【アサクリ】ラテン語碑文メモ【ヴァルハラ】
9世紀後半が舞台のゲーム「アサシン クリード ヴァルハラ」内のルーンストーンについて別記事で書きましたが、
ローマ時代の名残りのラテン語碑文の石碑もいくつか転がっているので、こちらも雑にあれこれ覚書き。
※ ちゃんとした解説はそのスジの人がとっくにやっていると思いますので、素人のメモです。
なお、ブリテン諸島のローマ碑文・石碑 については、「Roman Inscriptions of Britain」(1965年に刊行され増補改訂されている書籍のオンライン版。以下適宜「RIB」) が必携っぽいです。
この記事でも、RIBを多く参考・引用しています。
◆アテネ出身ロンドン在住ギリシア人男性の墓石
この石碑の元ネタは、ロンドンのタワー・ヒル (Tower Hill) のあたりで見つかった墓石。
実際はもっと細長い石碑ですが、文字部分を抜粋してゲーム上の石碑デザインに嵌め込んでいます。
(※ 石碑自体の形状やレリーフの元ネタは未確認。)
作成年代は「43~410年」頃となっているので、ローマ支配時代のいつか、としかわからないようです。
▼大英博物館所蔵。写真: © The Trustees of the British Museum
▼「Roman Inscriptions of Britain」(RIB) の方が、発掘位置などがわかりやすいです。(RIB #9)
【文面】
文面・英訳は RIBまたは所蔵博物館のページより。
下記は略語バージョン。詳細は上記 RIBを参照ください。
ローマ碑文、大文字縛りでめいっぱい書くせいか、省略が多いですね...。携帯メールのショートハンドっぽさがあります。
A ALFID POMP
OLVSSA EX TES
TAMENTO HER
POS ANNOR LXX
NA ATHENI
H S EST
【碑文の英訳・和訳】
Aulus Alfidius Olussa, of the Pomptine voting-tribe, aged 70, born at Athens, lies here; in accordance with his will his heir set (this) up.
「アテネ生まれ、ポンプティナ投票区 (トリブス) のアウルス・アルフィディウス・オルッサ、70歳、ここに眠る:
彼の遺言に従い、後継者が (この石碑を) 建てた」
【被葬者について】
お墓の主はアウルス・アルフィディウス・オルッサ (Aulus Alfidius Olussa)さん。享年70歳、男性。
※「U」は「V」字体で記載されます。(あと「J」は「I」で代替とか。)
アテネ出身なので、ローマ支配下の「ギリシャ人」ということでしょうか。
ポンプティナ区所属のローマ市民権 (投票権) を持ち、同じくローマ支配下のブリタニアのロンドン、つまりロンディニウム (Londinium) にいて亡くなったようですが、経緯は不明。
跡継ぎ (息子さんかどなたか) がお墓を立てたようです。
ポンプティナ投票区 (tribus Pomptina/ トリブス、所属区) は、現在のローマ市街の南東部、アルバノ丘陵地 (カーヴォ山 Monte Cavo のあたり) とティレニア海の間の地域「agro Pomptino」に制定された区画 (参照元、英語) らしいです。
住民票は本国にありつつ、ブリタニア赴任/在住、という感じでしょうか。
※このへん、お恥ずかしいほど知識がないので、間違った表記/認識をしてたらご容赦ください。
【アサクリ的視点】
ギリシャ人と言えば「アサクリ」シリーズ的には「アサシン クリード オデッセイ」。
