「アングロサクソン年代記(クロニクル)」抜粋抄訳 (序/787~845年)
2020年11月発売予定【訂正:2020年11月10日に無事発売されました】のUbisoftのゲーム「アサシンクリード:ヴァルハラ」が、9世紀後半のイングランド、正にアルフレッド大王の時代&地域がドンピシャで舞台のようなので、
折角なので、その辺を描いた歴史資料のひとつで、アルフレッド王チームが起稿した(と思われる)「アングロ-サクソン年代記(クロニクル)」から、ヴァイキング関連の部分を日本語訳したいと思います。
<目安>
下記からの「概要」が長いので、適宜「本文」に飛んでください。 ヴァイキング関連は「A.D. 787」以降。
【改訂・追加履歴】
Rev.0:878年まで翻訳、公開。(2020/10/26)
Rev.1:879~882年追加、微修正 (2020/10/30)
Rev.2:883~886年追加、微修正 (2020/11/1)
Rev.3:887~892/3年追加、ページ分割、追記・修正 (2020/11/10)
Rev.4:893/4~895/6年追加、追記・修正 (2020/12/4)
Rev.5:896/7~902年追加、追記・修正 (2020/12/13)【一旦ここまで】
Rev.6:46年の未訳部追記。(2020/6/13)
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【概要と注意】
◆本文は「Anglo-Saxon Chronicle」(「アングロ-サクソン・クロニクル」/「アングロサクソン年代記」etc、以下 ASC)の近代英訳版からの、抜粋・抄訳です。適宜修正・加筆します。
◆ 基本的に787年~902年前後の抜粋です。ヴァイキング (デイン) およびウェセックス勢 (アルフレッド王まで) の動きを中心に拾っています。
(デイン勢の動きは902年以降もありますが、今の所、取りあえず。)
※ ASC全体では A.D. 1年~1154年?くらいまであります。
◆ あまり「激闘!デインvsアングロサクソン」に関係ない部分は未翻訳です。気が向いたら翻訳次第、追加します。
逆に、範囲外でも、参考までに翻訳を入れてある年もあります(気分次第)。
◆各年の項にある副題(カッコ内)は、便宜的に訳者がつけたものです。原文にはありません。
例: A.D. 1 (ジーザス爆誕)
【注意】
素人が片手間に訳しているものですので、間違いや勘違いなどが大変、非常~に、かな~り、多いと思います。ざっくり参考程度にお読みください。
きちんとした内容は、関連書籍や論文が (日本語も含めて) 多々出ていますので、そちらを当たってください。
>> 参考文献の詳細はこちらのページ
もし間違ってガチの専門の方が御覧になりましたら、生温か~い目で見守っていただければ幸いです。
日付なども(色々な異本や誤記があり、暦も当時と異なるため、確認が面倒なので)あまりきちんと整合させていません。
※数年前後する場合があります。
また、今回は一次訳としたく、あまり意訳せずに近代英訳版の直訳を心掛けていますが、気を抜くと雑になります。
おかしな点がありましたら、直接原文(古英語・近代英語訳)を当たっていただければと思いますが (下記「参考文献」および補足説明ページを参照下さい)、
明らかな間違いやお気付きの点はご指摘・ご指導いただければ幸いです。
【参考文献】
翻訳のベースとした19世紀の近代英語訳はこちら(大元は古英語):
"The Anglo-Saxon Chronicle" by J. A. Giles and J. Ingram (1823) (Project Gutenberg)
※この英文を、和訳各項の訳文の後に引用してあります。
※あくまでASCの近代英語訳の一例です。
※英訳文は下記「参考(別バージョン)」の Wikisource (1847)版 の方が解りやすいです。
>参考(別バージョン):J.A. Giles, New Edition (1847, 1914) (Wikisource)
◆その他の参考文献(古英語版)、語彙などについては、
>>こちらを参照ください<<
【ASCのバージョン、および注釈について】
ASCにはいくつかの写本・異本が現存しており、これぞれに異なる部分がありますので、記載や年号にバリエーションがあります。
また、上記の翻訳原文も、あくまで一例です。
ですので、この近代英語原文以外の資料から補足・追加する場合がありますが、調べるのがめんどくさいので原文ママにすることもあります。
随時、訳注を「*」で表示していますが、きちんと脚注番号を振っていないので、適宜、近くから探してください。
とりあえず翻訳速度重視で、あまり引用・参照元を明記できておりません。すみませんがご了承ください。
▲サットン・フー船墓の布製の鞘。7世紀。British Museum
(トップにあるベルトバックルも同展示より)
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◆以下本文◆
「アングロ-サクソン・クロニクル」抜粋
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(序文 1*: ブリテン島はじめて物語)
ブリテン島は南北 800マイル、東西200マイルの島である。
島内には5つの国家(言語)が存在している;イングランド語/English、ウェールズ語/Welsh(またはブリトン語/ British)、スコットランド語/Scottish、ピクト語/Pictish、ラテン語/Latin。
最初の住民は、アルメニア* から来たブリトン人で、まずブリテン島の南部に定住した。その後、スキタイのピクト人*が南から、数隻の(多くはない)ロングシップでやってきた。彼等は最初はアイルランド(ヒベルニア)の北部に上陸し、[訳注:先住していた] スコットランド人達*に、この地に住まわせて欲しいと熱心に頼んだが、全員一緒に住むのは無理だと、[訳注:スコットランド人はピクト人を] 受け入れなかった。
スコットランド人達は続けて、「しかしながら、アドバイスは与えよう。東の方に別の島があるので、望むならそこに住まうとよいだろう。もし抵抗する者があれば、お前たち(ピクト人)に服従するように、我等が援護する」と言った。そこでピクト人達は、ブリテン島の北部を征服した。
(ブリテン島の)南部については、前述のようにブリトン人が所有した。
ピクト人達は、「(ピクトの)王は必ず女系(母方)から選ぶこと」という条件の元に、スコットランド人達から妻を娶った。それ以来、彼等は現在でもそのようにしている。
その後、年月が経ってから、スコットランド人のいくつかのグループがアイルランド(ヒベルニア)を離れてブリテンに移住し、ある程度の土地を征服した。彼等のリーダーはレオダ (Reoda) と言い、そこから「ダルリアダ (Dalreodi)*」(またはDalreathians)と名前が付いた。
The island Britain(1) is 800 miles long, and 200 miles broad. And there are in the island five nations; English, Welsh (or British) (2), Scottish, Pictish, and Latin. The first inhabitants were the Britons, who came from Armenia (3), and first peopled Britain southward. Then happened it, that the Picts came south from Scythia, with long ships, not many; and, landing first in the northern part of Ireland, they told the Scots that they must dwell there. But they would not give them leave; for the Scots told them that they could not all dwell there together; "But," said the Scots, "we can nevertheless give you advice. We know another island here to the east. There you may dwell, if you will; and whosoever withstandeth you, we will assist you, that you may gain it." Then went the Picts and entered this land northward. Southward the Britons possessed it, as we before said. And the Picts obtained wives of the Scots, on condition that they chose their kings always on the female side (4); which they have continued to do, so long since. And it happened, in the run of years, that some party of Scots went from Ireland into Britain, and acquired some portion of this land. Their leader was called Reoda (5), from whom they are named Dalreodi (or Dalreathians).
<*訳注>
※この序文はアングロサクソン・クロニクルの複数のマニュスクリプトの内、1種類 (I, Easter Table) にしか記載されておらず、ASC以前の複数の歴史書の内容をまとめて追記したようですが、参考までに入れておきます。
・アルメニア (Armenia):アルモリカ (Armorica) の誤記の可能性 (後述)。アルモリカは現在のフランス(当時の「ガリア」)のブルターニュ (FR: Bretagne/ EN: Brittany) 地方。この地域は実際にブリトン語のエリア。
ただ、「ブリトン人はアナトリア(※現在のトルコあたり)から来た」という最近の調査もあり (下記記事、英語、2019年)、現在のアルメリアはトルコのすぐ東なので、結果的にそこまで外していないかも知れないようです。
※「アルメニア」という地名は「外名」(日本に対する「Japan」等)で、現地語の国名は Hayastan 等らしいですが、古代ペルシア、ギリシャなどで紀元前 6~5世紀から使われていたので、アングロサクソン時代の筆者が古代ローマの文献を参考にして「アルメニア」と呼ぶのは、不自然ではなさそうです。それなりに栄えていた地域っぽい。
ともあれ、ケルト民の起源やヨーロッパにおける分布は諸説あり、定義もあれこれ難しそうなので、ド素人は手を出さずにおきます。くわばら。(「素人が適当にネット調べて書いてら笑」と思ってください...)
・スキタイのピクト人:当時(8世紀以前)のいくつかの歴史書にピクト人のオリジンとしてスキタイ(中央アジア)が書かれているものの、証拠は無いようですが、上記の記事にもあるように、アナトリア(地理的にはスキタイの南)あたりからも来ているので、可能性ゼロではないのかも。ユーラシア大陸は複雑すぎて理解不能...!!
・スコットランド人:原文ママ。アイルランドにスコットランド人がいることになりますが、現代の区分とは異なるので、当時の認識としての表記。
・レオダ (Reoda):Reada、Reuda、Reutha、Reothaなど。
・ダル-リアダ人 (Daireodi):「レオダの土地の者」の意。ダルリアダ (Dál Riada/ Dál Riata) は、ゲール人の王国で、アイルランドの北東の一部と、スコットランドの西岸の一部。らしい。
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(序文 2*: カエサルのブリタニア進攻)
キリスト生誕より60年前*、ローマ皇帝ガイウス・ユリウス*は、80隻の船でブリテン島(ブリタニア)に進攻*した。
彼は最初、激しい戦いの末に敗北し、軍の大部分を失った。そこで彼は、自軍をスコットランド人と共に滞在させて(訳注:誤記)*残し、南のガリアに戻った。ここで彼は 600隻の船を集めてブリテンに戻った。
両軍が合流して最初に攻勢を仕掛けた際、ラビエヌス*と言う、カエサルの指揮官* が戦死した。
その後ウェールズ人*は、「テムズ」という河の或る渡河場*の水の中に、尖った棒杭を沈めておいた。ローマ勢はこれに気づくと、渡河場から(川を)渡ることはなかった。そしてブリトン人を木の砦*に追い込んだ。
幾多の戦いを強いられたものの、カエサルは多くの主要な街を制圧*し、ガリアに戻った。
Sixty winters ere that Christ was born, Caius Julius, emperor of the Romans, with eighty ships sought Britain. There he was first beaten in a dreadful fight, and lost a great part of his army. Then he let his army abide with the Scots (6), and went south into Gaul. There he gathered six hundred ships, with which he went back into Britain. When they first rushed together, Caesar's tribune, whose name was Labienus (7), was slain. Then took the Welsh sharp piles, and drove them with great clubs into the water, at a certain ford of the river called Thames. When the Romans found that, they would not go over the ford. Then fled the Britons to the fastnesses of the woods; and Caesar, having after much fighting gained many of the chief towns, went back into Gaul (8).
