブリトン連合軍] が川の両側に陣取り、[アルフレッド] 王が西部のデヴォンで [エクセターの異教徒軍の] 船団軍に対峙して幾週間も過ぎると、彼等 [川の異教徒勢] は食糧不足に苦しめられ、手持ちの馬の大半を食べてしまい、あるいは飢え死にした。

そこで彼等 [異教徒軍] は [セヴァーン] 川の東岸に野営している者達の方へ向かって行き、彼等[サクソン勢] と戦った。そしてクリスチャン勢が勝利したが、王のセインのオードヒア* が討ち死にし、また、王の他のセイン達の多くも討ち取られた。そしてデイン勢側の死者は多大なものとなり*、これを逃がれた集団は、敗走したために命が助かったのである。 

彼等 [敗走した異教徒勢] は、エセックスの彼等の砦と船* に辿り着くと、生存者達 [同] はふたたび、冬が来る前に、イーストアングリアとノーサンブリア [のデインロウ民] から集めて大 [異教徒] 軍を結成した。
そして彼等の妻達、船、および財産の管理をイーストアングリア勢に委ねると*、昼夜休みなく移動して、チェスター*と呼ばれる、ウィラル [半島] にある放置された [西部の?]* 街に到着した。

[サクソン民兵] 軍は、彼等 [異教徒軍] が城塞/街の中に入る前に追いつく事ができなかった。しかし彼等 [サクソン勢] は城塞を約 2日間包囲し、[街の] 外にいるすべての家畜 [牛] を確保し、城塞の外で追いつけた [異教徒の] 男たちを殺し、周辺の草原のすべての穀物* は、焼き払うか、馬の餌にし尽くした*
これは、彼等 [異教徒軍] が海を越えてやって来てから約12か月後のことであった。

The king then went westward with the army toward Exeter, as I before said, and the army had beset the city; but whilst he was gone they went to their ships. Whilst he was thus busied there with the army, in the west, the marauding parties were both gathered together at Shobury in Essex, and there built a fortress. Then they both went together up by the Thames, and a great concourse joined them, both from the East-Angles and from the Northumbrians. They then advanced upward by the Thames, till they arrived near the Severn. Then they proceeded upward by the Severn. Meanwhile assembled Alderman Ethered, Alderman Ethelm, Alderman Ethelnoth, and the king's thanes, who were employed at home at the works, from every town east of the Parret, as well as west of Selwood, and from the parts east and also north of the Thames and west of the Severn, and also some part of North-Wales. When they were all collected together, they overtook the rear of the enemy at Buttington on the banks of the Severn, and there beset them without on each side in a fortress. When they had sat there many weeks on both sides of the water, and the king meanwhile was in Devonshire westward with the naval force, then were the enemy weighed down with famine. They had devoured the greater part of their horses; and the rest had perished with hunger. Then went they out to the men that sat on the eastern side of the river, and fought with them; but the Christians had the victory. And there Ordhelm, the king's thane, was slain; and also many other king's thanes; and of the Danes there were many slain, and that part of them that came away escaped only by flight. As soon as they came into Essex to their fortress, and to their ships, then gathered the remnant again in East-Anglia and from the Northumbrians a great force before winter, and having committed their wives and their ships and their booty to the East-Angles, they marched on the stretch by day and night, till they arrived at a western city in Wirheal that is called Chester. There the army could not overtake them ere they arrived within the work: they beset the work though, without, some two days, took all the cattle that was thereabout, slew the men whom they could overtake without the work, and all the corn they either burned or consumed with their horses every evening. That was about a twelvemonth since they first came hither over sea.

◆893/894 (1/2) 訳注

<*訳注> ※893/4年は長いので訳注も分割しました。
・893/4年:893年 (A本)、894年 (B本)。B本がA本を追い越して逆転したっぽい。
 なおアッサーがアルフレッド王の伝記を執筆したのが 893年頃。また、アルフレッドの息子エドワード (the Elder/長兄王) がエグウィン (Ecgwynn/ Ecgwynna) と (893年頃に) 結婚して息子アセルスタン (アルフレッドの孫) が産まれたのが 894年頃のようです。アルフレッド (40代半ば) も遂におじいちゃんですよ!! 
・彼等が東の王国に砦を構えてから (þæs þe hie on þæm eastrice geweorc geworht hæfdon):大ヴァイキング軍が (イングランドにUターンしてくる前に) フランク王国に築いた砦。「砦」は、891年にアルナルフと戦って負けて川が血に染まった ルーヴェン (Leuven, 現ベルギー) らしいです。
 <メモ>上記の引用英訳文では "eastern district" (東部地域) となっていますが、原文の「eastrice」は「東の王国/帝国」の意味もあり、いずれにしてもフランク王国。ルーヴェンに砦を作っていた事は ASCの 891年には明確には書かれておらず、記述が飛躍しているので「(東部の王国である) ケント (のミルトンとアップルドア) に砦を築いてから」では、という気もしましたが、このやたらと長い 894年の項の最後に「これ (出来事) は、彼等が最初に海を渡ってきてから約 12か月後のことである」とあるので、時系列的に。
ノーサンブリア民とイースト・アングリア民 [=デインロウ民]:この当時はまだ「デインロウ (Danelaw)」という呼び名が無かったので、毎度毎度「ノーサンブリアとイーストアングリアの者達」と書かれています。
・他の [異教徒] 軍勢 (the other army/ þa oþre hergas):帰って来たヴァイキング軍 (於アップルドア) とハスタイン勢 (於ミルトン)。
総勢で [攻撃/略奪に] 繰り出す(went out/ fōron):レイドの繰り返しか、本格的な総攻撃か、未確認。
自軍 (his army/ his fierd):「アルフレッド (彼) のフョード (fyrd)」、民兵の招集。
森の砦と川の砦:アンドレッドの森 (weald) の砦、アップルドアと、川の横の砦、ミルトン。
・野営地:意訳。”rýmet" (場所)。位置は不明ですが、メドウェイ川 (The Medway) 川沿いで当時の街道の交差点にある街 メイドストン (Maidstone) が提案されているようです。(David Horspool)
開けた場所 (field/ feld):草地。樹木や藪などの少ない場所。

・森林地帯~ (weald):約100年後に書かれたエセルウォード (Aethelweard, 891年訳注参照) のラテン語版のASCでは、「イースターの後に森林地帯 (アンドレッドの森) に沿って西部まで足を伸ばし、少しずつ移動しながらハンプシャーやバークシャーを略奪して進んだ」と補足があり、更に「これを聞きつけたエドワード (アルフレッド王の息子、Edward the Elder/長兄王) がファーナム (後述) で迎え撃った」という流れで、この後のアルフレッドの布陣の記述が無いようです。
少人数のグループ (hloþum ⁊ flocradum):意訳。略奪/侵略者の(大人数ではない) 小隊や集団、あるいは騎馬隊など。<メモ>原文の「hloþum ⁊ flocradum」は単に「bands /troops & flocks (of robbers)」的な繰り返し語で、前者と後者の区別はないかもですが。
森の境界部分 (borders/ efes):森 (と"開けた"場所) の境界部分。どちらかというと森側。

・他の集団:この「他の集団」以降の部分が具体的にを表すのか、代名詞 (彼等) などが多くてわかりづらいのですが、(訳文にあるように) ウェセックス勢のようです。(Swanton版英訳参照)
・城塞の者達 (with of the burg/ eac of þæm burgum):この時点 (893/4年)の「城塞 (街/ 城塞都市/ 城/ 砦)」は、恐らく880年頃 (=878年のエディントンの戦い&グスルムとのウェドモア協定以降) に形成された防衛ネットワークの約30か所の城塞都市 (burhs)。このケント (東部地域) の「城塞」は、ヘイスティングス (Hastings)、ルイス (Lewes)、Eorpeburnan (場所不明だが恐らくケント内) あたりなので、これらの街から人手を出していると思われます。
 これらの城塞都市については、「バーガル・ハイディッジ (Burghal Hidage/”城塞都市のハイド税”)」という文書に、街の名、維持のための年貢 (ハイド税/hidage)、防衛に配置する人数等の詳細が、定められている。現存する文書は、エドワード時代 (the elder) 以降に作成されたもの。

兵力を二手に分割し:この戦闘部隊とベース防衛部隊に分ける戦術は、アマゾン民 (アマゾネス) の戦術として、ローマ帝国の歴史家ユニアヌス (Marcus Junianus Justinus Frontinus、2世紀) やオロシウス (Paulus Orosius、5世紀) が紹介しているようです (Swanton's ASC, p86)。アルフレッド王がこれらの歴史書を読んでいた証拠はないようですが、オロシウスの歴史書の内容はASCにも (ビードの「イングランド教会史」経由で?) 受け継がれているので、何らかの形で伝わっていたかもですが、単にシールドウォール同様に、ローマ時代~当時の軍隊イロハだっただけかも知れません。
地元の村 (home/ ham):意訳。原文「hām」は「村、拠点、故郷、所有地など。例:バーミンガム (Birmingham) =「ベイオーマの民 (Beormingas) の村」。<メモ>「常に」 "simle": always, constantly. (per Wiktionary)
・野戦 (field/ ute):意訳。原文「úte」は野外、外部 (outside) など。フィールドでの任務。

・エセックスの彼等の船に向かう:エセックス (テムズ川の北側) に船があるようですが、「最初に到着した」場所は、ミルトン (テムズ川の南側) やリム河口 (更に南) なので、いつの間にか船だけ前もってエセックスに北上させておいたのか、別のグループがいるのか、未確認。
 船のある場所は、894 (895)年に出てくるマージ―島 (Mersea Island) のようです。
 この「充分な略奪品を集めたら~船に向かう」までの部分が、未来形?になっているようで、最初の「2回しか全軍で出てこなかった」と時勢が違うのでわかりづらく感じましたが、あまり気にせずにまとめると、
「(アップルドアの 250隻分の) 大ヴァイキング軍 (ミルトンのハスタインのグループは除く?※) が全員揃って移動したのは、最初に (フランク王国から) イングランドに到着して (ミルトン/アップルドア) に拠点 (砦) を作った時と、その拠点からみんなでエセックスに大移動する時の、合計 2回のみ (で、それ以外はちょこちょこと大小のレイド隊が出たり入ったりするだけで、大移動はなかった)」
 という感じでしょうか。前述に「総勢 (ealle herige/全軍) で略奪に繰り出す」とあるのと矛盾する気がしますが、妻子などの非戦闘員は含めないので「全員」ではない、という解釈?
 ※ハスタインのグループについては、この後にまた行動範囲と時系列がよく解らない記述があるので取りあえず「?」としました。