とは言え筆者は未プレイなのでよくわかりませんが、「オデッセイ」の舞台は紀元前 (BC/ BCE) 431~422年頃、この墓石は 紀元後 (AD/ CE) のローマ時代なので、時代はかなり異なります。
ただし、イングランド南部やアイルランドでミケーネ文明時代 (紀元前 16~11世紀) の遺物が見つかっているので、すでに交易などにより、ギリシャ人またはその文化が到達していたようです。
いずれにせよ、こういう細かいネタの仕込み方、面白いです。
【位置的なメモ】
タワー・ヒルは現在のロンドン塔の北あたりの地域ですが、
ローマ支配下のロンディニウム (Londinium, A.D. 47~50年頃~、5世紀の撤退に伴い放置) だった当時はローマ城壁 (東側) があり、集落 (60~61年頃のブーディカの乱で焼かれたらしい) や「東部墓地」があったようです。
RIBの地図を見ると、どちらかというとロンドン塔の西側で発掘されたようなので、城壁の内側でしょうか。
▶ ロンディニウムとロンドンの位置の対比 (英語) の例
【参考】
▼ローマ時代のロンディニウム、その後のサクソン時代のルンデンウィッチ、およびアルフレッド王が整備・城壁強化したルンデンバラの位置関係のかなり雑な図、再々使いまわし。
※わかりづらいですが、黒文字は現在のランドマークです。
◆ロンドン在住 19歳女性の墓石
碑文の元ネタは、ロンドンのセント・ポール大聖堂の西、ブラックフライアーズ橋の北あたりで見つかった墓石で、実物は六角柱の石の一面に彫られています。
製作年代は、同じロンドン博物館内のページでも「65~100年 (A.D.)」だったり「150 AD - 200 AD」だったり雑ですが、いずれにせよ、ローマ支配 (属州) 時代の最初期、1世紀後半あたりのようです。
▶ロンドン博物館所蔵。※写真の転載許可がないので、リンク先で御覧ください。こちらの記事 (英語) でも触れられています。
▼ 同、ロンドン博物館の画像検索ページの方が情報が詳しく、ゲーム内画像に近いサンプル画像があります。
▼ 同、Roman Inscriptions of Britain 。(RIB #21)
Drawn by R.G.C. (Robin George Collingwood), 1923. ※著作権保護期間経過
【文面】
D M
CL MARTI
NAE AN XIX
ANENCLE
TVS
PROVINC
CONIVGI
PIENTISSIMAE
H S E
【英訳・和訳】
To the spirits of the departed (and) to Claudia Martina, aged 19; Anencletus, slave of the province, (set this up) to his most devoted wife; she lies here.
「この世を去った者達 (と) クラウディア・マルティナ、19歳、の魂に捧ぐ;
(この石碑は) 属州の奴隷であるアネンクレトゥスが、その非常に献身的な妻のために (建立した);
彼女はここに眠る。」
【埋葬者について】
19歳の妻クラウディアさんを亡くした夫、アネンクレトゥス氏は、属州会議 (Concilium provinciae) 関連で仕事をしている奴隷のようです。したがって クラウディアさんも同じような身分 (奴隷) だったはず。
※これはいくつか見方があり、アネンクレトゥス氏が奴隷としてはかなり身分が高く、非奴隷 (ローマ市民) のクラウディアさんと結婚できるほどだった、という解説も見かけます。
もし奴隷であれば、名前から察するにクラウディアさんの主人 (所有者) は マルティヌス (Martinus) さんでしょうか。(もしローマ市民だった場合は、父親がClaudius Martinus?)