<*訳注>
※ここまで紀元前 (B.C.)。
※この序文も、あったりなかったり。「ガリア戦記」の第4巻 20節~5巻にあたる内容。(詳細は異なる)
ローマの歴史学者オロシウス (Orosius、375~418年) の書いた内容をビード(Bede) が完コピしたものを、更にASCに劣化コピーしている様子。
・60年前: B.C. 55~54年。
・ガイウス・ユリウス:カエサル。
・ブリテン島に進攻:ケントのあたりから上陸したようです。
上陸場所は諸説ありますが、サネット島 (Isle of Thanet) のEbbsfleet という説も。(A.D.449年にヘンギストとホーサが上陸した場所。449年の項参照)
・スコットランド人と共に滞在させ:誤記で、実際はおそらく「(現地で)越冬させ」らしい。
⇒「ヒベルニア/Hibernia (スコットランド人のいるアイルランド)」と、「in hiberna」(冬の/に)の混同?っぽい。ビード (Bede)の「Historia ecclesiastica gentis Anglorum」にある間違いをそのまま写したらしい。
ガリア戦記ではまた前後関係が異なるようですが、いずれにしても真冬の未開の北国に取り残される、地中海そだちのローマの皆さん。(「ガリア戦記」にも、上陸時、冬期のブリタニア周辺の荒波に慣れておらず右往左往する様子が描かれております。時代は下ってアルフレッド王vsグスルム戦で、スウォネイジ (Swanage) でデイン勢の船の大軍が突然の嵐でほぼ全滅する話があるのですが、微妙に通じるものがあり興味深い。)
・指揮官 (tribune):古代ローマ時代の役職、トリブヌス/tribunus。この場合は軍の指揮官か何か。「護民官」と訳されるようなのですが、詳しくないので曖昧な訳語に逃げました。
・ラビエヌス (Labienus):これもスペルミスがあるようですが、割愛。
・ウェールズ人:ブリトン人。
・渡河場 (ford):浅瀬。川などが浅く、徒歩・騎馬などで渡れる場所。
「ガリア戦記」によると、渡れそうな場所は特定の 1か所しかなく、(ブリトン人が)その河畔と水中に尖った杭を並べて防戦していたが、ローマ軍は結局突破したようです。
<余談:戦う象さん>
なお2世紀のポリアエヌス (Polyeanus) の軍事戦略書「Strategemata /Stratagems」では、この渡河防御ラインを戦象(オリファント!!)で蹴散らしたことになっているものの、これは後年 A.D. 43年~からの皇帝クラウディウスによる征服時(下記引用参照)の戦象使用と混同したもの。とは言え、結局ブリテン島に「じゅう」は連れてきたっぽい。
・木の砦 (the fastnesses of the woods):別の英訳では「wood-waste」(材木ゴミ)となっており、ラテン語→古英語→近代英語の混乱が見えますが、ガリア戦記(5巻19節)を見ると、森 (woods) の中に隠れてたようです。あるいは、木や枝?で作った囲い・砦(日本の古代の「キ (城)」のような?防戦・ゲリラ戦の拠点とした)の描写もあります。
・主要な街を制圧:侵略はしたものの、実際に「征服」したのは、約100年後の A.D. 43年~の皇帝クラウディウス。多分。下記 A.D. 46年の項参照。
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A.D. 46* (皇帝クラウディウスのブリタニア征服)
この年、ブリテンを侵略した 2番目の皇帝、クラウディウス* が、ブリテン島の大部分*をその権力下に治め、また、オークニー諸島*をローマの支配下に加えた。
これは、彼の治世の4年目のことであった。
また同年、シリアにおいて、「使徒言行録」という書物でルカが言及* している大飢饉が起きた。
クラウディウスの後はネロ* が帝国を受け継いだが、その無能ぶりにより、ブリテン島をほぼ失うところであった。
A.D. 46. This year Claudius, the second of the Roman emperors who invaded Britain, took the greater part of the island into his power, and added the Orkneys to rite dominion of the Romans. This was in the fourth year of his reign. And in the same year happened the great famine in Syria which Luke mentions in the book called "The Acts of the Apostles". After Claudius Nero succeeded to the empire, who almost lost the island Britain through his incapacity.
<*訳注>
・ 46年:または47年。(43年?)
・クラウディウス (Tiberius Claudius Caesar Augustus Germanicus):在位 A.D. 41~54年。43年にブリタニア侵攻を開始。
・ブリテン島の大部分:47年頃は、将軍アウルス・プラウティウス (Aulus Plautius) が指揮を取り、ブリテン島南部(後のマーシア~ウェセックスあたり)を制圧した頃。
・オークニー諸島 (Orkney):スコットランドの更に先の諸島。ローマ軍がここまで到達したのは、実際は 84年頃で、将軍 アグリコーラ(Gnaeus Julius Agricola)の頃。
多分あざらし族のいるところ。(※訳者はサトクリフの「アザラシ族/ Seal Clan」と、オークニー諸島あたりの伝説のアザラシ妖怪「セルキー/ Selkie」を 混同しています。)
・「使徒言行録」という書物でルカが言及:新約聖書の 5番目の書、「Acts of the Apostles/ Book of Acts」の11章28節。
拙訳:「アンティオキアにエルサレムから預言者達が来訪し (11:27)、その中の1人アガボ (Agabus) が聖霊の啓示を受け『ローマ帝国全体に大飢饉が起きる』ことを預言した。これはクラウディウスの治世に起きた。(11:28)」
[Acts 11:28 - One of them, named Agabus, stood up and through the Spirit predicted that a severe famine would spread over the entire Roman world. (This happened during the reign of Claudius.) (NIV)]
なお「使徒言行録」には「シリア」の明記はなく、オロシウスの歴史書「Historiarum Adversum (Adversus) Paganos」(ラテン語・英語テキスト)の 7巻の記載がベースらしい。
「使徒言行録」(新共同訳) は、ローマ帝国における初期キリスト教の布教の様子を描いた書。邦題は他にも「使徒行伝」等。
・皇帝ネロ (Nero):在位 54 ~68年。例の暴君で有名な皇帝。この「ブリテン島を失いかけた」は、61年頃のブーディカの乱でブリタニアからの撤退を検討した、という話の事だと思います。
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(以下、A.D.1 ~733年は省略しますが、いくつか翻訳しておきます)
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A.D. 449* (ヘンギストとホーサの移民引率)
この年、マルキアヌス* とヴァレンティアヌス* が帝国を受け継ぎ、7年間統治した。
彼等の治世の間、ヘンギストとホーサ* が、ブリトン人の王・ヴォーティガン* の招聘を受けて、彼の援護のためにブリテンの Ipwinesfleet* という場所に上陸した。最初はブリトン人をサポートしていたが、その後はブリトン人に対抗して戦った。
王は*彼等にピクト人と戦うように指示したので、それに従い、行く先々で勝利を収めた。
それから彼等は アングル人達* に使者を送り、更なる応援部隊を要請しつつ、「ブリトン人は価値なしだが、土地は肥沃で最高」などと伝えた。
そこで彼等 (訳注:アングル人達) は更なる支援部隊を送った。
この時、ゲルマンから 3つの部隊が到来した;オールド・サクソン人、アングル人、そしてジュート人。
ジュート人達はその後、ケント民、および現在ワイト島*に住んでいる部族であるワイトワリアン(Wightwarians)、そしてウェセックス内で現在もジュート民と呼ばれている者達となった。
オールド・サクソン人達は、その後、エセックス、サセックス、ウェセックス*の民となった。
アングリア*は、その後ジュートとサクソンの間で長らく不毛の地となっている*が、その地から来た者達は イースト・アングリア、ミドル・アングリア、マーシア、およびハンバー以北*すべての土地の民となった。
彼等のリーダーは、2人の兄弟・ヘンギストとホーサ。彼等は Wihtgils の息子であり、Wihtgils は Witta の息子であり、Witta は Wecta の息子であり、Wecta は ウォーデン* の息子である。
このウォーデンが我等の王族すべて、およびサウザンブリア*人の祖先である。
A.D. 449. This year Marcian and Valentinian assumed the empire, and reigned seven winters. In their days Hengest and Horsa, invited by Wurtgern, king of the Britons to his assistance, landed in Britain in a place that is called Ipwinesfleet; first of all to support the Britons, but they afterwards fought against them. The king directed them to fight against the Picts; and they did so; and obtained the victory wheresoever they came. They then sent to the Angles, and desired them to send more assistance. They described the worthlessness of the Britons, and the richness of the land. They then sent them greater support. Then came the men from three powers of Germany; the Old Saxons, the Angles, and the Jutes. From the Jutes are descended the men of Kent, the Wightwarians (that is, the tribe that now dwelleth in the Isle of Wight), and that kindred in Wessex that men yet call the kindred of the Jutes. From the Old Saxons came the people of Essex and Sussex and Wessex. From Anglia, which has ever since remained waste between the Jutes and the Saxons, came the East Angles, the Middle Angles, the Mercians, and all of those north of the Humber. Their leaders were two brothers, Hengest and Horsa; who were the sons of Wihtgils; Wihtgils was the son of Witta, Witta of Wecta, Wecta of Woden. From this Woden arose all our royal kindred, and that of the Southumbrians also.A.D. 449. This year Marcian and Valentinian assumed the empire, and reigned seven winters. In their days Hengest and Horsa, invited by Wurtgern, king of the Britons to his assistance, landed in Britain in a place that is called Ipwinesfleet; first of all to support the Britons, but they afterwards fought against them. The king directed them to fight against the Picts; and they did so; and obtained the victory wheresoever they came. They then sent to the Angles, and desired them to send more assistance. They described the worthlessness of the Britons, and the richness of the land. They then sent them greater support. Then came the men from three powers of Germany; the Old Saxons, the Angles, and the Jutes. From the Jutes are descended the men of Kent, the Wightwarians (that is, the tribe that now dwelleth in the Isle of Wight), and that kindred in Wessex that men yet call the kindred of the Jutes. From the Old Saxons came the people of Essex and Sussex and Wessex. From Anglia, which has ever since remained waste between the Jutes and the Saxons, came the East Angles, the Middle Angles, the Mercians, and all of those north of the Humber. Their leaders were two brothers, Hengest and Horsa; who were the sons of Wihtgils; Wihtgils was the son of Witta, Witta of Wecta, Wecta of Woden. From this Woden arose all our royal kindred, and that of the Southumbrians also.