・[エドワードの] 軍 (fierd):エセルウォード版ASCによると、この軍はアルフレッドの息子のエドワードが率いていた、とあります。エドワードは 20歳前後※、息子アセルスタンも産まれる頃で、父王のアルフレッドは一病息災で40代中~後半。世代交代の時期。
 ※両親の結婚が 868年 (アッサー談) で、第2子なので、870~874年くらいに産まれたと推定。

ファーナム (Farnham/ Fearnhamme):「ファーナム」という街/村はいくつかありますが、エセルウォード版ASC等から推察すると、サリー/Surrey州の街、ファーナムらしいです。
 位置はロンドンとウィンチェスターの中間で、ヴァイキング達の最初の拠点 (ケントにあるアップルドア、またはミルトン) からかなり西で、「エセックスの船に向かう」にしても遠いですが、アルフレッド王の防衛を避けて森林地帯を移動しており、また、エセルウォード版では更に明確に「(アンドレッドの森を) ハンプシャーとバークシャーを略奪しながら西に移動」としているので、不自然ではないのかも。
 7世紀頃のカドウォーラ王 (Cædwalla) の頃からASCに記載のある、由緒正しい街。

浅瀬のないテムズ川を越えて (over Thames without any ford/ ofer Temese buton ælcum forda):浅瀬=渡れるような場所、渡河場。
 この「浅瀬の (まったく) ないテムズを~」の意図がよくわかりませんが、上記のファーナムがサリー州のファーナムの場合、テムズ川の上流の南側 (にあるファーナム) から逃げてきた形なので、「エセックス側に行くにはどこかでテムズを渡らないといけないが、渡れる所がなかなか見つからなかったので、川沿いに下流 (東のロンドン方面) に移動し、その後、コウン川 (テムズに北側から注ぐ支流、後述) に行きあたって遡上した」という意味でしょうか。

・コウン川 (Colne):「River Colne」も複数ありますが、サリー州のファーナムの位置から考えると、ロンドンの北西、ハートフォードシャーを流れ、テムズ川に北側から注ぐ支流のコウン川っぽい。ヒースロー空港の西側を通って南北に流れている。ただ、エセルウォード版にはそもそもコウン川の記述がないんですが...。
<蛇足> Colne ではないですが コルン (Coln) 川という、同じくテムズ川の支流が、テムズのかなり上流のグロスターシャーにあり、分岐点の近くには (現在の地形ですが) 湖・中州や「ソーンヒル Thornhill」という (どこにでもある名前の) 丘があります。(RAF Fairford空軍基地の北東、ウォンティジから北西に 25kmくらい) ご参考まで。

・小島 (an Island/ anne iggað):原文には「小島/中州 (川の中の小さな島)」としか書かれておらず、いくつか候補地があるようですが、エセルウォード版 (の英訳)では、「ソーニー島 (Thorney Island)」となっており、現在ある地名だと、
▶バッキンガムシャー南端 (ヒースロー空港の北西) にある街 アイヴァー(Iver) のソーニー地区 (Thorney)。上記のハートフォードシャのコウン川がながれており、中州がありそうな場所 。
 ただ、エセルウォード版にはコウン川の言及がなく「ソーニー島」のみなので、「コウン川」を無視するなら;
▶ロンドン (現在の City 地区のみ) の西のソーニー島 (現在のウェストミンスター。昔は中州だった)。あるいは;
▶ポーツマスの東の湾内にあるウェスト・サセックスのソーニー島ローマ時代から居住あり、ただしヴァイキングの痕跡は不明なので、可能性は薄いか。

「ソーニー島」候補の一つ (?)、ロンドンのウェストミンスター。
の、宮殿 (国会議事堂) の駐車場の真ん中にいる、リチャード獅子心王の像。
この周辺(ビッグベンの少し北から、このウェストミンスター宮殿の南まで、西はウェストミンスター寺院のあたり)が「ソーニー島」だったっぽい。

画像14

民兵軍:ここもエドワード軍。
彼等 [民兵軍] には兵役期間があり、食糧も底を尽いてきた*。 (hie hæfdon þa heora stemn gesetenne, ⁊ hiora mete genotudne):サクソン軍の民兵 (fyrd) の兵役期間はあまり長くなく、包囲戦が長期になると派遣部隊の交代をしないければならなくなるっぽいのですが、兵役期間の詳細は未確認。
 また、通常、民兵は武器や食料も各自持参らしいのですが、「食糧が尽きてきた」とあるのは、軍隊にレーションを支給するシステムがあるのを示唆する、との意見もあるようです。
<メモ>「任期」の原文 "stamn" は "stefn" のヴァリエーションで、"stefn" は「口から発せられた声」→「呼びかけ (call-up) =召喚に応じて一定期間作業を行うこと」などの意味。で、ここでは「兵役 (期間)」。 

直属の部隊を率いて:意訳。「彼の許で行軍した/戦った部隊と共に」。
 先に包囲戦で粘っていたエドワード&民兵軍の兵役期間と食糧が尽きてきたので、彼等を戦線から解放するために、アルフレッド王の本隊 (?) が交代要員として直参。
 兵站がしっかりしてるというか、規則絶対守るマンというか、長年の持病に負けずあちこち戦線に出るアルフレッド (40代)。(フランク王国でシャルル肥満王が体調不良を理由に戦線参加が遅れた等で失脚したのとか見てると、他人事じゃないのかも)

・帰還の途 (homeward/ hamweardes):「ホーム (地元/街/家) の方向へ」。民兵をおうちに帰した。
 エドワードはこの後、分割された「一部の兵力」として東に向かっているようですが、民兵とはお別れして戦線に残ったのか (役職者は労組に入れず兵役期間規定は適用されません的な)、あるいは帰宅組を率いていって、途中で「東」に向かったのか、未確認。
彼等の王:誰なのか未確認。ハスタインはこの後の文章で元気そうにしているので、別のヤールか誰かか。
 この「小島/中州」(ソーニー島?) にいたヴァイキング勢 (アップルドア勢の一部?) がその後どうなったのか、(例:エドワード軍がロンドンで軍の再編をしている間に、追い抜いてベンフリートに行った?)、未確認。

・ノーサンブリア民:関係ないかもですが、アイルランドの歴史書「Annals of Ulster」には、ノーサンブリアのヴァイキング "Sigfrodr" (恐らくSiegfried/Sigurd (シグフレッド/シグルド) がダブリンを出航し、同じく 「Sigfrodr」がウェセックスを襲撃した、と書いてあるそうです。
 また、エセルウォード版クロニクルは、893年の最後 に、「シゲファース (Sigeferth)」(英訳版の表記。Sichfrith?) が「ノーサンブリアから船で来て海岸沿いを荒らし回った後に、帰っていった (大意)」と書き添えられています。
 ノーサンブリアで発掘された キュアデルの財宝 (Cuerdale Hoard) にも「Siefredus/ Sievert」(Siefred) 銘のコインがあり、895~900年頃にノーサンブリア王だったと推定されています。
(時系列や原文、およびパリ包囲戦のリーダーと同じかどうかも未確認ですが、一応メモ。)
・約100隻:このあたりの数字はバリエーションがあるようです。
・デヴォンシャーの北海側にある砦 (an geweorc on Defnascire be þære norþsæ):「北海 (norþsæ)」はブリストル海峡。場所は未確定ですが、「バーガル・ハイディッジ (Burghal Hidage)」に書かれている城塞市 (burgh) ピルトン (Pilton/ Barnstaple) などが推定されているようです。(Keynes & Lapidge)
ピルトンはブリストル海峡に注ぐトウ川 (River Taw) 沿いの村。「北回り」としましたが、ノーサンブリア勢が、ノーサンブリアの西海岸から、ウェールズとアイルランドの間の海を通って (実際は南下して) きたのでは。
 <再掲>バーガル・ハイディッジ (”城塞都市のハイド税”)」は、880年以降に形成された防衛ネットワークの約 30か所の城塞都市 (burhs) と、その維持のための税金および防衛に配置する人数等の詳細について書かれた文書。例えば ピルトンのハイド税は 「360ハイド (400 hides less 40 hides)」で、比較的小規模。最高額のウィンチェスター、ウォリンフォード、ワーウィックは、2400ハイド。

▼ハイド税の高い (2400ハイド) 城塞都市のひとつ、ウォリンフォード (Wallingford) にある公園、Kine Croft。右奥 (遊歩道の突き当り) にチラっと見える盛り土は、「サクソン時代の土塁の跡」の一部じゃないかと思います。(2011年撮影) 

画像16

・エクセター (Exeter/ Exancester):デヴォンシャーの南側の海岸沿いの街。久々に出て来たので念の為。こちらはイーストアングリア勢でしょうか。

・全軍 (all the fyrd/ ealre þære fierde):このアルフレッド軍も「民兵軍」表記。前段で「王直属の軍」としましたが、招集兵もいるので念の為。
ごく一部の兵力~ロンドンまで行き:この東進部隊もエドワードの軍らしいです。アルフレッド父ちゃんが軍のほとんどをエクセターに引っ張っていってしまったので、小部隊でロンドンに辿り着き、そこで西部からの増強部隊と ロンドン市民 (アルフレッド王の義理の息子であるマーシア公エセルレッドの管轄) で補充して、ロンドンの東のベンフリート (下記) に向かった感じでしょうか。

ベンフリート(Barnfleet/ Beamfleote):テムズ河口近くに北岸から注ぐハドリー・レイ川 (Hadleigh Ray) の上流 ("クリーク/Creek") に面した街、サウス・ベンフリート (South Benfleet)。ロンドンから東へ約50km。
<余談>
ドラマ「ラスト・キングダム」(およびその原作小説) に出てくるハスタイン (Haesten) はゆるーくこの (ASC上の) ハスタインに絡めているようで、ベンフリート/ベァンフリォト (Beamfleot) を拠点にしてます。
 シーズン3 エピソード5~6 でこの「ベンフリートの戦い」が描かれていますが、エドワードだけでなくアルフレッド王が率いる軍が参戦しつつ、エドワードが主導 (する成長を促す機会)、という解釈で面白いです。

・ハスタインとその仲間達が来ていた (Wæs Hæsten þa þær cumen mid his herge):少し前の時期に来て砦を築いていた。ただし (後述のように) エドワード軍が到着した時には不在?