ともあれ、上記のアウルスさん (ローマ市民、男性、高齢者) と色々と対照的です。
なお、アネンクレトゥス (Ἀνέγκλητος) も ギリシャ系の名前っぽい?ような気がしますが、このへんも、グレコ・ローマン文化の勉強不足でよくわかりません...。
【位置的な雑メモ】
発見された場所 (Ludgate Hill) は、当時のロンディニウムのフリート川 (River Fleet) 河畔、西部墓地のあたりのようです。
(2,000年の間にあちこち移動した可能性もありますが。)
他の記事でも書いた気がしますが、「アサクリヴァルハラ」ゲーム内のルンデン (Lunden) の西側の城壁周辺に小川が流れており、明記されてませんが、恐らくこれが フリート川。(上の地図参照)。
現在は暗渠になりつつ現存しており、おなじく暗渠になっているウォルブルック川 (River Walbrook) と合わせて、かつてのロンディニウム/ルンデンバラ市内を縦走する 2大河川のひとつです。
時代が下ると下水用のドブ川になり果てましたが、当時はまだ生活用水とかだったんでは。ゲーム内では既にドブ川っぽいですが...。
◆ ヨークの荒神様の神棚
オリジナルは、現在のヨーク駅の南の聖メアリ修道院 (St Mary's Convent、現在の The Bar Convent?) にあった「祭壇/alter」で、現在はヨーク博物館に展示されています。
▼ヨーク博物館より。© York Museums and Gallery Trust 2021 (CC BY-SA 4.0)
▼ 採取位置など追加情報 (RIB #652)
【文面】
G IVLIV
CRESCENS
MATRI
BVS DO
MESTICIS
V S M L
【英訳・和訳】
Gaius Julius Crescens to the Mother Goddesses of the household deservedly and willingly fulfilled his vow.
「ガイウス・ユリウス・クレッセンスは、家庭の地母神達に、相応たる誓いを、自ら進んで捧げた」
「地母神達」としましたが、「Mother Goddesses」(母なる女神たち) は、ケルト系の 3人組の女神 Matres (マトレス) で、1~5世紀頃の北西ヨーロッパ地域で人気があったそうです。荒神様トリオですかね。
神棚っぽいものじゃないかと思いますが、翻訳・解釈ともに過誤がありましたらご容赦ください。
【位置的メモ・雑感】
見つかった場所は、ローマ時代の城塞都市だったヨーク (York)、当時の呼び名で「エボラクム/ Eboracum」(ゲーム内の「ヨーヴィック/ Jorvik」) の、ウーズ川 (River Ouse) を挟んだ西側地域。
当時はどこにあったか不明ですが、「発見」時 (1880年) は、現在も残っている城壁の外側 (Micklegate Barより西) の St Mary (The Bar) Convent にあったようです。
元々そこに家があったのかもしれませんが、後年の街の拡大に伴い、建築資材として再利用のために「市街」に持ち出されたのかも知れません。
【蛇足】
単に名前繋がりですが、同名 (多分別人) のガイウス・ユリウス・クレッセンスさんを追悼する石碑 (A.D. 191年制作) というのがギリシャで発掘あるようなので、一応リンク。文面もギリシャ語。
ロバと荷車のレリーフが味わい深いです。
◆ ヨークシャーの、ローマ皇帝達に捧げる石碑
文字部分はヨークシャー西部のローマ時代の城塞都市があった街、イルクリー (Ilkley) で見つかった石板。
17世紀初頭 (1603年頃) まで地域の教会の外装に使われていたようですが、その後、改修工事か何かの時に失われてしまったようです。
石板の年代は A.D. 161~169年頃。
※この他 (後述) にも、現在では失われてしまった石碑をベースにしているものがあり、ゲームの中で復元しようとしているのかも知れません。
▼現物がないのでスケッチのみ。
John Horsleyのスケッチ (?) から。 (RIB #636)
【文面】(これより上部は欠損)
RVM CAES
AVGG
ANTONINI
ET VERI
IOVI DILECT
CAECILIVS
LVCANVS
PRAEF COH
【英訳・和訳】※和訳は仮訳
For the welfare of the Emperor-Caesars, our August Ones, Antoninus and Verus, beloved by Jupiter, Caecilius Lucanus, prefect of the cohort, (set this up).