<*訳注>
・449年:B本は 455年。
・マルキアヌス (Marcian/ Marcianus/ Mauricius):在位 450~457年。東ローマ (ビザンツ) 帝国の皇帝。
・ヴァレンティアヌス 3世 (Valentinian III/ Placidus Valentinianus):在位 425~455年。西ローマ帝国皇帝。「この年」に皇帝の座に就いたわけではないが、この時点の東西ローマ皇帝として並べられたと思われます。
・ヘンギスト (Hengist/ Hengest)とホーサ (Horsa, ホルサ):兄弟。伝説上では、アングル人、サクソン人、ジュート人の先遣隊を率いてブリテン島に来た最初のリーダー、とされている。出稼ぎに来た国がリッチ(地元比)だったので、一族郎党を呼び寄せて移民したパターン。北僑かな。
・ヴォーティガン (Vortigern/ Wurtgern/ Wyrtgeorne, etc ):
ブリトン人の王または将軍。ピクト人・スコットランド人と戦うための応援(傭兵的な) に呼んだ、ヘンギストとホーサ(が率いるアングル・サクソン・ジュート人達のグループ)に逆に征服されて、ウェールズ (Wella) のあたりに撤退。自国民からも大顰蹙。
A.D. 853年の項でマーシア・ウェセックス連合軍が「北ウェールズ」を征服していますが、その時に征服されたと思われる Powys 王国のCyngen ap Cadell王が建てた「Elisegの柱 (Pillar of Eliseg)」にも、その名が刻まれている。
後年に色々と尾ひれがついているキャラの1人で、12世紀頃になると、ヘンギストの娘・ロウェナ (Rowena)に誘惑されて妻にし、彼女の手引きでブリトン人の亡国を招いた、というエピソードが作られたり、また文学では、アーサー王伝説の中で邪悪なライバルとして登場するようになる。
(近年の映像作品ではルトガー・ハウアーやジュード・ロウが演じているあたりでお察し)
▼ヴォーティガンの胸毛と戦象が印象的な、ブラザフッド・アーサー物語「キング・アーサー」(ガイ・リッチー監督)(アフィなし)
・Ipwinesfleet (Wippidsfleet/ Hypwinesfleot/ Eopwinesfleot):
ケントのサネット島のエブスフリート (Ebbsfleet) らしい。
1950年に、ヘンギストとホーサの上陸 1500周年を祝ってデンマーク(ヘンギストとホーサの地元)から贈られたヴァイキング船「Hugin」がある。
サネット島については、A.D. 851の項も参照。
▼ Huginの除幕式の記事と、動画(除幕式と、デンマークから漕いできた様子)。
・王は~:これ以降は A本 (写本のバージョン、学術用語的には MSS. A とか何とか) などには無い記述。
・アングル人達 (Angles):出身地の ユトランド半島中南部(現在のデンマーク南部~ドイツ北部)の人達。
・オールド・サクソン人 (Old Saxons):サクソン人 (現在のドイツ北部地域の) のこと。原文(古英語)の記述は未確認ですが、後年に書き足した部分のようなので、イングランドのサクソン人(アングロ-サクソン人)や、後年のザクセン(ドイツ東部)との混同のための表記?
・ジュート人 (Jutes):ユトランド半島の北部から来た人達。
・ワイト島 (Isle of Wight):中南部のサウザンプトンの沖にある島。ヨットレースが有名。サウザンプトン港やポーツマス港から、フェリーと高速船が出てます。
・エセックス、サセックス、ウェセックス: イースト・サクソン (Essex)、サウス・サクソン (Sussex)、ウェスト・サクソン (Wessex)。
・アングリア (Anglia):ここでは、アングル人が元々住んでいた、ユトランド半島の地域。
・~不毛の地となっている*:ここの「Anglia, which has ever since remained waste between the Jutes and the Saxons」の意味が確定しかねたので、仮訳です。
・ハンバー (Humber) 以北: ハンバーは、後のマーシアとノーサンブリアの境界にある河口/三角江。A.D. 827年の項参照。
⇒ハンバーより北=後のノーサンブリアに該当。※ノーサンブリアは当初はデイラ/Deira、バーニシア/Bernicia 等の王国に分かれている。
・Woden (ウォーデン):北欧神話のオーディンの擬人化。ペディグリー of ペディグリー、みたいな意味。
なお、キリスト教化した後のアングロサクソンの王の家系図は、ウォーデンの代わりにアダム(いちじくパンツの)に行きつくようになる。
・サウザンブリア人 (Southumbrians/ South-humbrians):「ノーサンブリア(Northumbria/ 北ハンブリア)」に対する、「南ハンブリア」の地域。
上記のハンバー周辺が「ハンブリア (Humbria)」で、北側がノーサンブリア、南側(マーシア北部)がサウザンブリアらしい。
▼かなり雑な図ですが、移民イメージの参考まで。
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(A.D. 450~476年は省略)
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A.D. 477 (サセックス初代 エラ王の上陸)
この年、エラ* が、3人の息子 Cymen、Wlenking、Cissaを連れて、3隻の船でブリテンに到来し、Cymenshore* という場所に上陸した。
その場所で彼等は多くのウェールズ人* を殺戮し、また、逃げた者達はアンドレッズリー* という森に逃げ込んだ。
A.D. 477. This year came Ella to Britain, with his three sons, Cymen, and Wlenking, and Cissa, in three ships; landing at a place that is called Cymenshore. There they slew many of the Welsh; and some in flight they drove into the wood that is called Andred'sley.
<*訳注>
・エラ (Ella/Ælle/ Aelle):サセックス (Sussex/ South-Saxon, 南サクソン)の初代王とされる王。後年のノーサンブリアのエラ(ラグナル蛇穴の)とは別。
・Cymenshore:場所不明。エラ王時代からのサセックスの首都があったセルシー (Selsey, イングランド南部の海岸沿いの街。ポーツマスから東に20kmくらい)説などがあるらしい。下記のアンドレッズ-リーはそのすぐ北に広がっている。
・ウェールズ人 (Welsh/ Wealas):ブリトン人のこと。
・アンドレッズ-リー (Andred'sley/Andreds-lea/Andredesleage):後年「アンレッドの森 (forest of Andred) 等と呼ばれる、ケント~ウェセックスに広がる 広大な森林地帯。現在の「Weald」。劣勢になった人達がよく逃げ込む場所。A.D. 755年の訳注参照。
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(A.D. 478~494年は省略)
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A.D. 495 (ウェセックス初代 サーディック王の上陸)
この年、2人の首領*、サーディック*とその息子キュンリック*が、5隻の船でブリテンの Cerdic-ore*という場所に到来した。
同日、彼等はウェールズ人*と戦った。
A.D. 495. This year came two leaders into Britain, Cerdic and Cynric his son, with five ships, at a place that is called Cerdic's-ore. And they fought with the Welsh the same day.
<*訳注>
・首領 (leaders /aldormen):古英語原文では 「aldorman」=「Ealdorman」が当てられています。当ページの後半では「州公」と訳したりしていますが、この当時は上記の近代英語訳のように、「リーダー」くらいの意味。A.D. 800年の訳注参照。
・サーディック (Cerdic, チェルディッチ/ ケルディックetc ):ウェセックス初代とされる王。ただし当初から「ウェセックス(西サクソン)を名乗ったのではなく、この当時は Gewisse (ゲウィセ) と言われる部族。
名前がブリトン (ケルト) 系なので、上記のように船でいきなり来たのではなく前から居た、という説もあるようです。
・キュンリック (Cynric):息子だったり、普通に仲間っぽい書き方だったり、まちまち。
・Cerdic-ore (Cerdicshore/ Cerdicesora):場所不明。ワイト島との間のソレント海峡に面する海岸(ハンプシャー南部)と推測されているようです。
・ウェールズ人:ブリトン人。
▼ポーツマスから臨むソレント海峡と、遠くに見えるワイト島。2018年。
(サーディックの上陸地はポーツマス側 (東) ではなくこれよりもっと右側 (西側) らしいですが)
View from the Spinnaker Tower, 2018
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(A.D. 496~733年は省略。色々あった。)
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A.D. 734* (赤い月、ビードの死)
この年、月が血に染まったかの如くであった。
大司教タトウィン* とビードがこの世を去った。エグバート*が司教に就任した。
A.D. 734. This year was the moon as if covered with blood; and Archbishop Tatwine and Bede departed this life; and Egbert was consecrated bishop.
<*訳注>
※ビード (ベーダ、Bede) の没年が書いてあるので拾っておきます。ビードについては、下記「A.D.794」の項の余談参照。
・734年:ビード の没年は 735年。
・タトウィン、タトワイン(Tatwine, Tatwin)。なぞなぞが好きな大司教。
<余談>
なぞかけ (riddle) はアングロサクソン文学の一種で、タトウィンが作ったものを含めて、いろいろ残っているようです。(この頃はまだヴァイキングが焼野原にしていないので、文字文化も盛ん?)
・このエグバート司教は ウェセックス王のエグバートとは別人。
**********************************
A.D. 755* (参考:キュネウルフとキュネハード)
この年、キュネウルフ*は、ウェストサクソンの賢人会議*の承認を得て、シグバート* とその縁者を、その悪行*を根拠にハンプシャーを除く王国内から廃位した。彼(シグバート)はハンプシャーを保有し続けたが、それも、彼に最も長く仕えた州公*を殺すまでだった。彼はキュネウルフの追手を逃れてアンドレッドの森*に逃げ込み、そこにしばらく留まっていたが、最後はプリヴェット*において、従者*が彼を殺し、州公クンブラ*の復讐を果たした。
キュネウルフはまた、ウェールズ*と何度も激しく戦った。
そして、王位についてから 31年後*、彼は、シグバートの兄弟である王子 キュネハード* の追放を画策していた。
しかし彼(キュネハード)は、王(キュネウルフ)が少数の従者のみを連れて マートン*にいる女性*の元へ向けて出かけたのを知り、馬で追い、王の従者たちが気づく前に部屋*を四方から包囲した。王はこれに気づくと、自ら部屋の外に出て勇敢に防戦したが、王子(キュネハード)を見つけると猛然と挑みかかり、重傷を負わせた。その後も彼ら(キュネハード勢)は全員で王に立ち向かい、最後には王を討ち取った。
王付きの家来(セイン)*たちは、女性の叫び声を聞きつけてこの騒動に気づくと、仕度が出来た者からすぐに現場に駆け付けた。
王子(キュネハード)は彼らにその場で命の保証と報奨を提示したが、誰一人として折れる者はなく、全員で王子に向かって戦い続け、一人を除いて全員討ち死にした。この残った一人はブリトン人*で、捕虜としたが、重傷を負っていた。
翌朝、王が残してきたセイン達が王の死の報を知ると、彼らは現場に駆け付けた; 王の州公のオスリック*、セインのウィファース*、その他、王が連れて行かなかった者達である。
彼らは、王が殺されて横たわっている街(マートン)に王子(キュネハード)がいるのを見つけたが、街の中にいる者達が門を閉めていたため、力尽くで進もうとした。
そこで王子は、もし自分が王国を継ぐのを認めてくれるなら、望みの領土と金銭を与える、と提示した。また、彼等の縁者*もすでに彼の側に居り、彼を見捨てることはない、とも加えた。
これに対し、彼等は、我等にとって主君はどんな親類縁者よりも親愛な存在であるから、その王を殺した者に仕える事など一切ない、と応じた。そして、縁者達に、安全に彼(キュネハード)の元を去るように、と説得した。
しかし彼等(訳注:「縁者」?)は、王と共にいた従者たちにも、同じような提案がされた、と応えた。
それに対して彼等(訳注:王のセイン達?)は「王と共に殺された者達(がその提案に乗らなかった)よりも更に(自分たちは)そんなことは気にかけない」、と答えた*。(訳注:??このあたり、内容確定できません)
そして彼等は門の周辺で抵抗を続け、とうとう門を破って中に入り、王子および共にいた者達全員を殺した。ただし、州公の義理の息子*だけは助かり、命拾いをしたが、あちこち怪我をしていた。
キュネウルフは 31年間、王として統治した。彼の遺体はウィンチェスターに埋葬され、王子たちはアクスミンスター* に埋葬された。
彼等の父方の家系はサーディック (ケルディック/ チェルディッチ etc)*の直系である。
同年、マーシアの王 エセルバルド* が セッキントン* において殺された。彼の遺体はレプトン* に埋葬された。彼の在位は 41年間だった。
その後、ベヨンレッド* が王国を継いだが、長く続かず、不幸だった。
同年、オッファ王* がバーンレッドを追い出して王権を握った。オッファの治世は39年間だった。彼の息子 Everthの在位は 140日間だった。
オッファの父はシングファース*であり、シングファースの父はエアンウルフ、その父はオスモード、その父はエオワ、その父はピュッバ、その父はクレオーダ、その父はキュネワルド、その父はクネッバ、その父はイッケル*、その父はエオメル*、その父はアングルセィ、その父はオッファ、その父はウェアムンド、その父はウィヒトラーグ、その父はウォーデン*。
A.D. 755. This year Cynewulf, with the consent of the West-Saxon council, deprived Sebright, his relative, for unrighteous deeds, of his kingdom, except Hampshire; which he retained, until he slew the alderman who remained the longest with him. Then Cynewulf drove him to the forest of Andred, where he remained, until a swain stabbed him at Privett, and revenged the alderman, Cumbra. The same Cynewulf fought many hard battles with the Welsh; and, about one and thirty winters after he had the kingdom, he was desirous of expelling a prince called Cyneard, who was the brother of Sebright. But he having understood that the king was gone, thinly attended, on a visit to a lady at Merton, rode after him, and beset him therein; surrounding the town without, ere the attendants of the king were aware of him. When the king found this, he went out of doors, and defended himself with courage; till, having looked on the etheling, he rushed out upon him, and wounded him severely. Then were they all fighting against the king, until they had slain him. As soon as the king's thanes in the lady's bower heard the tumult, they ran to the spot, whoever was then ready. The etheling immediately offered them life and rewards; which none of them would accept, but continued fighting together against him, till they all lay dead, except one British hostage, and he was severely wounded. When the king's thanes that were behind heard in the morning that the king was slain, they rode to the spot, Osric his alderman, and Wiverth his thane, and the men that he had left behind; and they met the etheling at the town, where the king lay slain. The gates, however, were locked against them, which they attempted to force; but he promised them their own choice of money and land, if they would grant him the kingdom; reminding them, that their relatives were already with him, who would never desert him. To which they answered, that no relative could be dearer to them than their lord, and that they would never follow his murderer. Then they besought their relatives to depart from him, safe and sound. They replied, that the same request was made to their comrades that were formerly with the king; "And we are as regardless of the result," they rejoined, "as our comrades who with the king were slain." Then they continued fighting at the gates, till they rushed in, and slew the etheling and all the men that were with him; except one, who was the godson of the alderman, and whose life he spared, though he was often wounded. This same Cynewulf reigned one and thirty winters. His body lies at Winchester, and that of the etheling at Axminster. Their paternal pedigree goeth in a direct line to Cerdic.