・リム河口のアップルドアに居座っていた者達:じゃあアンドレッドの森を移動して、「2度」目に「砦から総出で出て」きて、ファーナムで戦って負けて、「小島」で籠城していたヴァイキング勢はどこから湧いてきた/どこに消えた??という感じですが、そっちに行かずにアップルドアに居残っていた人達もいたんでしょうか。このへんがよく解りません...。

・ベンフリートの砦:このヴァイキングの砦 (fortress/ geweorc) の場所は不明ですが、ベンフリート駅の北東部エリアなどが推定されているようです。また、ベンフリート駅近くの St Mary the Virgin教会は、元々あった教会がこの時に破壊され、ヴァイキング達が去った記念に設立された、という由来だそうです。
・女達、および子供達 (ge on wifum, ge eac on bearnum):あるいは「妻達および息子達」。
船はすべて粉々に破壊するか焼き払い (scipu eall oðþe tobræcon, oþþe forbærndon):1855年に鉄道建設の人夫たち (navvies) が、焼け焦げた船の残骸と人骨を発見したそうです。ベンフリートでは 1994年に 1100年周年記念の再現イベント (ヴァイキング船の焚き上げ付き) をやったようで。

・ロチェスター:テムズ川を挟んでベンフリートの反対側 (南側) にある街。テムズ三角江に注ぐメドウェイ川 (The Medway) の河口近くに位置する。ミルトンの北西 約15km。

ゴッドサンであり:代子。890年訳注参照。
州公エセルレッド (æðeredes ealdormon):アルフレッドの義理の息子のエセルレッド。マーシア公。
子供と妻を [ハスタインに] 返した時:これは多分ベンフリート戦より前。「子供 (þone cniht)」が単数形。
 恐らく、ハスタインがミルトンを拠点としていた and/or ベンフリートに前もって砦を築いていた頃 (ヴァイキングvsアルフレッド軍が日々追いかけっこをしていた頃) に、アルフレッド王はハスタインと停戦交渉をしたように読めます。
 したがって、この時に ハスタインが人質に差し出した妻と子供達を、アルフレッド王が (息子の一人を何故か/毎度のように/嬉々としてゴッドサンとした後に) ハスタインに「返した時」の意か。つまりデインゲルドを2回払っている?
・彼の [息子の] ゴッドファーザー (cumpæder/ compater):この「息子の」部分が抜け落ちているように思えますが、未確認。
 引用している近代英訳文では「compeer」(同輩/同じランクの者) になっていますが、原文「(his) cumpæder」は、ラテン語 (New Latin)「compater」由来の「ゴッドファーザー/代父」の意味らしいです。
 ただ「彼のゴッドファーザーであるエセルレッド」だと、ハスタインの息子ではなく、彼自身がエセルレッドのゴッドサンになってしまいそうなので (?)、引用してある近代英訳では敢えて「compeer」(<中英語の comper<ラテン compar) と解釈したのかもですが、他の可能性としては、
- 単に「彼の "息子の" ゴッドファーザー」が原文 (A, B本?) から落ちた。
- 古英語が解る者が読めばちゃんと「彼の息子の」になる。ド素人は黙っていろ。
-「彼」は実はアルフレッドで、「彼の同輩」=(義理の息子の) エセルレッド?、等々。
 なお「compater」は中世ラテン語 (Middle Latin) だと「従兄」の意味になるようです。
<メモ>該当文の直訳英語 (拙訳):"He [Hasten] plundered on his [Alfred's] realm (his rice) that same end that Æthelred, his godfather (cumpæder), should watch over,"

・エセルレッドが統治する地域:未確認ですが、マーシア領内か。エドワード王子達がベンフリートを攻略している時に (不在の) ハスタインが略奪に行っていた場所に該当する筈。
略奪中だった:東征軍がベンフリートを破壊した時、ハスタイン勢は留守でベンフリートには居なかった?

▼途中ですが、位置関係図。

画像15

◆893/894 (2/2) 訳注

・前述のように (as I said before/ swa ic ær sæde):原文は「私が前述したように」。珍しく筆者の主語「私 /ic」が入ってくるのでメモ。
・船へと戻った:出帆せずに船で籠城した?
・シューバリー (Shoebury/ Sceobyrig):テムズ河口 (三角江) の北東端の街、シューバリネス (Shoeburyness)。ベンフリートから東に約 17km。
 街の島南端にある公園 ガンナーズ・パーク (Gunners Park) の東端に「Danish Camp」(デイン人のキャンプ地) と呼ばれる砦の跡があるものの、これは鉄器時代のもので、このASCの記述 (「砦を築いた」) にこじつけただけらしい。2013年に行われた発掘調査 (PDF) では鉄器~ローマ時代あたりの発掘物が見つかったようです。
セヴァーン川 (Severn/Sæferne):ブリストル海峡に注ぐ、イングランド最長の川。少なくとも現在はテムズ川とは繋がっていない (※) ので、どのルート (支流経由?) でセヴァーン川まで行ったか未確認。シューバリーからテムズを「遡上」するとロンドンも通過するんですが、大軍すぎてロンドン市民では防戦できず、みすみす通過を許したんでしょうか。
  (※正確には、18世紀に造られた運河「Thames and Severn Canal」で人工的に繋がっている) 
<余談>テムズ川の水源は、サイレンセスター (Cirencester, 879年にグスルム軍がイーストアングリア定住の前に 1年居座った街) の南西 4kmくらいの場所。ここからでもセヴァーンまでは最短で (丘を越えて) 25km。

・州公エセルレッド (æþered ealdormon):毎度の義理の息子。実の息子のエドワードはどこ行った、という感じですが。
・州公エセルヘルム (Ethelm, Aethelhelm/ æþelm ealdorman):ウィルトシャーの州公。887年にアルフレッド王の進物をローマへ運んだ人。887年参照。
・州公エセルノス (Ethelnoth/ æþelnoþ ealdorman):サマセットの州公。
 エセルウォード版によると、アルフレッド王が878年にヴァイキングの奇襲に追われ沼地でゲリラしてパンを焦がしていた頃に、エセルノスもゲリラに加わっていたとか、その後のグスルムの洗礼の際に、エセルノスもウェドモアで彼を洗礼 (purify) した、とか書かれています。
王のセイン達 (cinges þegnas):王直属の侍臣 (thane/thegn)。王の直轄地から 5ハイドの土地 (約80ヘクタール)を支給されていたらしい。
 ヴァイキング軍がミルトンとアップルドアにいてアルフレッド王がケントに出張して、兵力を 2グループに分けていた時に、「街を守る任務の者達は除いて」とされていた人達。
・パレット川 (Parret/ Pedred(an)):ブリストル海峡に注ぐサマセットの川。845年参照。
・セルウッドの森 (Selwood/ Sealwud(a)):ウェセックス西部の森。854年にアルフレッドの父エセルウルフ王と兄エセルバルドが王国を分割した時の境界線や、878年のエディントン (エサンデュン) の戦いの集合場所のエグバートストーンの位置関係 (「セルウッドの東」) で名前が出てくる。
・テムズ川の北:マーシア領内、エセルレッド公の配下。
・セヴァーン川の西:セヴァーン川とウェールズ境界の間のヘレフォードシャー (Herefordshire) などの地域か。ここもマーシア領内。
・北ウェールズの民 (North-Welsh people/ Norðwealcynnes): 「北ウェールズ」は現在のウェールズ全域。⇔「西ウェールズ」=コーンウォール地域と区別。ウェールズ人/ブリトン人。
 当時の「北ウェールズ」は、南部の各王国がおおむねアルフレッド王に従っており (アッサー談)、その後、北部のグウィネス王国 (Gwynedd) およびパウィス王国 (Powys) のアナラウド王も、アルフレッドに同盟を申し出ている。下記「バッティントン」訳注参照。

バッティントン (Buttington/ Buttingtune):「バッティントンの戦い (Battle of Battington」。場所は正確には不明ですが、ウェールズとイングランドの境界 (=オッファの防塁) に近い、セヴァーン川東岸の村 バッティントン (Buttington) が推定されています。バッティントン近くの現在のウェルシュプール (Welshpool、旧 Pool) は、当時のパウィス王国 (Kingdom of Powys)南部の主要都市のひとつ。
 この場所はセヴァーン川をかなり北上したマーシア地域 (エセルレッド公のエリア) の西で、ウェールズ領内 (グウィネス王国治下のパウィス) なので、エセルレッド公を筆頭 (?または王のセインが主導?) として、ウェールズ軍との共同作戦になっているようです。
<思い出しメモ>
ASC 853年、当時のマーシア王バーグレッドの要請を受けて、マーシア&ウェセックス (エセルウルフ王) 連合軍が「北ウェールズ」(=実際はその中のパウィス王国) を「征服」。
855年頃、パウィス王国の Cyngen ap Cadell 王がローマ巡礼途上で死去した後、ロドリ大王 (Rhodri the Great/ Rhodri Mawr, Rhodri ap Merfyn) のグウィネス王国 (Kingdom of Gwynedd/ グウィネッド, グウィネズ) に統合されたが、引き続きマーシアもパウィスに影響力を持っていたらしい。
▶878年頃マーシア (ケオルウルフ王, Ceolwulf II) がウェールズ側に侵攻、ロドリ大王が戦死。
881年頃、グウィネスvsマーシアのコンウィの戦い (Battle of Conwy) でアナラウド王 (Anarawd ap Rhodri, ロドリ大王の息子) 率いるウェールズ側が勝利。マーシアは支配力を失う。この時敗北したマーシアのリーダー "Edryd Long-Hair" が恐らく マーシア公エセルレッドと言われている。
885年頃アッサーによると ("Life" 80節)、アナラウド王&兄弟は (ノーサンブリアのヴァイキング勢と同盟していたがイマイチだったので) アルフレッドとの同盟を申し出る。同盟の証としてアルフレッドはアナラウドをゴッドサンにする。ただしこの ASC 894年本文で「北ウェールズ民の一部」とあるので、885年時点の同盟は全面的なものではなかったのかも。 
 なおこれ以前にアルフレッドに従ったウェールズの王国/地域は、GlywysingBrycheiniong、”エセルレッドとマーシアの権力と横暴に耐えかねて" 身を寄せてきた Gwent、およびアッサーの地元の St Davids修道院がある Dyfed。(残りの Ystrad Tywiは 894年にアナラウドが征服。Ceredigionはアナラウドの弟 Cadell が統治?)
</メモおわり>
 なおバッティントンの候補地は他に、セヴァーン川の西岸、Wye川との合流点で「オッファの防塁」の最南端の街 Sedbury に名前が残る Buttington Tump (Hill) もあるようですが、セヴァーン河口部なので「遡上」しておらず、根拠 (証拠) も薄いようです。

▼ウェルシュプールにあった樹齢1000年の「バッティントン・オーク」 (2018年に倒木、位置) は、地元では『「バッティントンの戦い」を記念して植えられた』と言われていたようです。

・オードヒア (Ordhelm, Ordheah/ Ordheh, Ordeh):戦死した王のセイン達 (cyninges þegnas) の中でも彼だけ名前が出ていますが、名前以外は詳細不明。
・そしてデイン勢側の死者は多大なものとなり (and of the Danes there were many slain/ ⁊ þara Deniscra þær wearð swiþe mycel geslegen):この一文はA本には無し。B, C, D本の記述。