「我等が貴き(*1) 皇帝カエサル両陛下(*2)、ジュピターに愛されしアントニヌス (*3) およびウェルス(*4) の安寧を祈念し、
コホルス(*5) のプラエフェクトゥス(*6) である カエシリウス・ルカヌス(*7)(が、この石碑を建立した)。」(仮)
このへんも知識欠如が激しく、上記英訳を元にした和訳が怪しいのですが、以下、自分のメモを兼ねて、訳注に覚え書きします。
※ド素人の勘違いが多いと思いますので、眉唾で読んでください。
*1: 我等が貴き (Augustorum/ our August Ones):
英訳の「August Ones」は初代皇帝アウグストゥス (Caesar Augustus)と、それに連なる皇帝たちの血統を意味し、転じてラテン語で「帝国の/王室の (imperial/ royal)」という意味があるので、このようにしました。
【余談】英語の「August Ones」は中国の伝説上の三皇五帝の「三皇」の英訳としても出てくるので、時代的にローマの五賢帝と引っかけてあるのかと一瞬思いましたが、「五賢帝」の概念は 16世紀以降なので、関係なかったです。浅薄。
*2: 皇帝カエサル両陛下 (Imperatorum Caesarum):
この「カエサル」はローマ皇帝の称号の方。とは言え、やっぱり元はガイウス・ユリウス・カエサル (ブルータスに刺されたジュリアス・シーザー)。
「インペラトル (imperator)」も、元は「征夷大将軍」みたいな役職名らしいですが、皇帝の尊称。
「Imperator Caesar」(インペラトル・カエサル) で「皇帝皇帝」というか、「おみおつけ」みたいな重複表現じゃないかと思います。
で、複数形なので、意訳して「両陛下」としました。
*3: アントニヌス (Antonius):
おそらくローマ皇帝 アントニヌス・ピウス (Antoninus Pius)。A.D. 161年没。
「テルマエ・ロマエ」の映画版では宍戸開が演じてた人。
*4: ウェルス (Verus):
ローマ皇帝 ルキウス・ウェルス (Lucius Aurelius Verus, ルシウス・ヴェルス)。
アントニヌスの後継であり、マルクス・アウレリウスとの共同皇帝。在位 A.D. 161~169年。(石碑の年代の根拠と思われます)。
「テルマエ・ロマエ」映画版で北村一輝が演じたケイオニウスの息子。(幼名は父子ともルキウス・ケイオニウス・コモドゥス (Lucius Ceionius Commodus) で紛らわしい。)
▲ この2人 (アントニヌスとウェルス) のみが併記で マルクス・アウレリウス (とハドリアヌス帝) が並んでいないのがよくわかりませんが、
ブリタニア (ゲーム内の「イングランド」) にハドリアヌスの長城があるので、その関係でしょうか。
*5: コホルス (cohors/ cohort):
ローマ軍の「レギオン」の構成単位。
人数は時代によって変わり、2世紀頃は 400~500人くらい?っぽい。現代の「大隊 (Battalion)」に相当。らしい。
*6: プラエフェクトゥス (praefectus/ prefect):
隊長とか長官とか、そういう感じのリーダー職。
「コホルスのプラエフェクトゥス (praefectus cohortis)」は、恐らく「大隊長」っぽい立場。
*7: カエシリウス・ルカヌス (Caecilius Lucanus):
マーヴェルの「ドクター・ストレンジ」のカエシリウス (Kaecilius) とは多分関係ない。
このカエシリウス (カエキリウス?)大隊長 さんが皇帝の安寧/繁栄を祈念して石碑を作ったっぽいですが、ローマの皇帝崇拝とか、そういうアレでしょうか。
なお、John E.H. Spaul によると、カエシリウスさんはブリタニアに駐屯していた「Cohors II Lingonum」(リンゴン第2大隊/ Second Cohort of Lingonians) の隊長だったのでは、との事。
石碑の見つかったイルクリーでは他のリンゴン第2大隊長たち (Praefectus cohortis II Lingonum) が建てた石碑もいくつか記録されているようです。(RIB #635, RIB #798, RIB #800)
※「リンゴン族/リンゴネス (Lingones/ Lingonians)」は、ガリアの古い一族で、現在のフランスのラングル (Langres) のあたりのグループ。
◆台座と境界石の魔合体 (解放奴隷つながり?)