The same year Ethelbald, king of the Mercians, was slain at Seckington; and his body lies at Repton. He reigned one and forty years; and Bernred then succeeded to the kingdom, which he held but a little while, and unprosperously; for King Offa the same year put him to flight, and assumed the government; which he held nine and thirty winters. His son Everth held it a hundred and forty days. Offa was the son of Thingferth, Thingferth of Enwulf, Enwulf of Osmod, Osmod of Eawa, Eawa of Webba, Webba of Creoda, Creoda of Cenwald, Cenwald of Cnebba, Cnebba of Icel, Icel of Eomer, Eomer of Angelthew, Angelthew of Offa, Offa of Wermund, Wermund of Witley, Witley of Woden.
<*訳注>
※ドラマ「ラスト・キングダム」シーズン4 最終話 (E10) で、このASCの「755年」の項の冒頭が読み上げられていたので、参考までに訳しておきます。
また、中盤の「キュネウルフとキュネハード」の記述は、この時代の項目にしては珍しく饒舌で、アングロサクソン騎士物語の趣き。
※上記に引用した英語原文がイマイチ雑なので、他の英訳 (Giles 1847) などを参考にしています。
※こちら(英語) http://www.oldenglishaerobics.net/cynewulf.php の古英語解説も、参考にしました。
・755年:757年か。
・キュネウルフ/キネウルフ (Cynewulf):ウェストサクソン王、在位757~786年。9世紀頃の詩人とは別。
・賢人会議:底本にしている英語版では counsilとなっていますが、Witan/ Witenagemot(ウィッタン、ウィテナガモット)、当時のアングロサクソンの評議会、御前会議。
・シグバート/シゲベルト (Sebright/ Sigebert /Sigebrihte):ウェストサクソン王、在位 756~757年頃。Cuthredの後継。
(古英語っぽく発音すると「シゲブリッヒ」みたいになるようなので、諦めて「シグバート」表記にしました。)
・悪行:unlawful deeds (unrihtum dædum)、不当/悪意を持った行為。(シグバートの、です。念のため。)
・州公 (ealdorman/ aldormon):太守、藩主、または単に家臣のランクのひとつ、など。「A.D.800年」の項の訳注参照ください。
・ハンプシャー (Hampshire/ Hamtunscire):ウィンチェスターのあたり。
・アンドレッドの森 (forest of Andred):現在「Weald」と呼ばれている、ウィンチェスターの東からハンプシャー、サセックス、サリー、ケントの地域にまたがる広大な森林地帯。現在は当時に比べるとだいぶ切り拓かれてますが、まだそこそこ残っているっぽい。 (Google Map調べ...)
・プリヴェット (Privett/ Pryfetesflodan):ウィンチェスターから東に20kmくらいにある、アンドレッドの森の中の場所(村)。
・従者 (swain):平民、羊飼いの意味もありますが、家来など。
・クンブラ (Cumbra/ Cumbran):殺された州公。
・ウェールズ:Welsh British、ウェールズのブリトン人。ケルト的な。
・王位についてから 31年後:785または786年。※A.D. 784年の項に改めて記載あり。
・キュネハード: (Cyneard/ Cyneheard):シグバートの弟(兄ではなく)だと思いますが、明記なし。
・マートン (Merton/ Merantūne):場所不明。ウィルトシャー内の村 Marden または Marten、およびロンドン近郊のサリー(Surrey)のMerton (Meretone) あたりが候補。
後の文章で街の扉を閉めて外部から入り込めないようにしていることから、防壁に囲まれたそれなりの規模の街か。
871年のマートンの戦い (Meretun/ Merantune) と同じ場所かも不明。
・女性:お察しください。
・部屋 ( būr /burh):室内の部屋、寝室(chamber)、または田舎屋敷(cottage)などの意味があるようです。
従者に気づかれずに四方から『部屋』を囲む、に矛盾があるように思いますが(そのせいか上記の英訳文も「town」としている)、離れのような建物だったのかも。
・王付きの家来(セイン/ Thane/ Thegn):王や貴族の従者・家来、特に身の回りにいて警護する者。ボディガード。
・ブリトン人: 上記ウェールズ同様、「British (Bryttiscum)」表記。
・州公オスリック:aldormon Osric、古英語寄りだと「ウースリッチ」?
・セインのウィファース: 上記英文は「Wiverth」となっていますが、Wiferth/ Wīferþ。
・彼等の縁者 (their kindsman/relatives, hiera mǣgas):街の外のセイン(オスリック、ウィファース達)の縁者??
これ以降のやりとり部分も含めて、意味が取りにくいのですが、
キュネハード&彼の側についた「縁者」(シグバート前王派?)が、「王位を認めれば命は助ける、土地もやる」とか「助けると言われたのに聞かなかった(王の)従者たちは死んでしまった」と説得しているにも関わらず、このセイン達も「我が王・命」で、「先に王に殉じた者たち同様、いやそれ以上に、命など意に介さず!」と無鉄砲ぶりを発揮、よく言えば(親族よりも)王に最後まで忠誠を尽くす騎士道精神で、猪突猛進したようです。
このあたり、トールキンの「指輪物語」のローハンのモデルになっている、と見る学者もいるようです。
https://lrc.la.utexas.edu/eieol/engol/30
・州公の義理の息子 (god son):州公(オスリック?)が洗礼に立ち合い、メンター/後見人となっている男子。本文中の「縁者」のひとりか。つまりこのgod son以外は殺された。王への忠誠のためなら縁者も殺す。
<余談>たまに「godparents/god children」を「名付け親/名付け子」と訳す例を見かけますが、必ずしも名前は付けませんので、便宜的に「義理の」としました。
・アクスミンスター (Axminster/ Ascanmynster):デヴォンシャーの街。カーペットが有名らしい。キュネウルフ王の埋葬地ウィンチェスターから西に 150kmも離れている。
・サーディック (チェルディッチ/ Cerdic/Cerdice):ウェセックス王家の始祖。正統な血筋と言いたい枕詞。
・マーシア王 エセルバルド (Ethelbald/ Æthelbalc):在位 716~757年。ビードによると、「ハンバー川から南をすべて支配した」、『ブリテンの王』。(※アングロサクソン・クロニクルはウェセックス史観なせいか、単に隣国で情報が無かったのか、このへんは書かれていない)
・セッキントン(Seckington/ Seccandūne):イングランド中部、バーミンガムの北東のワーウィックシャーの村。
・レプトン(Repton/ Hrēopadūne):セッキントンから北に25kmの村。後継のベヨンレッド王、および後のマーシア王・ウィグラフ王も埋葬されている。
・ベヨンレッド (Bernred/ Beornred/ Beornrǣd):在位 757~757年。
・オッファ (Offa):在位 757~796年。下記「A.D. 787」年の項の参考。
・シングファース (Thingferth):以降、イッケル (Icel) まではマーシア王家。その他の王の名前の原文は上記英文など参照ください。
・イッケル (Icel):マーシア王家の始祖。ユトランド半島中部(デンマークのあたり)からアングル人(Angles, アングロ-サクソンの「アングロ」)を引き連れてブリテン島に渡ってきた族長らしい。
その後、アングル人はブリテン島北部~中部のノーサンブリア、マーシア、イースト・アングリアの各王国にざっくり分裂。(南部は「サクソン」人。)
・エオメル (Eomer/ Ēomǣr):ローハンの人ではないです。
・ウォーデン (Woden):北欧神話のオーディンがイングランド化した名前。イザナギ→神武天皇的なやつ。
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(A.D. 757~768 省略)
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A.D. (770?) 771 / 775 (参考: エグバート誕生)
(※ASCには記述ありませんが、ウェセックスのエグバート王 ( Ecbert /Ecgberht /Ecgbryht, etc. アルフレッド王の祖父)がこのあたりで生誕。父はケント王・Ealhmund。下記 A.D 784参照)
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(A.D. 772~782 省略)
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A.D. 784* (エグバートの父、エアルムンド)
この年、キュネハードがキュネウルフを討ち取り*、彼自身も 84人の従者と共に殺された。その後、バートリック*がウェスト・サクソンの王権を握り、16年間治めた。彼の遺体はウェアラム*に埋葬された。彼の血統はケルディック*の直系である。
この頃*、ケントはエアルムンド王*の治世であった。エアルムンドはエグバートの父であり、エグバートはAthulf*の父である。
A.D. 784. This year Cyneard slew King Cynewulf, and was slain himself, and eighty-four men with him. Then Bertric undertook the government of the West-Saxons, and reigned sixteen years. His body is deposited at Wareham; and his pedigree goeth in a direct line to Cerdic. At this time reigned Elmund king in Kent, the father of Egbert; and Egbert was the father of Athulf.