・エセックスの彼等の砦と船:「聖ニーオッツの年代記 (Annals of St Neots)」に「ベンフリート」と明記してあるようです。

<余談>聖ニーオッツの年代記」は12世紀にラテン語で書かれた歴史書。バリー・セントエドマンズ (聖エドマンド王の埋葬地の街) で編纂されたが、単にマニュスクリプトがケンブリッジの西の街 セン・ニーオッツ (St Neots) の聖ニーオッツ修道院 (St Neots Priory) で見つかった為、この名前がついた。原本はケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに収蔵されている。
 ※10世紀に書かれた「聖ニーオット伝」(Life of St Neot/ Vita Prima Sancti Neoti) とは別。こちらはコーンウォールの僧侶ニーオット (Neot/ ニオット、 870年頃没) の伝記。アルフレッドの焦げパン伝説などはこのへん (100年後の文書) から出ており、アルフレッド伝説に欠かせない。(「Life of King Alfred」のLapdge先生による著書があるようですが、未読。)

・妻達、船、および財産の管理をイーストアングリア勢に委ねると:「管理を」は意訳。原文「befæston」は「安全に確保する、信頼して委ねる、預ける /secure, entrust, put into trust, commit」などの意。

チェスター (Chester/ Legaceaster):リヴァプールの南のウィラル半島 (Wirral/ Wirheal/ Wirhealum) の根元の街。ウェールズとの境界 (オッダの防塁) の北端近く、マーシア側に位置する。
 ローマ時代からあった城塞都市で、旧名「リガチェスター(Legaceaster)」は「レギオンの都市/ City of Legion」の意。11世紀頃に「Lega」が抜け落ちて「チェスター」になった。現在は隣接するディー川 (River Dee) からアイリッシュ海に接続する。(当時の海岸線は未確認)
放置された [西部の?(wasted, deserted/ westre):引用している近代英訳文では「western/ 西部の」と英訳されていますが、もっと新しい英訳 (Keynes & Lapidge 等) では「荒れた/放置された etc (wasted, deserted)」(wéste) を採用しているため、併記しました。
 なお、街は 5世紀頃のローマ軍撤退後には放置されたものの、7世紀後半(A.D. 689) には聖ジョン・パプティスト教会が建てられ、その後も 875年頃※に聖ワーバーガ (Werburgh, チェスターの守護聖人となる) の聖遺物をヴァイキングの略奪から守るために城塞市であるレガチェスターの 現・チェスター大聖堂 に移した、等の動きがあるので、この時代もそこまで過疎っていたかは議論があるようです。907年にはアルフレッドの娘、エセルフレド (Æthelflæd/ アセルフレッド) が城壁の修理をしています。エセルフレドはワーバーガ信仰も猛プッシュしたらしい。
※875年...チェスター年代記 (Annales Cestrienses)」(14世紀) による。遺骸は元はハンバリー (Hanbury) にあり、700年頃に死去してから175年間、原型をとどめていたが、この移動時に「塵となった」らしい。
<余談> 同書の同じく 875年に「アルフレッドがオクスフォードに国内初のパブリックスクールを作った」とあり、オクスフォード大学のユニヴァーシティ (Univ) カレッジの事で、18世紀には裁判所がこれを認めたりもしましたが、現在では否定されています。この名残りで Univカレッジには アルフレッド王の胸像 (18世紀制作) が飾ってあるそうです。 

・穀物 (corn/ corn):原文も「corn/ コーン」ですが、勿論この時代のブリテン島にトウモロコシ的なコーンは無いので、穀物類全般 (小麦、大麦、ライ麦など) を指す。なおオーツ麦もあったようですが、スコットランドの方では食用だったものの、サクソン域ではどちらかというと馬の餌だったらしい。
・馬の餌にし尽くした:この、ヴァイキング達に取られていない畜牛を囲い込み、農作物は焼き尽くすか馬の餌にしてしまう、という焦土作戦はサクソン軍の仕業です、念の為。

▼穀物つながりで、「アルフレッドが焦がしたケイク (cake)※」を再現しよう!という動画。(英語ですが字幕あり。似たレシピのテキスト版はこちら (英語PDF))
正確な再現というより、味や作りやすさを考えてオートミール用のオーツ麦を使っていますが (=スコットランド風)、歴史背景の説明などもよくまとまっていますし、アルフレッド王への好感度が大変わかりみが深い。
※焦がしたのは「パン (bread)」または「ケイク (cake)」。


**********************************

A.D. 894/895* (外回りヴァイキング軍)

同年、このすぐ後に [異教徒] 軍は、ウィラル [半島のチェスター] から北ウェールズ* に移動した。というのも、彼等は略奪した牛や穀物のいずれも奪われて* しまったため、そこに居座っていられなかったからである。

彼等が [ウェールズで] 獲得した略奪品を携えて戻ってきた際には、エセックス地域の東部の海中にあるマージーと呼ばれる島に到達するまで、[サクソン民兵] 軍が手を出せないように、ノーサンブリアとイースト・アングリア [のデインロウ領内] を通過していった。

そして、エクセターを包囲していた [異教徒] 軍* が再び帰途に就き、途中、チチェスター* 周辺のサセックスに上陸して荒らし回ったが、市民* が彼等 [異教徒軍] を追い払い、数百人を殺して、その船の何隻かを奪った。

同年、冬の前に、マージー [島] に居座っていたデイン人達がテムズ川に沿って船を漕いでいき*、その後 リー[川]* を遡上した。

これは、彼等が海を越えて当地に来てから約 2年後のことだった*

A.D. 895. Soon after that, in this year, went the army from Wirheal into North-Wales; for they could not remain there, because they were stripped both of the cattle and the corn that they had acquired by plunder. When they went again out of North-Wales with the booty they had acquired there, they marched over Northumberland and East-Anglia, so that the king's army could not reach them till they came into Essex eastward, on an island that is out at sea, called Mersey. And as the army returned homeward that had beset Exeter, they went up plundering in Sussex nigh Chichester; but the townsmen put them to flight, and slew many hundreds of them, and took some of their ships. Then, in the same year, before winter, the Danes, who abode in Mersey, towed their ships up on the Thames, and thence up the Lea. That was about two years after that they came hither over sea.

<*訳注>
・894/895年
:894年 (B本)、895年 (A本)。
・北ウェールズ (North-Wales/ Norðwealas):前出同様、「ウェールズ」全般を指す。
・奪われて (deprived/ benumen)*:略奪した牛と穀物を「奪われ」というのが少しわかりかねますが、benumen (deprive) は「取り上げられる、与えられない、使用を妨げられる」などの意味なので、「奪った筈の牛と穀物 (街の外にあった分?) を、サクソン軍による牛の囲い込み&焦土作戦で (使用手段を) 失ってしまった」の意?

・マージー島 (Mersea/ Meresig, Mereseg): エセックスのコウン川 (Colne)(※ファーナム戦の後の「コウン川 (Colne)」とは同名の別の川) と、その南のブラックウォーター川 (River Blackwater) の三角江にある島。
 島の北東部に当時ヴァイキングが築いた防塁の跡が残っていたり (参照元、英語)、West Mersea地区にある 7世紀頃に建てられた St Peter & St Paul’s 教会はこの892~894年頃にヴァイキングに破壊されて後年再建されたとか、East Mersea地区の St Edmund's教会 (12世紀建立) は、元々はヴァイキングが去ったのを感謝してそのキャンプの近くに建てられたとか。色々。
 <余談>マージ―島は、ローマ帝国時代は近所のコルチェスター(都会)の人や退役軍人の保養所だったらしいです。ローマ時代との文化の差!
 なおコルチェスター (Colchester/ Camulodunum) はA.D. 60/61年頃にケルトの女王ブーディカ (Boudica)さんの反乱の際に破壊されました。

▼ブーディカの乱を描いた映画「ウォリアークイーン (Boudica)」(2003)。だいぶ前に観たのであまり覚えてませんが、まぁまぁよかったと思います。ロンドンのビッグベンの近くのテムズ河畔 (ソーニー島!) に銅像があるはず。

エクセターを包囲していた [異教徒] 軍:デインロウ (ノーサンブリアとイーストアングリア) から船で行ったグループ。念のため。
チチェスター (Chichester/Cisseceastre):南部の海岸沿いに近い街。「バーガル・ハイディッジ」(893/4年訳注参照) に書かれている城塞都市。近くに「ソーニー島 (Thorney Island)」があるが、893/4年にヴァイキング軍が籠城したソーニー島ではない。多分。
市民 (townsmen/ burgware):城塞都市/街 (Burh) の住民。防衛ラインの街 (burg) のひとつなので、街を防衛する守備隊が配置されている。
 チチェスターは「1,500ハイド」でオクスフォード (1,500ハイド) と同等の大きな拠点。 (前出のピルトンは 400ハイド)。
<余談:城塞都市の防衛予算の計算方法>
城壁 1ポール (約 5m) につき、4名を配置。
20ポール (100m) の維持に、80ハイドを要する。
40ポール=1ファーロング (200m)。
10ファーロング (2,000m) には 1,600ハイド。
 例)グスルムが籠城していた ウェラム (Wareham) は「1600ハイド」で、城壁は約2,000m (2,200ヤード)、衛兵は 1,600名を配置 (Keynes & Lapidge)。だそうです。

・漕いでいき (towed/ tugon):原文の tugon (teón) は「引っ張って/引きずっていく」(pull, drag) の意味があり、引用英文もそうなっていますが、「pull a boat, row (漕ぐ)」の用例があるので、こちらにしました。
リー[川] (Lea/ Lygan):ロンドンの東約 7kmの下流 (グリニッジ天文台があるあたり) で北からテムズ川に合流する支流。デインロウ (エセックス) との境界線の一部。

・約 2年後のことだったエセルウォード版は「2年後」の 895年、『エセルノス公がウェセックスを出発し、マーシア王国のスタンフォードの西側 (ウェランド/ Welland 川とケスタヴァン/Kesteven の森の間) の広範囲で略奪をしていた敵勢と、ヨークで交戦した』と書き加えており、これは同893年のSigeferth (シグフレッド/シグルド) では説 (Swanton) があるようです。(893/894 (1/2) 訳注参照)


**********************************

A.D. 895/896* (リー川の攻防、封じ込め作戦)

同年*、前述の [異教徒] 軍が、リー [川] 沿いの、ロンドンの上 20マイルの場所* に砦を築いた。

この後の夏、大勢の市民* およびその他の人々が、デイン人の砦まで進軍したが、敗走し、王のセインが 4名ほど討ち取られた。

この後の収穫期、人々が刈り取りを行っている間、[アルフレッド] 王が街の近隣* に野営し、デイン人が収穫の邪魔をできないように [警戒] した。

そしてある日、王は、川に沿って馬を進め、[川に] 障害物を築けそうな場所を探した。これは、彼等 [異教徒軍] が船を [下流~海に] 出せないようにするためである。そして彼等 [サクソン勢] はこのようにした;川の両側に、2か所の砦を築いた*のである。