これは 2つのまったく異なる石碑を組み合わせてあります。
▶ 上部の2行は、墓地の境界石 (境界標/ boundary marker)で、イギリス南部サリー州のエングルフィールドで発見されていますが、
元々ブリタニア (ブリテン島) 以外の場所に設置されていた物が、近代になってから持ち込まれた可能性あり、との事。制作年代不明。現在は個人蔵。
▶ 残りの5行は石像の台座 (statue base)で、18世紀頃にヨークで存在が確認されたものの、現在は失われているようです。
■ 上部:墓地の境界石
Q VIBENNIVS
Q L IVCVNDVS
【英訳・和訳】
Quintus Vibennius Iucundus, freedman of Quintus.
「クイントゥスの解放奴隷、
クイントゥス・ウィベニウス・ユークンドゥス」(?)
元々ブリタニアにあった石碑ではないようなので、この碑文を使った理由がよくわかりませんが、
イギリスやアメリカでよく使われているラテン語の教科書「ケンブリッジ・ラテン語講座 (Cambridge Latin Course, CLC)」の主人公が、ポンペイの銀行家のルシウス・カエシリウス・ユークンドゥス (Lucius Caecilius Iucundus) で、息子の名前がクイントゥスのようなので、
多少かすっているというか、ラテン語界隈のネタなのかも。
【名前メモ】
解放奴隷 (libertus) で 3要素 (固有名・氏族名・家族名の tria nomina) なので、
奴隷時代の名前 (固有名のみ) がユークンドゥス (主人のユークンドゥス・クインティ/ Iucundus Quinti ?) で、
解放時に 主人(所有者)の クィントゥス・ウィベニクス・[ナントカ]さんの固有名と氏族名を貰って クイントゥス・ウィベニウス・ユークンドゥスと名乗った (?)
▶参考元:河島思朗氏 Via della Gatta
そう言えば「テルマエ・ロマエ」の主人公ルシウスのミドルネーム (氏族名) も「クイントゥス」でした。 (全部「テルマエ」基準ですみません)
▼参考 (RIB #2317)
■ 下部:石像の台座 の文面
BRITANNIAE
SANCTAE
P NIKOMEDES
AVGG NN
LIBERTVS
【英訳・和訳】
To Holy Britannia Nikomedes, freedman of our Emperors, set (this) up.
「神聖ブリタニアに (奉ずべく)
我らが諸皇帝の解放奴隷である ニコメデスが、(これを) 建立した。」
元々は銅像か石像を乗せていたらしいですが、制作年代はローマ属州時代のいつか (A.D. 43~410) で詳細不明。
発見場所は上記の「神棚」と同じくヨークの西側地域で、こちらはローマ城壁内。
上部と合わせて解放奴隷つながりでしょうか。
「ニコメデス」も古代ギリシア系の名前 (Νικομήδης )?らしく、B.C. 74年にローマ属州となった小アジアの ビシニア/ビテュニア王国 (Bithynia、現在のトルコ北部に位置) のニコメデス王など。
これが固有名/氏族名/家族名のどれに該当するか不明で、フルネームがわかりませんが、もしかしたら現物 (現在は逸失) にはイニシャルが書かれていた可能性。
「我らが諸皇帝/ our Emperors/ Augustorum Nostrorum」部分は複数形なので、同じくヨークシャーで見つかった石板 (上記、イルクリーの皇帝万歳石碑) と同じパターンかと思いましたが、制作年代が詳細不明なので、単に皇帝一族 (?) のことか。
「神聖ブリタニア/ Britannia Sancta」については RIB 2411.33 に説明があるようですが、オンライン版はまだページが立っていないので、未確認。
【余談】
18世紀のローマ・カソリック教会司教 リチャード・チャロナー (Richard Challoner) が、ブリテン島嶼の聖人についての本「Britannia Sancta」を著している。
取りあえずおわり。勉強になるなぁ。