<*訳注>
・784年:785/786年。
・キュネハードがキュネウルフを: 上記、755年の項の「キュネウルフとキュネハード」の逸話は、「キュネウルフの在位 31年目」なので、この 786年の項にも書かれています。
・バートリック (Bertric):787年の項参照。エグバートの政敵。
・ウェアラム/ウェラム (Wareham):ドーセットの村。川沿いにあり、後にアルフレッド王時代にヴァイキング(グスルム)が占拠したりした。当時つくられた城壁(土塁)が残って散歩道になっている。
バートリックはおそらくレディ・セント・メアリ(聖マリア)教会(▼写真)に埋葬されたっぽいですが、それらしい何かがあったか記憶にないです。
後年、アルフレッドのかなり後の子孫、殉教王エドワードも、この教会に一時的に埋葬されたりしています。
・ケルディック/チェルディッチ (Cerdic):毎度、ウェセックス王家の始祖の人。
・この頃~:これ以降の記載は、書かれていないマニュスクリプトもあり、エグバートの家系の説明のために付け足した雰囲気。
・エアルムンド王 (Ealhmund):同上。他にケントの土地に関する勅許状 (charter) に名前が出てくる程度。
※アッサー著のLife of King Alfredのアルフレッドの家系にも、同様にエグバートの父として名前は出てくる。
・Athulf:エセルウルフ(Aethelwulf) の誤記か。エアルムンドの記載があってもこのAthulfの記載は無いマニュスクリプトもあり、更に後付けっぽい。
▲Warehamの Lady St Mary教会。下の石棺は13世紀のもの。
8~9世紀頃の石碑なども展示してありました。
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(下記A.D. 785年、翻訳省略)
A.D. 785. This year died Bothwin, Abbot of Ripon, and a litigious synod was holden at Chalk-hythe; Archbishop Eanbert resigned some part of his bishopric, Hibbert was appointed bishop by King Offa, and Everth was consecrated king. In the meantime legates were sent from Rome to England by Pope Adrian, to renew the blessings of faith and peace which St. Gregory sent us by the mission of Bishop Augustine, and they were received with every mark of honour and respect.
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A.D. 787* (はじめてのヴァイキング到来)
この年、バートリック王(Bertric/Beorhtric)* が、オッファ(Offa)* の娘、イードバーガ(Edburga)を娶った*。
このバートリック王 の在位中*、初めて、略奪者の国から来た北方民*の船が 3隻現れた*。
彼らの素性を知らないリーヴ*が馬で彼らに近づき、王の城下町に連れていこうとしたが、その場で殺された。
これらは、イングランド国家の地に獲物を求めてやってきたデイン民*の最初の船である。
This year King Bertric took Edburga the daughter of Offa to wife. And in his days came first three ships of the Northmen from the land of robbers.
The reve then rode thereto, and would drive them to the king's town; for he knew not what they were; and there was he slain. These were the first ships of the Danish men that sought the land of the English nation.
<*訳注>
・787年:実際は 789年か。(下記イードバーガの記述参照)
・バートリック/ベオトリック/ ベオトリッチ etc (Bertric/ Beorhtric etc):ウェセックス王。在位は 786~802年頃。
舅のオッファ(下記)の勢力が強かったので、舅と妻が実権を握っていたらしい。オッファの力を借りて政敵のエグバート(アルフレッド王の祖父)の殺害を企て失敗、結果的に国外に追い払って王になったが、そのせい(王位の正統性など)でゴタゴタしていたっぽい。
なお大陸に逃れたエグバートはシャルルマーニュ(カール大帝)の所にお世話になった。
参考(英語): https://www.britannica.com/biography/Beorhtric
・オッファ(Offa) はイングランド中部、マーシア(Marcia)の王。在位757~796年。8世紀後半のイングランド中南部の最大勢力。
教皇ハドリアヌス I 世や シャルルマーニュ(ヨーロッパのドン)など、ヨーロッパ大陸とのやり取りが盛ん。
ウェールズとの国境に築かれた「オッファの防塁 (Offa's Dyke)」でよく知られている。
参考(英語): https://www.britannica.com/biography/Offa-Anglo-Saxon-king
・オッファ王の娘イードバーガ (Eadburh/ Edburga) と結婚したのは実際には 789年。下記「A.D.800」の項の訳注も参照ください。
※ アルフレッド大王の孫娘とは別人。
・この「ヴァイキング」(後述)の初上陸は「王の在位中」(786~802)なので、文献によっては 786、789年など前後している感じです。
場所はドーセット(ウェセックス領内)のポートランド・ビル Portland Bill。ウェイマス(Waymouth)の南にある、ポートランド島の南端。
・リーヴ/ Reve (Reeve)は代官、保安官のような役職。とりあえず入港税を取りにきたっぽいので、港湾局の人かも知れない。
・略奪者の国からきた北の民:「Norðmanna」は A, B にあるが英訳にある「land of robbers」「Hæretha-land [Denmark]」が見当たらない。C以降にはあるのか未確認。下記にあるように交易者か漁民が漂着しただけで、「略奪者の国」は後付けの可能性。
・「デイン民/ Danish」とありますが、原文 Deniscra はデインまたは北の民の意。上記の「Hæretha-land」を、ノルウェイ(ホルダラン/ Hordaland)と解釈する説あり。
狙って出稼ぎにきたというより遭難して漂着したらしく、リーヴを殺した後は航海を続けたっぽいのですが、原文が不明。
<参考(英語)>
https://thehistorianshut.com/2019/04/13/the-first-reported-contact-between-britain-and-vikings/
とか、このあたり:
https://web.cn.edu/kwheeler/viking_attacklist.html?showall=1
※北方民はまとめて「デイン民」と呼ばれがちで、文献(現代)によっては「ヴァイキング」に意訳されているようです。
▲ノルウェイ・ヴァイキング(?)が上陸した Portland Bill/ポートランド・ビルの位置。ポートランド島南端。灯台があり、島の観光スポットらしい。
(ヨーロッパ大陸側からかなり離れた南西部なので、後年(832年)デイン人が上陸したシェピー島が東端(=大陸寄り)なのと比べると、かなり漂流してしまったのか、人がいる所を避けたのか。Google Earthなど見ると崖!岩!岩!崖!という感じで、上陸しづらそうな場所です)
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(以下 788~792年、翻訳省略)
A.D. 788. This year there was a synod assembled at Fingall in Northumberland, on the fourth day before the nones of September; and Abbot Albert departed this life.
A.D. 789. This year Elwald, king of the Northumbrians, was slain by Siga, on the eleventh day before the calends of October; and a heavenly light was often seen on the spot where he was slain. He was buried in the church of Hexham; and Osred, the son of Alred, who was his nephew, succeeded him in the government. This year there was a synod assembled at Acley.
A.D. 790. This year Archbishop Eanbert died, and Abbot Ethelherd
was chosen archbishop the same year. Osred, king of the
Northumbrians, was betrayed and banished from his kingdom, and Ethelred, the son of Ethelwald, succeeded him.
A.D. 791. This year Baldulf was consecrated Bishop of Whitern, on the sixteenth day before the calends of August, by Archbishop Eanbald and Bishop Ethelbert.
A.D. 792. This year Offa, King of Mercia, commanded that King Ethelbert should be beheaded; and Osred, who had been king of the Northumbrians, returning home after his exile, was apprehended and slain, on the eighteenth day before the calends of October. His body is deposited at Tinemouth. Ethelred this year, on the third day before the calends of October, took unto himself a new wife, whose name was Elfleda.
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A.D. 793* (リンディスファーン島のヴァイキング)
この年、ノーサンブリアに恐ろしい前触れが現れ、人々を大いに怯えさせた;空には巨大な光がのたうち回り*、竜巻が渦巻き、燃え盛るドラゴンが天空を駈けた。
これらの前兆の後、間もなく、大飢饉が襲った。
時を置かずして、同年 1月* のイドゥス* の6日前、異教徒の民* がリンディスファーン島の教会を襲撃し、おぞましい略奪と虐殺で破壊した。
3月朔日*の8日前、シガ(Siga/Sicga)* が死去した。
A.D. 793. This year came dreadful fore-warnings over the land of the Northumbrians, terrifying the people most woefully: these were immense sheets of light rushing through the air, and whirlwinds, and fiery, dragons flying across the firmament. These tremendous tokens were soon followed by a great famine: and not long after, on the sixth day before the ides of January in the same year, the harrowing inroads of heathen men made lamentable havoc in the church of God in Holy-island, by rapine and slaughter.
Siga died on the eighth day before the calends of March.