彼等 [サクソン勢] がこの作業を開始して、その側に野営をしていると、[異教徒] 軍は、船を [下流に] 持ち出せないことに気付いた。
そこで彼等はそれら [船] を放置し、国内を横断して、セヴァーン河畔のブリッジノース* まで行き、そこに砦を築いた。 

そこで、民兵軍が [異教徒] 軍を追って西に向かい、[その一方で] ロンドンの者達が [放置された異教徒勢の] 船を押収したが、持って来れないもの [船] はすべて破壊し、使用できるものはロンドンに持っていった。
更に、デイン人達は、[ハートフォード近傍の] 砦から去る前に、その妻達をイースト・アングリア勢に託していった。そして彼等 [異教徒民] は、ブリッジノースで一冬を過ごした。

これは、彼等は海を越えて当地のリム河口に来てから、約 3年後のことであった。

A.D. 896. This same year wrought the aforesaid army a work by the Lea, twenty miles above the city of London. Then, in the summer of this year, went a large party of the citizens, and also of other folk, and made an attack on the work of the Danes; but they were there routed, and some four of the king's thanes were slain. In the harvest afterward the king encamped close to the city, whilst they reaped their corn, that the Danes might not deprive them of the crop. Then, some day, rode the king up by the river; and observed a place where the river might be obstructed, so that they could not bring out their ships. And they did so. They wrought two works on the two sides of the river. And when they had begun the work, and encamped before it, then understood the army that they could not bring out their ships. Whereupon they left them, and went over land, till they came to Quatbridge by Severn; and there wrought a work. Then rode the king's army westward after the enemy. And the men of London fetched the ships; and all that they could not lead away they broke up; but all that were worthy of capture they brought into the port of London. And the Danes procured an asylum for their wives among the East-Angles, ere they went out of the fort. During the winter they abode at Quatbridge. That was about three years since they came hither over sea into the mouth of the Limne.

<*訳注>
・895/896年:895年 (B本)、896年 (A本)。
・同年 (In the same year/ On þy ylcan gere):「この年」の書き間違い、すなわち前年と「同じ」ではない可能性。年項の最後に「これは~3年目のことである」とあり、前年項は「2年目」なので。 
ロンドンの上 20マイルの場所:ロンドンの北 20マイル (30km) に該当する ハートフォード (Hertford/Hertforde)、ウェア (Ware/Waras)、少し手前 (南) のホドゥスドン (Hoddesdon) の周辺 (街/村の中か近隣) が推定されているようです。
<余談>
 ハートフォードはこの地域 (ハートフォードシャー) のメインの街。913年頃にエドワード王 (アルフの息子) が「ハートフォードに北の砦を築いた」とあるので、895/6年当時は城塞化されていなかったっぽい?
 なおロンドンも 886年にロンドニウムの城壁を補修・強化して「burg/ byrig/ ”borough (バラ)”」化したので「Lundenbyrig」。

市民 (citizens/ burgwara):チチェスターの「市民 (burgware)」に同じ。恐らくロンドンの「市民 (守備隊)」。
街の近隣:ヴァイキング勢の築いた砦 (geweorc) ではなく「街 (byrig, burg, burh) のようなので、一番近い「burh/ バラ」の ロンドン (Lundenbyrig) かと。(ヴァイキング勢の砦、とする解釈もあり)
 夏に市民軍が砦に戦いに行って負けたので、秋はアルフ王直々というか、また交代要員でしょうか。

川の両側に、2か所の砦を築いた:この「両岸の砦の間に堰を作る」作戦は、フランク王国のシャルル禿頭王 (Charles the Bald, アルフ王の継母ジュディスの父) が  862年に対ヴァイキング対策でセーヌ川の下流のポン-ド-ラルシュ (Pont-de-L'Arche ="砦の橋") に築いたもの (英語記事) のパクリっぽいと言われていたり (Hassall & Hill)、賢いアルフ王なら自分で考えた可能性も!と言われていたり (Keynes & Lapidge)。
 砦&堰の場所は不明で、いくつか候補があるようですが (ウェア/Ware とか Kings' Weir とか) 未確認。 
<余談>
 ポン-ド-ラルシュはノルマンディ地方※の都市。この木製の「砦の橋」は実際に 885~886年のパリ包囲戦にもヴァイキング船団のセーヌ遡上を妨げ、彼等が河口からパリに到達するのに 4か月かかった (?) らしい。
 ※ロロの「ノルマンディ征服」は876年、ただしもっと海岸沿いのみ。
 <メモ>英訳が「two sides」(2つの側面) となっているが、原文はバッティントンで「川の両側 (both sides)」に陣取った時と同じ "twa healfe”。

・ブリッジノース (Bridgnorth/Cwatbrycge):バーミンガムの西 約40kmのセヴァーン河畔にある街。
 原文の Cwatbrycge (Quatt-bridge) から考えると、当時は 5km下流のクワットフォード (Quatford) 村にも (ブリッジノースより先に) 橋がかかっており、895/6年当時はブリッジノースにはまだ橋が無かったという説もあるようなので、「砦」の位置はクワットフォード (の周辺) も可能性がある気がします。なお、その中間に「Daneford」(デイン人の砦) という雑な名前の集落があるようです。(いつからあるのか未確認)

▼位置関係図、再掲。(上図と同じ)

画像15

**********************************

A.D. 896/897* (疫病の猛威、アルフレッド艦隊誕生) 

この後、この年の夏に、[異教徒] 軍が解散し、ある者はイーストアングリアへ、またある者はノーサンブリアへ、そして一文無し* の者は船を入手し、海を越えて南のセーヌへと向かった*

[異教徒]軍は、イングランドの民を ――神のご加護により―― 甚大には打ちのめしてはいなかった。
しかし、彼等 [イングランド民] は 3年の間に、むしろ家畜と人の疫病* によって、特に国内にいる王のセインの最も優れた者達の多くがこの 3年間に世を去ったことに、深刻に打ちのめされていた。

一部の名前を挙げると、ロチェスター司教のスウィサルフケント州公ケオルマンドエセックス州公バータルフハンプシャー州公ウルフレッドドーチェスター司教エアルハードサセックスの王付きセインのエアダルフウィンチェスター知事バーンウルフ王の馬廻セインのエグルフ*、そしてここには* 特に名の有る者のみを挙げたので、これらに加えて更に多くの者も [世を去った]。

同年、イースト・アングリアの、およびノーサンブリアの[異教徒]軍勢* がウェセックスの地、その中でも南の海岸線沿いを、略奪団で、特に何年も前に造った船*で、しつこく苦しめた。 

そこでアルフレッド王は、[異教徒勢の] 船に対抗するために ロングシップ*の建造を命じた。これらは、他の船のほぼ2倍近い長さだった。いくつかは 60挺のオールを備えており、もっと多い船もいくつかあった。

これら [の船] は他 [の船] よりも速く、より安定しており、また高さも勝って [操作性に優れて?]* いた。その形状は、フリジア型ともデイン型とも異なり*、彼 [アルフレッド王] がもっとも有用と思うものになっていた。

その後、同じ年の或る時、6隻の [異教徒勢の] 船がワイト[島] に到来し、デヴォン、および沿岸沿いのほぼすべての部分のいずれにも、かなりの被害を与えた。 

そこで [アルフレッド]王は、新築の船 9隻に出動を命じた。これら [の船]は、外海に通じる河口部* で彼等 [異教徒の船] の手前に出た [出口を塞いだ]。
すると彼等 [異教徒勢] は、その[6隻の] 船のうちの 3隻で、彼等 [イングランド船団] に立ち向かってきた。[残りの] 3隻は、河口の上部の乾いた場所に乗り上げており、[乗っていた] 者達は内陸部に行っていた。

そして彼等 [イングランド勢] は、河口 [三角江] の入り口の部分*で 3隻の [異教徒船の] 内の 2隻を拿捕し、[乗っていた] 男たちを殺した。
[残りの] 1隻は逃れたが、その [船に乗っていた] 男たちも、5人を除いて殺された。彼等 [5人/1隻] が逃れ得たのは、他の船 [イングランド船団] が座礁した* からであり、しかも、非常に都合の悪い座礁の仕方だった。
[イングランド船の] 3隻が、水道のデイン船が乗り上げている側で座礁し、残りすべては反対側にいたので、どの船 [の乗組員?] も、他方に行けなかった。
しかし、水位が船から何ファーロングも* 引き潮になると、[乗り上げていた] 3隻の [異教徒] 船のデイン勢が、同じ側に [引き潮で] 取り残された他の 3隻 [のイングランド船] に向かってきたので、そこで彼等は戦った。 

これにおいて戦死したのは、王のリーヴのルークマン*、フリース人のウルフハード*、フリース人のエッベ*、フリース人のエセルヒア*、王の随臣のエセルファース*、そして [戦死した] すべてのフリース人とイングランド人の者達 62名、およびデイン人は 120名。
しかしその後、満ち潮がまずデイン勢の船に* ――クリスチャン勢が彼等の [船] を押し出せるようになる前に―― 届いたため、彼等 [デイン勢] は [外海へ] 漕ぎ去っていった。

しかしその頃には彼等 [3隻のデイン船/デイン勢] は、損傷 [/負傷] が激しかったため、サセックスの地を越えて漕いでいくことは出来なかったが、その内の 2隻が海流によって岸に打ち上げられ、[乗っていたデインの] 男達はウィンチェスターの [アルフレッド]王の許に連行された。そこで彼 [アルフレッド王] は彼等の絞首刑を命じた。
[残りの] 1隻に乗っていた [デインの] 者達は、イースト・アングリアに戻ってきたが、満身創痍だった。