<*訳注>
・793年:この項目の内容(予兆、リンディスファーン襲撃、シガの死去)は、写本 A本、B本には記述がないようです。
・「巨大な光」は稲妻かオーロラ、または彗星など。「燃え盛るドラゴン」も激しい稲光、オーロラか、もしかしたらレッドスプライト/超高層雷放電的なものや太陽フレア的な何かかも知れない。
・飢饉の後の「1月」が「同年」となっていますが、実際のリンディスファーン襲撃は 6月 8日説が有力のようなので、June と Januaryの書き間違い (※古英語原文未確認) か、暦の区切りの違いによるものか。
当時の1年の区切りは 1月 1日ではなく、イースターだったり、ハロウィン(サウィン) のあたりだったりしたようです。
・イドゥス、またはアイズ (Ides):ローマ暦の月の真ん中の、15日か13日あたり。例:「Ides of March」はユリウス・カエサルがブルータス達に暗殺された日(BC 44年 3月15日) として有名。
・朔日=Calends(カレンズ)。ローマ暦の毎月初日。
・異教徒 (heathen):ヴァイキング。
・シガ(Siga/Sicga): A.D. 789の項(未翻訳)でノーサンブリアの Ælfwald王を殺した貴族。シガの死はヴァイキング襲撃とは関係ないが、死後、リンディスファーンに埋葬された。
余談:聖カスバートについて
海外ドラマ「ヴァイキング/Vikings」(ヒストリー・チャンネル)のシーズン1 エピソード2でリンディスファーン襲撃が描かれ、「カスバート神父(Father Cuthbert)」が殺されていていましたが、
歴史上の聖人、聖カスバート(St Cuthbert)は、ノーサンブリアの修道僧で、665年にリンディスファーンの修道院長にもなっていますが、没年 687年なので、リンディスファーン襲撃時(793年)時には既に遺骸(聖遺物)※として祀られてました。なので、同姓同名の別人でなければ、あれはドラマ上のフィクションです。
(他にも「ヴァイキング」はフィクションというか創作上のアレンジだらけですが、大昔のことなどわからん!というスタンスが良い)
※聖遺物:死んで11年後に棺を開けたら遺体が劣化(腐敗、白骨化)していなかったので、奇蹟として列聖され、遺体は聖遺物にランクアップ。
(しかしこの手の「腐ってなかったから」列聖パターンが結構多いんですが、何故わざわざ何年もしてから棺を開けるのか。棺桶の使いまわしとかだろうか)
なお、ヴァイキングの襲撃から逃げ延びた修道僧達は、この大事な聖カスバートの遺骸を護って7年ほど放浪し、いくつかの安置所を経たあと、最終的にダラム(Durham)に落ち着いています。
BBCドラマ「ラスト・キングダム」(S2 E1、E2) にも、聖カスバートの棺と、ミイラ化した遺体が描かれています。
ドラマ中の安置場所はカンバーランド(現在のイングランド西北部の Cumbria)の修道院になっていますが、実際はアルフレッド王の時代にはダラムとニューカッスルの間の街、Chester-le-Street にあったようです。
(ベオッカの感動ぶり(S2E1)と、聖カスバートの歯をアルフレッド王へのお土産にもらって嬉しそうな顔(S2E2)が微笑ましいというか、共感度が高い)
▼ダラムにある、聖カスバートを運ぶ修道僧たちの銅像(2011年撮影)
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A.D. 794* (ノーサンブリアのヴァイキング)
この年、教皇ハドリアヌスが逝去*した。
また、マーシア王オッファが、8月のイドゥスの4日前に死去した*。彼の在位は40年間であった。
5月朔日の13日前の日、ノーサンブリアの王 エセルレッドが、臣下の者に殺された*。この関係で、司祭 ケオルウルフとイードバルドが国外に退去した。
Everth王* がマーシアの政権を執ったが、同年に死去した。
エドバート、別名 プランが、ケント王国の政権を獲得した*。また、州公の エセルハードが 8月朔日に死去した。
同じ頃、ノーサンブリアで異教徒の軍(訳注:ヴァイキング)の侵攻が広がり、ウェア川の河口* にあるKing Everth修道院* を略奪した。
しかしこの時、異教徒軍のリーダーの数名も殺された。また、彼らの船も何隻か、悪天候により粉々になり、多くの乗り手が溺れた。なんとか岸辺に辿り着いた者も、すぐにウェア川の河口周辺で殺された。
A.D. 794. This year died Pope Adrian; and also Offa, King of Mercia, on the fourth day before the ides of August, after he had reigned forty winters. Ethelred, king of the Northumbrians, was slain by his own people, on the thirteenth day before the calends of May; in consequence of which, Bishops Ceolwulf and Eadbald retired from the land. Everth took to the government of Mercia, and died the same year. Eadbert, whose other name was Pryn, obtained the kingdom of Kent; and Alderman Ethelherd died on the calends of August. In the meantime, the heathen armies spread devastation among the Northumbrians, and plundered the monastery of King Everth at the mouth of the Wear. There, however, some of their leaders were slain; and some of their ships also were shattered to pieces by the violence of the weather; many of the crew were drowned; and some, who escaped alive to the shore, were soon dispatched at the mouth of the river.
<*訳注>
・794年:教皇ハドリアヌス (エイドリアン) I世 (Pope Adrian I/ Hadrianus I)の没年は実際は 795年。
※スコットランド国境の方に「ハドリアヌスの長城」を作った 2世紀のローマ皇帝ハドリアヌス (ヘイドリアン) (Hadrian/Caesar Traianus Hadrianus) とは別。念の為。
・オッファ王、エセルレッド王の没年は実際は796年。
・ウェア川(River Wear)の河口は、現在のサンダーランド (Sunderland ) にあたる Monkwearmouth。ニューカッスルのやや南で、日産UKの工場がある街。
・この底本では「Everth」と近代英語訳されていますが、オッファの息子で数カ月のみ王位に就いた、エグフリス王(King Ecgfrith)のようです。
・エドバート、Eadbert Pren または Prynne、または Eadberht III Præn (在位 796~798)。当時のケントはマーシアの支配下にあったが、オッファの死去に伴って奪還した。ケントがマーシア支配下だった頃は、ウェセックスのエグバート同様にフランク王国(シャルルマーニュ時代)に逃れていたっぽい。
・King Everth (Ecgfrith/エグフリス) が文章中に 2回出てきますが、
ヴァイキングが襲った「King Everthの修道院」のKing Everthは、マーシアのエグフリス(上記のオッファの息子)ではなく、
約100年前に ノーサンブリアの エグフリス/Ecgfrith王(A.D. 645~685)が建てた、現在のサンダーランドに現存する 聖ピーター(ペテロ) 教会 ( St Peter's Church, Monkwearmouth. 674~5年建立) とセントポール修道院(St Paul's Monastery, Jarrow, 684~5建立)のあたり。
<余談> ヴェネラブル・ビード(ベーダ)のこと
当時のサンダーランド(旧 Monkwearmouth)は修道士の教育拠点であり、聖ピーター教会&ポール修道院は、8世紀前半までのブリタニアの歴史書「イギリス教会史」(Ecclesiastical History of the English people) 等を著し、ラテン・ギリシア語→古英語への翻訳も多数行った素晴らしい修道士、ビード/ベーダ ("Venerable" Bede、673~735年) の拠点でもある、ありがた~い聖地のひとつです。
※ビードを祀る聖地は、上記の聖カスバートと同じ、ダラム大聖堂(ウェア川をさかのぼった上流)にもあります。
聖ピーター教会&ポール修道院は、後年、866年頃にヴァイキングのフッバとイングヴァール(※Hubba, Hyngwar. ドラマ「ヴァイキング」のウベとアイヴァーに該当)がこの地域を侵略した後、9世紀後半には完全に放置されていたものの、後年復活し、現在に至る。(セントポールは現在は遺跡)
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A.D. 795* (月蝕、ノーサンブリア王位交代)
この年、4月朔日の5日前、一番鶏と夜明けの間*の時間に、月蝕があった。
また、5月のイドゥスの2日前に、イアドウルフ*がノーサンブリア王国を継いだ。彼はその後、6月朔日の7日前に、ヨークにおいて、大司教イアンバルド*、および司教エセルバート、ヒッバルド、バドウルフによる戴冠式が行われた。
A.D. 795. This year was the moon eclipsed, between cock-crowing and dawn, on the fifth day before the calends of April; and Erdulf succeeded to the Northumbrian kingdom on the second before the ides of May. He was afterwards consecrated and raised to his throne, at York, on the seventh day before the calends of June, by Archbishop Eanbald, and Bishops Ethelbert, Hibbald, and Baldulf.
<*訳注>
・795年:796年。
・一番鶏と夜明けの間 (cock-crowing and dawn):午前 3時~6時頃。ギリシア式の 1日を 8当分した時間区分(3時間単位)だそうです。
少し違いますが寅の刻~卯の初刻、みたいな感じでしょうか。
・イアドウルフ王/エルドウルフ/エアドウルフ (Erdulf/Eardulf/Eardwulf) :在位 796~806年。Eadwulf 王(704~705年頃)と紛らわしい。
・大司教イアンバルド (Eanbald):ヨーク大司教。
※マーシア、ウェセックスの「大司教」はカンタベリー大司教。
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(※以下、796~798年もとりあえず翻訳省略。気が向いたら追加)
A.D. 796. This year died Archbishop Eanbald, on the fourth day before the ides of August; and his body is deposited at York. The same year also died Bishop Ceolwulf; and another Eanbald was consecrated to the see of the former, on the nineteenth day before the calends of September. About the same time Cynewulf, King of Mercia, made inroads upon the inhabitants of Kent as far as the marsh; and the Mercians seized Edbert Pryn, their king, led him bound into Mercia, and suffered men to pick out his eyes, and cut off his hands. (32) And Ethelard, Archbishop of Canterbury, held a synod, wherein he ratified and confirmed, by command of Pope Leo, all things concerning God's monasteries that were fixed in Witgar's days, and in other king's days, saying thus: "I Ethelard, the humble Archbishop of Canterbury, with the unanimous concurrence of the whole synod, and of all the congregations of all the minsters, to which in former days freedom was given by faithful men, in God's name and by his terrible judgment do decree, as I have command from Pope Leo, that henceforth none dare to choose them lords from lewd men over God's inheritance; but, as it is in the writ that the pope has given, or holy men have settled, our fathers and our teachers, concerning holy minsters, so they continue untainted without any resistance. If there is any man that will not observe this decree of God, of our pope, and of us, but overlooketh it, and holdeth it for nought, let them know, that they shall give an account before the judgment-seat of God. And I Ethelard, archbishop, with twelve bishops, and with three and twenty abbots, this same with the rood-token of Christ confirm and fasten."
((A.D. 796. This year Offa, king of the Mercians, died on the fourth before the kalends of August; he reigned forty years.))
A.D. 797. This year the Romans cut out the tongue of Pope Leo, put out his eyes, and drove him from his see; but soon after, by the assistance of God, he could see and speak, and became pope as he was before. Eanbald also received the pall on the sixth day before the ides of September, and Bishop Ethelherd died on the third before the calends of November.
A.D. 798. This year a severe battle was fought in the Northumbrian territory, during Lent, on the fourth day before the nones of April, at Whalley; wherein Alric, the son of Herbert, was slain, and many others with him.
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A.D. 799 (ローマに詣でる人々、聖ウィスバーガ)
この年、大司教エセルバートと、ウェセックスの司教キンバートが、ローマ詣で*に出かけた。
また、アルフン司祭がサドバリーで死去し、ダンウィッチに埋葬された。
彼の後継として、ティドフリスがその地位に就いた。
また、エセックス(イースト・サクソン)の王、シリックもローマ詣で*に行った。
この年、デラハムにて、ウィスバーガの遺体が、死後55年後にも関わらず腐敗していない状態で発見された*。
A.D. 799. This year Archbishop Ethelbert, and Cynbert, Bishop of Wessex, went to Rome.
In the meantime Bishop Alfun died at Sudbury, and was buried at Dunwich. After him Tidfrith was elected to the see;
and Siric, king of the East Saxons, went to Rome.
In this year the body of Witburga was found entire, and free from decay, at Dercham, after a lapse of five and fifty years from the period of her decease.
<*訳注>
・アルフレッド王は子供の時に2回ローマ詣でしてますが、他の人達もよく行ってたようなので、参考までに翻訳しました。地方住みの東京本社出張みたいな感じでしょうか。
・聖ウィスバーガ(St Wihtburh/Withburga)はイースト・アングリアの王女で修道女。743年頃死去なので、55年後=実際/現代の暦では 798年?
デラハム(Deraham) は現在のイースト・アングリア、ノーフォークの街。
▼聖ウィスバー(ガ)については下記参考(英語)
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A.D. 800* (エグバート王の即位)
この年、2月朔日の17日前、夜8時に月蝕があった。
その後間を置かずして、バートリック王* と、州公 (Ealdorman/Alderman)* の Worr が死去した。
ウェスト・サクソン王国(訳注:ウェセックス)はエグバートが王位を継いだ*。
同日、Wiccian* の州公であるエセルマンド(Ethelmund)が、テムズ川沿いのケンプスフォード*まで進攻し、ウィルトシャー州公のウォクスタン(Woxtan) および配下の者たちと対峙し、激しい戦いが起きた。
結果、両方の首領ともが討ち取られたが、ウィルトシャー側が勝利した。
A.D. 800. This year was the moon eclipsed, at eight in the evening, on the seventeenth day before the calends of February; and soon after died King Bertric and Alderman Worr.
Egbert succeeded to the West-Saxon kingdom; and the same day Ethelmund, alderman of the Wiccians, rode over the Thames at Kempsford; where he was met by Alderman Woxtan, with the men of Wiltshire, and a terrible conflict ensued, in which both the commanders were slain, but the men of Wiltshire obtained the victory.
<*訳注>
・800年:バートリック王 (Beorhtric/Brihtric) の実際の没年は 802年。
・バートリック王は、上記 787年の項でオッファの娘イードバー(ガ) (Eadburh /Eadburg) を娶った、ウェセックス王。
エグバートに王位争いで勝って追い出し、王位ゲット。(死後はエグバートが戻ってきて王位継承。)
バートリックの死因は、アッサー著のアルフレッドの伝記(Life of King Alfred)14~15節によると、妻イードバーガが自分の意に添わない者(王ではない)を殺す為に用意していた毒薬を、誤って飲んでしまったため、とありますが、真偽は不明。
(上記で同時に死んだ Worr氏は、「アルフレッド伝」にイードバーガが殺そうとしてた「若者」?? (未確認))
A.D> 784年の項に、ウェアラム (Wareham)に埋葬された、とある。
<余談> ウェセックスの悪女列伝
なお、このイードバーガの事だったか忘れましたが、過去にこのような悪妻がいた"反省"から、女性に権力を与えてはアカン、となったようで、ある時代以降のウェセックス(アングロサクソン?)では女性の地位が低くなり、王妃でもあまり表舞台に出てきていません。この時代の女性が真知子巻き風に頭を布で覆っているのも、その一環だった気がしますが、記憶が曖昧なので、確認できたら追記します(多分)。
・州公 (Ealdorman/ Alderman):は、ここでは地方自治体の首長のようなランク。多分「シャイア/ Shire (sćir)」のつく区域(例:ハンプシャー、ドーセットシャー)のトップ。シャイアのために!!
読み方はオールダマン、エオルダマン、エアルドルマンあたり?
「太守」などと訳されてますが、なんとなく「州公」とさせていただきました。(「シャー知事」とでも訳したいところ)
・エグバート (Ecbert /Ecgberht /Ecgbryht, etc.): 王位継承(戴冠・聖別式)は正式には 802年。
エグバートは(A.D. 854年項の 息子エセルウルフの家系図によると)エアルムンド (Ealhmund) の息子。エアルムンドについては記載が少ないが、ケントの勅許状 (charter) に名前があるらしい。
・Wiccian は Hwiccan。Hwicceの民。Hwicce (ウィッチェ)はイングランドの小王国のひとつで、628年にマーシアの属国となった。イングランド東部のウィルトシャー(ウェセックス領)の北側の国境と接する。
故意か偶然か、ウェセックス王の死去と同日に、マーシア勢がウェセックスに攻めてきた、という形。
・ケンプスフォード (Kempsford)のテムズ河畔に、その名もバトルフィールド (Battlefield) という場所があり、1670年の調査?で、戦いの証拠となる鉄片などが発掘されたそうです。
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A.D. 801 (※802年と重複)
((この年、Bernmodがロチェスターの司教に任命された。))
((A.D. 801. This year Beornmod was ordained Bishop of Rochester.))
<訳注> 802年と重複しているので参考まで。
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A.D. 802 (月蝕)
この年、1月朔日の13日前の夜明けに、月蝕があった。
Bernmodがロチェスターの司教に任命された。
This year was the moon eclipsed, at dawn, on the thirteenth day before the calends of January; and Bernmod was consecrated Bishop of Rochester.
<訳注>
月蝕・日蝕などが結構多いので、拾っておきます。
なお、この時代は現在使われているグレゴリオ暦(太陽暦、1582年~)の前の、ユリウス暦(太陽暦)のはずですが、ASCには陰暦ベースの「ローマ暦」準拠の記載が多々あり、年月日にも色々とズレがあるので、下記の月蝕リスト(参考)などとあまり整合しないようです。(素人があれこれ書いて恐縮ですが、暦に詳しい人は各自計算なさってください...。)
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A.D. 803* (エグバート、正式に即位)
この年の6月24日、聖なる島(訳注:リンディスファーン島)の司教のHibbaldが死去した。
6月13日*には、エグバートがその地位の聖別を受けた*。
また、大司教 Ethelherd もケントにて死去し、ウルフレッド (Wulfred) が大司教に任命された。同年、修道院長の Forthredもこの世を去った。
A.D. 803. This year died Hibbald, Bishop of Holy-island, on the twenty-fourth of June, and Egbert was consecrated in his stead, on the thirteenth of June following. Archbishop Ethelherd also died in Kent, and Wulfred was chosen archbishop in his stead. Abbot Forthred, in the course of the same year, departed this life.
<*訳注>
・803年:実際は802年か、805年?(エグバートの戴冠は802年、ウルフレッドの大司教任命は805年)
・"On the thirteenth of June following" の時系列がよくわからないので(6月24日と逆??)、日付だけ拾いました。
・800年に「エグバートが王位を継いだ」記述がありますが、正式に戴冠したのはこの時のようです。(802年?)
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A.D. 804 (大司教ウルフレッドのパリウム)
この年、大司教ウルフレッドがパリウムを親授*した。
A.D. 804. This year Archbishop Wulfred received his pall.
<*訳注>
・パリウム pall/ pallium。教皇および大司教が肩回りに着ける、布飾り。教皇に正式に認められた、という意味でしょうが、この時代(6世紀~中世頃?)は、お金を払って貰う、ローマ教会の資金源のひとつでもあったようです。安定のローマカソリック。
▼この動画で教皇フランシスコが着けているのもその一種。
(このサント・スピリト・イン・サッシア教会については816年の項を参照ください。)
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A.D. 805* (カスレッド王死去)
この年、ケントのカスレッド王*、修道女コルバーガ、および州公のハーバートが死去した。
A.D. 805. This year died King Cuthred in Kent, and Abbess Colburga, and Alderman Herbert.
<*訳注>
・805年: 807年。
・ケントのカスレッド王 (Cuthred /Cuþræd )、在位798~807年。794、796年の項で言及されているエドバート(Eadbert Pryn /Eadberht III Præn) の後継。
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A.D. 806 (月蝕、月にかかる十字架、光輪)
この年、9月朔日に月蝕があった。
ノーサンブリアの王、イアドウルフ*が王位を追われた。また、Hexhamの司教、イアンバートがこの世を去った。
またこの年、6月のノネの前の翌日*、水曜の明け方に、月に十字架がかかっているのが見られた。
その後、同じ夏の9月朔日の3日前、太陽のまわりに素晴らしい光輪が現れた。
This year was the moon eclipsed, on the first of September; Erdwulf, king of the Northumbrians, was banished from his dominions; and Eanbert, Bishop of Hexham, departed this life. This year also, on the next day before the nones of June, a cross was seen in the moon, on a Wednesday, at the dawn; and afterwards, during the same year, on the third day before the calends of September, a wonderful circle was displayed about the sun.
<*訳注>
・イアドウルフ(Eardwulf of Northumbria):795年の項参照。月蝕がある年に王位に就いたり追われたりする人。
・Nones (ノウンズ/ノネ):ローマ暦の「イドゥス (Ides) の9日前」の日。3月ならイドゥスが15日なので、6日かと思いきや、3月7日らしい。更に上記の「on the next day before the nones of June」とか、意味不明。何故こんなややこしい日付を使うんだろう。(※暦をきちんと調べる気力がないので、ざっくりと訳してます。ご了承ください)
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A.D. 807 (日蝕)
この年、8月朔日の17日前、朝 7時丁度に、日蝕があった。
A.D. 807. This year was the sun eclipsed, precisely at eleven in the morning, on the seventeenth day before the calends of August.
<訳注>
日蝕しか特記すべきことが無かった年? 808~811年の記述も無し。
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A.D. 812* (シャルルマーニュの死)
この年、シャルルマーニュ*が死去した。在位 45年だった。
また、大司教ウルフレッド*が、ウェセックス司教のウィグバートを伴って、ローマに向けて旅立った。
This year died the Emperor Charlemagne, after a reign of five and forty winters; and Archbishop Wulfred, accompanied by Wigbert, Bishop of Wessex, undertook a journey to Rome.
<*訳注>
・812年: 814年。
・シャルルマーニュ [Charlemagne]
a. カール大帝、カール I世、チャールズ大王。西ローマ帝国衰退後の西ヨーロッパの一大帝国、フランク王国(フランキア、現在のフランス~ドイツあたり)を象徴する、えらい王様。ウェセックスを追われて国外逃亡していた頃のエグバート王がお世話になった。アルフレッド王も尊敬。
b. 故クリストファー・リーがヴォーカルを務めるメタルバンドの名前。(少々古い動画ですが)シャルルマーニュがテーマのかっこいい歌とリー御大のメッセージを聴こう!
・大司教(大主教)ウルフレッド:803年の項(実際は805年)でカンタベリー大司教に就いたウルフレッド。大司教としての在位は805頃~832年。カンタベリー大聖堂はケント領ですが、「カンタベリー大主教」はイギリス教会の大ボス。で、ケントを支配していたマーシア王 ケオンウルフ(Coenwulf、在位796~821)(およびケオルウルフ王(Ceolwulf))と喧嘩して役職を追われ、教皇に相談しに行ったことがあったようなので、その関連の記述かもしれない。(※役職を追われた時期は未確認ですので、間違っているかも知れません)
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A.D. 813* (エグバート王のコーンウォール進攻)
この年、大司教ウルフレッド*が、教皇レオ*の祝福を受け、復職した。
また、エグバート王がコーンウォール(西ウェールズ)* を東から西まで一掃した*。
A.D. 813. This year Archbishop Wulfred returned to his own see, with the blessing of Pope Leo; and King Egbert spread devastation in Cornwall from east to west.
<*訳注>
・813年: 815年。
・大司教ウルフレッドの復職:前年にローマ詣でに行ったウルフレッド大司教がイングランドに帰国して、教皇の後ろ盾を得て元の地位 ("see") に戻った、という記述か。前年(上記)のウルフレッドの訳注参照。
・教皇レオ:教皇レオ 3世 (Pope Leo III)。在位 795~816年。
・コーンウォール(西ウェールズ):原文は「西ウェールズ(West Walas/ Westwealas )」ですが、現在のコーンウォール地方に該当。ウェセックスの西に隣接しており、ブリトン人のエリア。アーサー王 (ブリトン人) 伝説のティンタジェル城なんかもある。
「東からに西まで」は実際に東→西に進攻したのか、単に「ことごとく」の比喩か。
・一掃した:上記の近代英語訳の直訳は「破壊を広げた」。そのままの意味かどうかわかりませんが、容赦ないエグバート。
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A.D. 814* (教皇レオ 3世の死)
この年、尊く聖なる教皇、レオが死去した。そして、ステファヌス*が教皇職を継いだ。
A.D. 814. This year died Leo, the noble and holy pope; and Stephen succeeded him in the papal government.
・814年:816年。
・教皇ステファヌス 4世(Pope Stephen/Stephanus IV):在位 816~817。
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A.D. 816* (ローマのイギリス県人会の火災)
この年、教皇ステファヌス 5世が逝去した。彼の後は、パスカリス*が教皇に任命された。
同年、ローマにあるイングランド県人会*が火災で焼失した。
A.D. 816. This year died Pope Stephen; and Paschalis was consecrated pope after him. This same year the school of the English nation at Rome was destroyed by fire.