同じ夏、20隻は下らない数の船* が、その乗組員や諸々合わせて、南海岸沿いの海の藻屑と消えた。

同年、王の馬廻セインのウルフリック* が世を去った。彼はウェールズ担当官* でもあった。

A.D. 897. In the summer of this year went the army, some into East-Anglia, and some into Northumbria; and those that were penniless got themselves ships, and went south over sea to the Seine. The enemy had not, thank God, entirely destroyed the English nation; but they were much more weakened in these three years by the disease of cattle, and most of all of men; so that many of the mightiest of the king's thanes, that were in the land, died within the three years. Of these, one was Swithulf Bishop of Rochester, Ceolmund alderman in Kent, Bertulf alderman in Essex, Wulfred alderman in Hampshire, Elhard Bishop of Dorchester, Eadulf a king's thane in Sussex, Bernuff governor of Winchester, and Egulf the king's horse-thane; and many also with them; though I have named only the men of the highest rank. This same year the plunderers in East-Anglia and Northumbria greatly harassed the land of the West-Saxons by piracies on the southern coast, but most of all by the esks which they built many years before. Then King Alfred gave orders for building long ships against the esks, which were full-nigh twice as long as the others. Some had sixty oars, some more; and they were both swifter and steadier, and also higher than the others. They were not shaped either after the Frisian or the Danish model, but so as he himself thought that they might be most serviceable. Then, at a certain turn of this same year, came six of their ships to the Isle of Wight; and going into Devonshire, they did much mischief both there and everywhere on the seacoast. Then commanded the king his men to go out against them with nine of the new ships, and prevent their escape by the mouth of the river to the outer sea. Then came they out against them with three ships, and three others were standing upwards above the mouth on dry land: for the men were gone off upon shore. Of the first three ships they took two at the mouth outwards, and slew the men; the third veered off, but all the men were slain except five; and they too were severely wounded. Then came onward those who manned the other ships, which were also very uneasily situated. Three were stationed on that side of the deep where the Danish ships were aground, whilst the others were all on the opposite side; so that none of them could join the rest; for the water had ebbed many furlongs from them. Then went the Danes from their three ships to those other three that were on their side, be-ebbed; and there they then fought. There were slain Lucomon, the king's reve, and Wulfheard, a Frieslander; Ebb, a Frieslander, and Ethelere, a Frieslander; and Ethelferth, the king's neat-herd; and of all the men, Frieslanders and English, sixty-two; of the Danes a hundred and twenty. The tide, however, reached the Danish ships ere the Christians could shove theirs out; whereupon they rowed them out; but they were so crippled, that they could not row them beyond the coast of Sussex: there two of them the sea drove ashore; and the crew were led to Winchester to the king, who ordered them to be hanged. The men who escaped in the single ship came to East-Anglia, severely wounded. This same year were lost no less than twenty ships, and the men withal, on the southern coast. Wulfric, the king's horse-thane, who was also viceroy of Wales, died the same year.

<*訳注>
・A.D. 896/897
年: 896年 (A本)、897年 (B本)。
一文無し (penniless/ feohleás):この地で定住できるほどの財産 (金銭、略奪品、家畜など) がない。古英語原文の ”feoh-leás” の「feoh」は、「家畜」から転じて金銭や財産、富なども表す。(※家畜 (畜牛) は他に「ceap」などの語もあり。)
例) 893/4年の項の「アルフレッド王もハスタインに多くの金銭を与えた」、バッティントンの戦いの後「彼等の妻達、船、および財産の管理をイーストアングリア勢に委ね」など。

・セーヌへと向かった:「聖ヴァースト年代記」(Annals of St-Vaast/ Annales Vedastini (ラテン語原文), 880年訳注参照) によると、896年 (Anno DCCCXCVI) に「フンデウス」(Hundeus, Huncdeus/ ヒュンデウス, アンデウス, フンクデウス?) が 5隻のヴァイキング船でセーヌを遡上し、オワーズ川 (Oise)、ミューズ川 (マース/ Mause, 882年参照) などをうろうろした後に シャルル単純王 (Charles III, Charles the Simple) に洗礼を受けた記載があります。
 なお、フンデウスは元々フリースラント (オランダ北部) にいたような記述 (詳細未確認) も見かけたので、既存の現地グループにイングランド文無し組が合流しただけか。未確認。
 <余談>フンデウスは 903年頃まではロワールのあたりにいたっぽく (Mawer, 1913)、その後ノーサンブリアに戻った可能性も提示されていますが (Lyon & Stewart, 1961)、これはフンデウスをクヌート王と同一視する仮説に基づくようで、反論もされています。

・疫病 (plague/ cwild):原因は未確認ですが、この時代の疫病の蔓延は飢餓に付随するものが多いようです。
<余談>
874年前後に大ヴァイキング軍が レプトン (Repton)※ で越冬キャンプをしてましたが、レプトンのSt Wystan's教会付近で見つかった大量の人骨 (約260体の共同墓) は病死ではとの考察があり (Biddle & Kjølbye-Biddle 1990, 英語PDF)、「疫病が流行った」との解釈もあるようです。
 ※更に余談:近年 (2018~)、レプトンの東 3kmのフォアマーク (Foremark) でもヴァイキングの居住の痕跡が見つかり、こちらのメイン/もう一つのキャンプ地だったのでは、とか、元々キャンプ地だったのがその後の定住地になったのでは、などという記事 (Current Archaeology, 英語) やドキュメンタリー番組 (北米版 DVD) が出ていますので、ご参考まで。

・ロチェスター司教のスウィサルフ (スウィスウルフ/ Swithulf/ Swithwulf, bishop of Rochester/ Swiðulf biscop on Hrofesceastre):遅くとも 880年頃から司祭をしていた。アルフレッド王が頑張ってラテン語を古英語に翻訳した「牧会規定 (Pastoral Care)」を受け取った一人らしい。(参考:アルフレッド王の「牧会規則」の前文がゲームの予告映像に使われていた、という拙記事
ケント州公のケオルマンド (Ceolmund, ealdorman of Kent/ Ceolmund ealdormon on Cent):詳細不明。ケント関連のチャーター (王の勅令状の紙っ切れ) に、ケオルマンドというセインが何度か出てくるようです。
エセックス州公のバータルフ (ベォトウルフ/ Beorhtwulf/ Bertulf, ealdormam of Essex/ Beorhtulf ealdormon on Eastseaxum):エセックス (東サクソン。テムズ川より北、リー川より東) はデインロウになっている筈ですが、「この3年間」(893~6年頃?) に死んだ「エセックス州公」がいるということは、一部はまだアルフレッド王統治下なのか、一部を取り戻したのか、名ばかり州公なのか。未確認。
ハンプシャー州公のウルフレッド (Wulfred, ealdorman of Hampshire/ Wulfred ealdormon on Hamtunscire):詳細不明ですが、州公ではなくハンプシャー司教に「Wulfsige」さんがいるようです。ウルフシゲさんも「牧会規定」を受け取って、あのねっとりとした前文を読まされた一人。(同一人物かは不明)
ドーチェスター司教のエアルハード (Ealheard/ Ealhard, bishop of Dorchester/ Ealhheard biscop æt Dorceceastre):遅くとも 888年頃からドーチェスターの司教。
サセックスの王付きセインのエアダルフ (エアドウルフ/ Eadwulf/ Eadulf, the king's thane in Sussex/ Eadulf cynges þegn on Suðseaxum):詳細不明。
ウィンチェスター知事のバーンウルフ (ベォンウルフ/ Beornwulf/ Bernwulf, the governor of Winchester/ Beornulf wícgeréfa on Winteceastre):A本 (または Wikisource上のテキスト) は「wicgefera」。「知事」としましたが、「wícgeréfa」は「town reeve」で、街 (wic) の行政官。ウィンチェスターは首都なので「都知事」か。「reeve」は「代官」などと訳されているようです。
王の馬廻セインのエグルフ (エクウルフ/ Ecgwulf/ Egulf, the king's horse-thane/ Ecgulf cynges horsþegn):詳細不明ですが、アルフレッド王が生前に書いた遺書に「Ecgwulfに任せた Hurstbourne南部の私有地 ("sundorfeoh") を~」(※仮訳) という箇所があり、この Ecgwulf と同一人物の可能性 (Keynes & Lapidge)。アルフ王より先に亡くなってしまったエグルフ....。

・ここには:原文は「私は (ic)」が入る。筆者の主語「私」が入るのは、A/B本で見た限りでは、893/894年後半のアルフレッド王がエクセターに向かう記述の「前述のように (as I said before/ swa ic ær sæde)」と、あとは 904年 (905年)の、合計 3か所のみ。 

・イースト・アングリアの、およびノーサンブリアの[異教徒]軍勢 (þa hergas on Eastenglum ⁊ on Norðhymbrum):原文は「the armies of East-Anglians and of Northumbrians」で army が複数なので、前年のようなデインロウ連合軍ではなさそう。※「⁊」はラテン語「et」の短縮記号で、「&」(and/および) の意味。

何年も前に造った船 (the ships [esks] which they many years before built/ ðæm æscum þe hie fela geara ær timbredon):
「船」に「æsc」(esk) が使われているのでメモ。「船」はデインもサクソンも基本的に「scip」(ship) だったのが、ここでは「æsc (複数形 æscum)」。
 「æsc」は古ノルド語「askr/asker」に対応し、現代英語の「ash」=アッシュ/トネリコの木 (ash tree)。(※「灰」は æsce/asce になる?っぽいですがここでは割愛。)
 語解としては『askr から借りた語で、デインの「軍船 (warship)」』 (Swanton) などとあり、引用の近代英訳も敢えて区別して「esk」としている一方、古英語の意味にも単に「」や「(アッシュで作った) 槍 (spear)」、更に「アッシュの木で作った小型の船」の意味が出てくる (Bosworth Toller's) ため、時系列含めてよくわからないので、単に「」と訳しました。
 この箇所だけ「æsc」が使われているのは、後述のアルフレッド王が作らせた「ロングシップ/ langscipu (※scipu は複数形)」との対比か。
<参考> 871年の「アッシュダウンの戦い」の地、アッシュダウン(Ashdown)=「æscesdune」で、アッシュの丘、トネリコの丘。
<余談> イギリス海軍の近代の軍艦に「HMS Esk」(エスク) が何隻かおり、これはケルト系の「川 (river)」を表す語らしいですが、語源確認できず。アイルランド語の eiscir (古アイルランド escir, 英 esker, 氷河の跡の畝状の稜線/地形) か。

・ロングシップ (longships/ langscipu, lange scipu):「ロングシップ」は通常はヴァイキング船に使われますが、ASC上では (A, B本のテキストを見る限りでは) このアルフレッド王が造らせた部分と、E本の序文しか見当たらなかったので、一応メモ。
いずれにせよ、元祖 HMS King Alfred※の爆誕であります!!!
 ※HMS King Alfred (キング・アルフレッド): 1901年に進水 (Lady Wilma Pleydell-Bouverie, Countess of Lathom が命名) した英国海軍のドレイク級装甲巡洋艦。1903年完成。1905年に早速シューバリー沖で座礁して、ヴァイキング・キャンプやアルフレッド王のロングシップの初出動 (後述) との因縁を感じつつ (筆者の個人的な感想です)、1906~10年に中国艦隊の旗艦を務め、その後あちこち配置換えされたり、民間船を2隻ほど沈めてしまったり、Uボートの魚雷に当たったりしながら、大西洋~アフリカ沿岸あたりで働いた後、1920年に引退・売却、オランダで解体されスクラップに。

他に、1939年にブライトン (Hove) に設立された 予備役の陸上訓練施設 ("stone frigate" HMS King Alfred, 1939~1946) と、ポーツマスに移った現役の予備訓練ユニット「HMS King Alfred」。
<訂正>
 過去の文献で「アルフレッド王がロイヤル・ネイヴィー (英国海軍) を設立した」という文言を時々見かける件、アルフレッド王は A.D. 875年にも軍船/海軍 (sciphere) を作っているのでそちらかと勘違いして 875年の訳注に書きましたが、多分この 896年のロングシップ艦隊 (※誇張) の方を指してますね。すみません。
下記、875年の訳注にあった余談をこちらに移しました;
<余談>
この「創設」説は、ポーツマスの海軍博物館の人に聞いたら「聞いたことないね」との事でした。上記の875年に加えて、長兄のアセルスタンも851年に海戦でヴァイキングに勝利しているので、「創設」というのは歴史家の言葉の綾かと。
<蛇足> 1939年に設立された予備役訓練施設「HMS King Alfred」の当時 (旧) の建物は現在は地域のスポーツセンター「King Alfred Leisure Center」となっており、ゴキブリの被害に遭ったりしつつ (英語記事)、もうすぐ取り壊されてシャレオツなレジャーセンター&レジデンス的への再開発の荒波にさらされていますが、2019年の時点では頓挫 (英語記事) しているようです。シブイ建物なので残して欲しい気もする。

▼ 1939~46年まで海軍予備役訓練施設「HMS King Alfred」に使われた建物と、ロビーにある説明文など (撮影許可済み)。ジムやプールがある。場所はブライトンの少し西のHove地域の海岸沿い。

画像1

画像26

▼現在の予備役訓練ユニット「HMS King Alfred」は、ポーツマスにある英国海軍拠点の島 ホエール・アイランドにあります。
Spinnaker Tower に上ると、このように、辛うじて、見えます。)

画像27

・(他より) 高さも勝って [操作性に優れて?] (higher than the others/ hiera þonne þa oðru):「hiera (A本。B本: hearran)」は「heah」(high/高い) の比較級か何かですが、Swanton訳が「responsible」になっているので併記。Swantonの論文「King Alfred's Ships」 に説明があるらしい。未読。
<メモ> A本の「hiera (hieran)」は「聞く、聴く/ listen, hear」で、与格との組み合わせで「従う」だが、与格がない? B本の「hearran」はそのままだと「主/ load, master」? 

・フリジア型ともデイン型とも異なり (nawðer ne on Fresisc gescæpene ne on Denisc):フリジア (Frisia)はフリースラント、現在のオランダ北部海岸のあたり。
 「デイン型」は所謂ヴァイキング船的なデザインとして、「フリジア型」については、コグ船 (Cog/ Kogge) の初期型 (Skuldelev 1のような Knarr型に近かった?)、または「ユトレヒトの古代船 (The Utrecht ship, 10~11世紀頃)」のような形では、などと推測 (Keynes & Lapidge) されておりますが、その他未確認。

▼収蔵されているユトレヒト中央博物館のサイトのページ (英語

▼参考:コグ船 (Cog/Kogge) の系統の カルマー・シップ (スウェーデンのKalmarで見つかった13世紀の船) の模型。10世紀以降の船ですが、9世紀の文書にも言及はあるようです。乾舷の高いラウンドシップで、ロングシップとは対称的。9世紀頃はどのような形状だったか未確認。

 アルフレッド型 (仮)についても、研究者の皆さんが色々推察してますが、例えば バイユー・タピストリーのハロルド王の船なども、1066年以降の絵ですが、11世紀頃まで60オールのロングシップが標準だったようなので、共通点はあるかも知れないようです。

 <参考 その2> 1970年代にケントで見つかった 950年頃小型貨物船、グレイヴニー・ボート (Graveney Boat)の、英語記事PDF (後半に写真などあり) と、発掘当時の映像や再現の様子などをまとめた動画▼。
 発掘地のファーヴァシャム (Faversham) は、ローマ時代以来のシンク・ポート (Cinque Ports, 5つの主要貿易港) に付随の 7都市 ("Limbs”) のひとつ。

外海に通じる河口部 (muðan foran on utermere):この河口 (三角江?) が何処か不明ですが、ワイト島の北のサザンプトン~ソレント水道のどこかの河口部、または プール湾 (Poole、グスルムが籠城していたウェアラム/ Warehamのあたり)、デヴォンのエクセター下流のエクス川河口 (River Exe) などが推定されていますが、現在と地形が違うので、にんともかんとも。

・入り口の部分 (outer part of / uteweardum):河口/三角江 (muðan) の「外側」。
他の船 [イングランド船団] が座礁した:船が長すぎたのか、まだ操船に不慣れで、河口の浅瀬で取り回しがきかなかったのか、初々しい感じ。後年の英国海軍巡洋艦 HMSキング・アルフレッドも就役 2年後ですが座礁したのが、因縁じみていて良い。
何ファーロングも (many furlongs/ fela furlanga):1 ファーロングは 220ヤード、約 201メートル。

王のリーヴのルークマン (Lucumon, the king's reeve/ Lucuman cinges gerefa):詳細不明。「リーヴ (reeve/ gerefa/ 代官)」は流行り病で死んだウィンチェスター知事 (wíc-geréfa) 参照。王領の管理係か何かか (Keyenes & Lapidge)。
フリース人のウルフハード (Wulfheard, the Frisian/ Wulfheard Friesa):詳細不明。この 3人のフリース人はいずれも雇われ船舶技術者とかでしょうか。「フリース人 (フリジア人)」の綴りは Friesa (A本)、Frysa (B本)。
フリース人のエッベ (Ebb, the Frisian/ Æbbe Friesa):詳細不明。読みはアッバとか?
フリース人のエセルヒア (Ethelere, the Frisian/ Æðelhere Friesa):やっぱり詳細不明。
 アッサーによると、アルフレッド王の宮廷は多国籍で、フリース人、フランク人/ガリア人、ウェールズ人、アイルランド人、ブリトン人、ヴァイキング (※英訳準拠) などがいたらしい。("Life" 78節)
王の随臣のエセルファース (Ethelferth, the king's neat-herd/ Æþelferð cynges geneat):引用の英訳では身分が「neat-herd (牛飼い?)」となっていますが、「geneát」は「companion」の意で、お付きの者、随身、お側衆などでしょうか。セイン (thane/thegn) と同等の賠償金 (wergeld/ weregild、 対人賠償の基準額) が設定されている、そういうランクのようです。

満ち潮がまずデイン勢の船に:これまでの記述から考えると、先にイングランド船の方に潮が満ちて来そうな感じなのですが、イングランド船は座礁したのに対して、ヴァイキング船はおそらく自主的に岸に乗り上げているので、枕木を置いていた可能性がある (per Alan Binns) ため、素早く離岸できたのでは、という考察 (Swanton, Keynes & Lapidge) があります。
 <蛇足> ヴァイキング船は 3隻の船で 120名死亡+漕ぎ去る生き残りがいたので、1隻 45人くらいは乗っていたと推定 (Keynes & Lapidge) すると、イングランド船に比べて大きさによる (先に浮く) アドバンテージもそれほどなさそう。船の形状や、地形なども関係していたかも。

20隻は下らない数の船:デイン船のみか、イングランド船と合わせてなのか不明。「海の藻屑と消えた」は意訳。「forwearð (forweorþan)」は perish/消滅する、無に帰す、死ぬ。

王の馬廻セインのウルフリック (Wulfric, the king's horse-thane/ Wulfric cynges horsðegn):詳細不明。アルフレッド王のチャーター (王の勅命状) の立会署名人として何度か名前が出てくるらしい。先に疫病で亡くなったエグルフと同じ役職ですが、後任なのか、ホース・セインが複数いるのか未確認。
・ウェールズ担当官 (Welsh-reeve/ Wealhgerefa):ここにしか出てこない役職名。引用英訳は「viceroy (副王)」となっていますが、原文は「gerefa」で、前述のウィンチェスター知事 (town-reeve / wícgeréfa)  に同じ。ウェールズ代官、ウェールズ奉行など考えましたが、業務内容が不明なので、曖昧訳。ウェールズ ("北ウェールズ") またはコーンウォール ("西ウェールズ") 現地の行政/徴税執行官か、あるいは「王の馬廻セイン」を兼任なら、主に宮廷内でウェールズ人の対応か、など (Keynes & Lapidge)。

**********************************

A.D. 897/878* (エセルヘルム他 1名の死)

この年、ウィルトシャー州公のエセルヘルム* が、夏至の9日前に死去した。また、ロンドン司教のヘフスタン* が世を去った。

A.D. 898. This year died Ethelm, alderman of Wiltshire, nine nights before midsummer; and Heahstan, who was Bishop of London.

<*訳注>
・A.D. 897/8年
: 897年 (A本)、898年 (B本)。
・ウィルトシャー州公のエセルヘルム (Ethelm, ealdorman of Wiltshire/ Æþelm Wiltunscire ealdorman):887年にローマにお遣いに行ったり、893年にバッティントンの戦いに参加していた人。RIP。
・ロンドン司教のヘフスタン (Elstan, bishop of London/ Heahstan, Ealhstan, Lundenne bisceop):Heahstan (A本)、Ealhstan (その他)。ヒアスタン、エルスタン, etc。この人もアルフレッド王の「牧会規定」翻訳本を受け取った。

**********************************

A.D. 900/901* (アルフレッドの死、エセルウォードの乱)

この年、エセルウルフの息子アルフレッドが、万聖節の6日前*死去した*。彼は、デイン支配下の部分を除いた 全イングランド民の王であり、王国を 28年と半年、統治した。
その後、彼の息子のエドワード* が王国を継いだ。

すると、彼 [エドワード] の父方の伯父 [エセルレッド] の息子、エセルウォールド* が、王およびその賢人会議の許可なく*ウィンボーン* トゥインハム* 街 [屋敷] * を占拠した。
そこで [エドワード] 王は軍勢 [民兵軍] を率いて、ウィンボーン近くのバドバリー* まで進み、野営した。
エセルウォールドは、彼に従った者達と共に街 [屋敷] の中に留まり、すべての門扉に (彼に対する) バリケードを築き、「(自分は) ここで生きるか、ここで死ぬか、どちらかだ」と言った。
その一方、彼は夜に紛れて [ウィンボーンを] 抜け出し、ノーサンブリアの [異教徒] 軍の許に向かった。[エドワード]王は彼 [エセルウォールド] を追うように命じたが、追いつけなかった。
そして彼等 [異教徒勢] は、彼 [エセルウォールド] を彼等の王として迎え入れ、従った*

その後、彼等 [王の軍] は、彼 [エセルウォールド] が王の許可なく、また司教達の命令にも反して連れ出した女を捉えた。というのも、彼女はこれ以前に修道女として聖別されていた* からである。

この同年、デヴォン州公のエセルレッド* も、アルフレッド王の [死去する] 4週間前に、世を去った。

A.D. 901. This year died ALFRED, the son of Ethelwulf, six nights before the mass of All Saints. He was king over all the English nation, except that part that was under the power of the Danes.
He held the government one year and a half less than thirty winters; and then Edward his son took to the government.
Then Prince Ethelwald, the son of his paternal uncle, rode against the towns of Winburn and of Twineham, without leave of the king and his council. Then rode the king with his army; so that he encamped the same night at Badbury near Winburn; and Ethelwald remained within the town with the men that were under him, and had all the gates shut upon him, saying, that he would either there live or there die. But in the meantime he stole away in the night, and sought the army in Northumberland. The king gave orders to ride after him; but they were not able to overtake him. The Danes, however, received him as their king. They then rode after the wife that Ethelwald had taken without the king's leave, and against the command of the bishops; for she was formerly consecrated a nun. In this year also died Ethered, who was alderman of Devonshire, four weeks before King Alfred.

<*訳注>
・A.D. 900/901年: 900年 (A本)、901年 (B本)。アルフレッドの没年は 899年。※898~899 (899~900)年の2年間は記述なし。
・万聖節の6日前:10月26日。万聖節/諸聖人の日 (All Saint's Day) は 11月 1日 (ハロウィンの翌日)で、その 6日 (six nights) 前で 10月26日。没年は 899年ですが、当時の暦の数え方等により 900/901年になっています。アルフレッド信者の祝日です。毎年祝ってください。
死去した :つらい。なんだかんだと兄達より長く生きた。お疲れ様でした。
 <余談> ASC上で人が死んだ時の動詞には、おおむね「gefór (gefaran: they/he/she died)」と、「forþferde/ forðferdon (forþferan: he/she departed / they departed)」の2種類が多いです。区別はようわからんですが、アルフレッドは gefor Ælfred。

<アルフレッドの遺骨の流転>
 アルフレッド王は死後、当時ウィンセスターにあった教会、通称オールド・ミンスター (Old Minster) に埋葬されましたが、新たに建設予定の通称ニュー・ミンスター (New Minster) への埋葬を望んでいたので、息子のエドワードが完成させた後、902年に死去した妻エセルスウィスと共に、そちらに改葬 (1回目)。
 その後、ヘンリー 1世の命令によりニュー・ミンスターは廃止して郊外にハイド・アビーを建てたので、1110年頃にアルフレッド、エセルスウィス、エドワードの3人もここに改葬 (2回目) される。
 しかし16世紀のヘンリー 8世&トマス・クロムウェルのコンビの僧院大破壊キャンペーンにより、ハイド・アビーも廃院。アビーの跡地はヴィクトリア時代の軽犯罪刑務所になったりして、アルフレッド一家の遺骨は行方不明に。
 2010年にハイド・アビー設立 900年を記念して創られた「Hyde 900」という現地の発掘グループが、調査など開始。
 で、色々あって、ハイド・アビーの近くに現在立っている聖バーソロミュー教会の無銘墓にあった骨が、アルフレッド王の骨では?! という調査2014年頃に行われ、~中略~ 色々あって、「多分、アルフレッドかエドワードの骨の可能性が高い」腰骨が特定されるに至った!!んですよ!!ウワー!(しかし比較するDNAサンプルが無いため確定できていない) 

▼という経緯を追ったBBCのドキュメンタリーがこれ。(英語ですが、字幕 [CC] をONにして設定から言語を日本語にすると、自動翻訳が付きます)
Hyde900の皆さんが映っていてほっこり。(地元密着型グループです)

▼上記の動画でも紹介されている、オールド・ミンスターのあった場所。現在、ウィンチェスター大聖堂の横にレンガで示されている。ニュー・ミンスターは更に左側 (北側) に位置していたが、ノルマン式のウィンチェスター大聖堂に取って代わられた。

画像4

▼ハイド・アビーの門 (門番小屋) の部分だったハイド・ゲート。

画像8

▼ハイド・アビーのあった場所にあるハイド・アビー・ガーデンの、アルフレッド、エセルスウィス、エドワードの墓を模したモニュメント (実際の推定位置とは異なります) と、祭壇の位置を示したガラス板。聖バーソロミュー教会では毎年アルフレッドの命日前後にミサを行い、墓に献花します。筆者は2018年にアルフレッドの墓 (中央) に献花させていただき、感無量。

画像6

画像8

▼聖バーソロミュー教会。アルフレッド王の命日の週末に行われる地域イベント「アルフレッド・ウィークエンド」の会場のひとつ。

画像8

エドワード (Edward/ Eadweard):エドワード長兄王/大エドワード(Edward the Elder)。戴冠式は 900年 6月 8日。ASC上ではここで名前が初出だと思います。

エセルウォールド (Ethelwold, Æthelwald/ Æþelwold):エセルレッド (Aethelred, エドワードの伯父、アルフレッドの) の次男
 ※エセルレッドの子孫 (自称) で約100年後にラテン語版クロニクルを書いたのはエセルウォード (Æthelweard)。非常に紛らわしいが別人
 本来は (エグバート以降のウェセックス王家では) 父系の息子が王位を継ぐルールなので、エセルレッド兄王の死後の正当な後継者は、その息子のエセルヘルム (Æthelhelm, 長男、ウィルトシャー州公とは多分別人) またはエセルウォールドだったが、エセルレッドが死んだ時にはこの兄弟がまだ幼く、ヴァイキング勢とガチンコ抗争中だったため、例外的にアルフレッドが王位を継いだ。
 ので、アルフレッドの息子のエドワードではなく「俺が王位継承者だぜ!!」という、クーデターというか、まぁ真っ当な主張。※長男のエセルヘルムが主張していないのは、これ以前に死去している可能性。
 なお、872~888年頃に書かれたアルフレッド王の遺書によると、兄王の死後のアルフレッドの王位継承時にも、恐らく上記のような理由で異議が多々あったのを、アルフレッド側が押し切ったような形跡があります。

▼ドラマ「ラスト・キングダム」のエセルウォールド。王位を不当に奪われたプリンス (アセリング/Atheling) として、野心と韜晦で色々とずる賢く立ち回る役どころになっています。ドラマでの年齢設定は実際よりも年上。(原作小説でも父エセルレッド死去時に14歳)

許可なくA本では「王の許可なく (without that king's permission/ butan ðæs cyninges leafe)」ですが、B, C, D本 (正確には MS A, MSS B, C, D) では「王の意思/遺志 に反して (þæs cinges unþances/ that king's ill-will) 、つまり「アルフレッドの遺志に反して」と読めるようです。上記エセルウォルド訳注参照。※「unþance」は「怒り、不興、不快」の意味もあり。

・ウィンボーン (Wimborne/Winburnan):ウィンチェスターから南西に約 55kmの街。ウィンボーン・ミンスターにはエセルウォルドの父、エセルレッドが埋葬されている。A.D. 871参照。
・トゥインハム (Twynham/ Tweoxneam):ウィンボーンから南東に約 17km、現在のハンプシャーのクライストチャーチ (Christchurch)。「バーガル・ハイディッジ」で指定されている城塞都市 (burh/ バラ) の一つ。
街 [屋敷] * (towns/ ham) :街、または住居、屋敷 (residences, manor)。
バドバリー (Badbury/ Baddanbyrig):ウィンボーンの北西約 6kmにあるBadbury Rings。鉄器時代の円環状の砦の跡。
彼等 [異教徒勢] は、彼 [エセルウォールド] を彼等の王として迎え入れ、従った (⁊ hie hine underfengon heom to cinge ⁊ him to bugan.):A本には無い記述。 (※正確には MS A, MSS B, C, Dのみ) 
 エセルウォールドについての記述はこの後、写本によって前後して時系列の整理が面倒なので一旦割愛しますが、エセックス、イーストアングリア、マーシア等で反乱を続けた後、C本 902年のホルムの戦いで戦死した様子。
修道女として聖別されていた:アルフレッドの制定した法典の第 8条 (8. Be ðam þe nunnan of mynstre ut alædeð) に、許可なく修道女を尼僧院から連れ去った場合の罰金 120シリング(半額を王に、もう半額を司教および/または修道院長に支払う) が定められている。

・デヴォン州公のエセ(ル)レッド (Ethered, Æthelred/ Æþered, Defnum ealdormann):詳細不明。マーシア公のエセルレッド (アルフレッドの義理の息子) 等とは別人。

**********************************

A.D. 902* (エルスウィスの死、ホルムの戦い)

この年、エルスウィス* が世を去った。
また、同年、ホルム*に於いて、ケント勢とデイン勢の間で戦いがあった。

A.D. 902. This year was the great fight at the Holme (39) between the men of Kent and the Danes.

・902年:この記述は C本 (Abingdon II) から。ここまで引用している近代英訳 (Ingram/Giles版) とは異なりますが、一旦区切りをつけるため押し込みました。
・エルスウィス (エルスウィサ/ Ealhswith, Elswitha/ Ealhswiþe):アルフレッドの妻。マーシアのガイニ族 (Gaini) の貴族、エセルレッド (別名Mucil/ Mucel、Æthelred Mucel) の娘。(※兄王のエセルレッドとは別人。念の為。)アッサーによるアルフレッド王の伝記 29節参照。
 前後しますが 901年 (ASC A本 903/902?年、B本 903年) に、エルスウィスの「兄弟 (brother/broðor)」で州公のエセルウルフ (Æthelwulf/Aþulf )が死去した記載あり。
 ウィンチェスターのオールド/ニュー・ミンスターの近くに、尼僧院 ナナミンスター、後の聖マリア修道院 (Nunnaminster/ St Mary's Abbey) を設立。(899~903年頃?)
 ドラマ「ラスト・キングダム」のエルスウィスみたいに意地悪だったかは不明。「ヴァイキング~海の覇者たち~」ではジュディスの姪という設定 。

▼ウィンチェスターのアルフレッド王像の隣にある公園アビー・ガーデンズ (ハイド・アビー・ガーデンとは別) とギルドホールの間にある、ナナミンスター跡の展示。奥の方に石棺が見える。

画像9

画像10

ホルム (ホーム/ Holme/ Holme):場所不明。ケント領内か、あるいはピータバラの南 11km の Holme村などが推定されている。このホルムの戦いでエセルウォールドが死亡、クーデターは終了。
<余談> 前項でエセルフォールドが連れ出した修道女が捕まってますが、もし駆け落ちが成功した場合にも、連れ出した男 (エセルウォールド) が修道女より先に死んだ場合、男の財産の相続権は (元) 修道女には与えられない、という規定 (アルフレッド法典 8条 附則) もあります。細かい。

**********************************

【879~902年ここまで】 

アルフレッド時代が終わったので、ASC翻訳は一旦ここで休憩します。気が向いたらまた追加するかも知れません。(多分アッサーのアルフレッドの伝記の翻訳をもう少しやってから...)
 色々と雑な翻訳ですが、もし追加ご希望の年などがありましたら、お知らせください。 (2020 Dec 13)

いいなと思ったら応援しよう!

アルフ巡礼者 / Alf Pilgrim
もしお気に召しましたらチャリ銭などいただけますと、諸作業が捗ります!