・816年:817年。(B本では 815年)
・教皇パスカリス 1世 (Pope Pascal/Paschalis I):在位 817~824年。
・イングランド県人会 (school of English people/ Angelcynnes scolu /Schola Saxonum スコラ・サクソナム):
イングランド(サクソン)民のローマ巡礼者向けのお接待所。
現在のヴァチカン市の外縁にある、現サント・スピリト・イン・サッシア教会(Santo Spirito in Sassia。 A.D. 804年の訳注参照)の場所にあった。
ウェセックスの偉大な王さま、イネ王 (King Ine, 670年生、在位 689~726年) が晩年、726年に56歳で「若いモンに後は任せる...」と王位を降りて(※ビード・談)ローマ巡礼に旅立った際に設立した、と言われる。
※マーシア王オッファが設立した説もあり。
<余談>
ローマ現地語(ラテン)で「Schola Saxonum」(スコラ・サクソナム)は、直訳すると「サクソン人学校」、古英語の「Angelcynnes scolu」も「イングランド国民学校」になりますが、元々はローマ帝国下のブリタニア師団 (?) のサクソン軍人のクラブハウスだったのが、ローマ巡礼などに来たイングランド人向けの、県人会館・宿坊施設になったようです。敷地内には聖母マリアを祀った教会もありました。
(※ schola/ school は人々のグループ/一派、小隊の意味あり、念の為)
874年にマーシア王バーグレッド (Bergred) が、デイン勢の攻撃を逃れてローマに疎開し、客死した後、「イングランド人スクールの聖マリア教会に葬られた」とあります。
※なおこの時、バーグレッドの妻でアルフレッド王の姉であるエセルスウィスも同行してローマに逃れたようで、888年にロンバルディアのパヴィアに埋葬されましたが(A.D. 888年の項)、同年にアルフレッド王が派遣したローマ使節団に同行していた、という解釈もあるようなので、一旦実家に戻っていたのかも知れません。
「スコラ・サクソナム」はローマに税金も納めていましたが、アルフレッド王の要請により、教皇マリヌス 1世の代に免税されました (A.D. 885年の項)。 1204年にはイングランド県人会の役目を終えたようです。(Keynes & Lapidge, LoKA, Notes 82, p244, acc. Stevenson, "Asser")
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(※以下、819~822年もとりあえず翻訳省略。気が向いたら追加)
A.D. 819. This year died Cenwulf, King of Mercia; and Ceolwulf (33) succeeded him. Alderman Eadbert also departed this life.
A.D. 821. This year Ceolwulf was deprived of his kingdom.
A.D. 822. This year two aldermen were slain, whose names were Burhelm and Mucca; and a synod was holden at Cliff's-Hoo.
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A.D. 823* (天下分け目のエレンドゥンの戦い)
この年、カメルフォード* において、コーンウォールのウェールズ人*とデヴォンシャーの者たちの間で戦いがあった。
また、同年、ウェストサクソンの王・エグバートと、マーシアの王・バーンウルフ*が、ウィルトン*において戦い、エグバートが勝利したが、両陣ともに多くの犠牲を払った。
その後、エグバートは息子のエセルウルフ*を、軍本隊から分割した大人数の分隊と、司教エアルスタン*、および彼の州公であるウルフハードを伴わせて、ケントに派兵し、バルドレッド王*をテムズ川の北側に撤退させた。
これにより、ケントの民はただちに彼に従った。また、彼の同族の者たち*により不当に忠誠を妨げられていたサリー、サセックス、およびエセックスの住民も、同様に従った。
また同年、イースト・アングリアの王およびその臣民がエグバート王に対し、マーシアの脅威からの保護と平和を求めてきた。
同年、彼ら*は、件のマーシアの王バーンウルフを討ち取った。
A.D. 823. This year a battle was fought between the Welsh in Cornwall and the people of Devonshire, at Camelford; and in the course of the same year Egbert, king of the West-Saxons, and Bernwulf, King of Mercia, fought a battle at Wilton, in which Egbert gained the victory, but there was great slaughter on both sides. Then sent he his son Ethelwulf into Kent, with a large detachment from the main body of the army, accompanied by his bishop, Elstan*, and his alderman, Wulfherd; who drove Baldred, the king, northward over the Thames. Whereupon the men of Kent immediately submitted to him; as did also the inhabitants of Surrey, and Sussex, and Essex; who had been unlawfully kept from their allegiance by his relatives. The same year also, the king of the East-Angles, and his subjects besought King Egbert to give them peace and protection against the terror of the Mercians; whose king, Bernwulf, they slew in the course of the same year.
<*訳注>
・823年:825年。
・カメルフォード/キャメルフォード Camelfordは、コーンウォール北部の街。
・コーンウォールのウェールズ人 (Welsh in Cornwall):ブリトン人(ざっくりケルト民)の内、ウェルシュ (Welsh) ではなくコーニッシュ (Cornish /コーンウォール人) ? このへんよく解りません。
・バーンウルフ (Bernwulf/Beornwulf )王。
・ウィルトン Wiltonの場所は Wroughton等、諸説あるようですが、ウィルトシャーのスウィンドンの南のあたり(ウェセックスとマーシアの国境付近)と推測されています。
このエグバート(ウェセックス)vs バーンウルフ(マーシア)の戦いが「エレンドゥンの戦い (Battle of Ellendun/ Ellandun)」で、アングロサクソン七王国のマーシア支配時代が終わりウェセックスに覇権が移った、天下分け目のエレンドゥンヶ原でした。
・エセルウルフ Ethelwulf はアルフレッド王の父。この後、エグバート在位中はケント王を任される。
・司教エアルスタン(エルスタン、Elstan/ Ealstan/ Ealstan):シャーボーンの司教。867年没、後任はヘフマンド (Heahmund)。(A.D. 845の項参照)
※ 後に、この時同行したエセルウルフ(王)の晩年、彼がアルフレッド(王子)と共にローマに巡礼で留守にしていた際に、エセルウルフ王の次男・エセルバルドと共に、エセルウルフの王位復帰を阻止すべく動いた。戦ったりお家騒動に加担したり、血なまぐさい。
・ケントのバルドレッド王 (Baldred)は親マーシア派。テムズ川の北側はマーシア領。
・「彼の同族の者たちにより~/ by his relatives」:あまりよくわかりませんが、サリー、エセックス、サセックスは、親マーシアのバルドレッド王(上記)および/またはその副王たち(sub-kings) に支配され、マーシアの属国扱いになっていたようですので、その意図かと。
・「彼ら」:バーンウルフを討ち取ったイースト・アングリア民。
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A.D. 825* (マーシア王ルーディカの死)
この年、マーシアの王 ルーディカ*、およびその臣下の州公 5人が討たれた*。
その後はウィグラフ* が王位を継いだ。
This year Ludecan, King of Mercia, was slain, and his five aldermen with him; after which Wiglaf succeeded to the kingdom.
<*訳注>
・825年:実際は827年。
・ルーディカ、Ludecan/ Ludeca/ Ludica。
・討たれた:イースト・アングリア征伐に行って現地民と激しく交戦し、戦死したようです。
ドラマ「ラスト・キングダム」S4 E5~E8に出てくる同名(Ludeca)のキャラクターとは多分別人。
・マーシア王 ウィグラフ、Wiglag/Wiglaf。
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A.D. 827* (月蝕、エグバート王の天下統一)
冬至のミサの夜*に月蝕があった。
同年、ウェセックスのエグバート王がマーシア王国、およびハンバー*以南すべての地域を征服した。これにより、ブリテンの王国すべてを支配した8番目の王となった。
このように広大な領土を掌握した初めての王は、サウス・サクソンの王、エラ (Ella)* である。
2番目はウェスト・サクソンの王、シウリン (Ceawlin)*。
3番目はケント王、エセルバート (Ethelbert)*。
4番目はイーストアングリア王、レドウォルド (Redwald)*。
5番目はノーサンブリア王、エドウィン (Edwin)*。
6番目はその後継者、[ノーサンブリア王] オズワルド (Oswald)*。
7番目はオズワルドの弟、オスウィ (Oswy)*。
そして8番目が、ウェセックス王、エグバート。
このエグバートが、ノーサンブリアに向けてドレ (Dore)まで進軍*した。この地でノーサンブリア民が [ウェセックス軍と] 会談を設け、無抵抗と服従を申し出た*。申し出が受け入れられると、彼らは帰国した。
A.D. 827. This year was the moon eclipsed, on mid-winter's mass-night; and King Egbert, in the course of the same year, conquered the Mercian kingdom, and all that is south of the Humber, being the eighth king who was sovereign of all the British dominions. Ella, king of the South-Saxons, was the first who possessed so large a territory; the second was Ceawlin, king of the West-Saxons: the third was Ethelbert, King of Kent; the fourth was Redwald, king of the East-Angles; the fifth was Edwin, king of the Northumbrians; the sixth was Oswald, who succeeded him; the seventh was Oswy, the brother of Oswald; the eighth was Egbert, king of the West-Saxons. This same Egbert led an army against the Northumbrians as far as Dore, where they met him, and offered terms of obedience and subjection, on the acceptance of which they returned home.
<*訳注>
・827年:実際は829年。
・「冬至」(midwinter) としましたが、これはゲルマン系のユール (Yule)とキリスト教のクリスマスが混ざったような、冬至~クリスマスの時期と思われます。なので、冬至~クリスマス当日か、クリスマス期間 (Christmastide / Yuletide、現代では概ね12/25~1/6) のどこかの夜間に月蝕があった模様。
<余談>
この当時のイングランドのアングロサクソン民はキリスト教化しているものの、まだまだ元々のゲルマン系の「異教徒 (ヒーザン/ペイガン)」(heathen/ pagan) の習慣が残っており、神仏混合みたいな感じで段々融合されていき、現代に至る途中。
例えばイギリス等では、19世紀頃まではユール・ログ (Yule log)という丸太を燃やす習慣も残っており、これはフランス語圏では「ブッシュ・ド・ノエル」ケーキの元になったもの。
敵対するヴァイキングを「異教徒」と呼びつつ、同じ文化をかなり共有しているアングロサクソン。鼻持ちならぬクリスチャン意識!
・ハンバー Humberは、イングランド北部、当時のマーシアとノーサンブリアの境界にある入り江(三角江)およびその流域。地域の境界の慣用句?として、アルフレッド王の「牧会規則」(Pastoral Care) の前文にも出てくる。
・サセックス王 エラ (Ella/Ælle/AElle)、在位 477年頃~514年頃。(ラグナル・ロスブロックを蛇穴に放り込んだノーサンブリアのエラ王とは別)。
・ウェセックス王 シウリン /チェウリン (Ceawlin /Ceaulin /Caelin)、在位 560年~592年頃。ウェスト・サクソン(西サクソン民)の中興の祖。初代ウェセックス王サーディック(チャーディッチ/チェルディッチ/ケルディックetc)(Cerdic) の孫。
・ケント王 エセルバート (Æthelberht/ Æthelbert /Aethelberht /Aethelbert /Ethelbert)、550年生、在位 589~616年頃。キリスト教に転向した初めてのアングロサクソン王として、列聖された。彼の在位中にアウグスティヌスがローマから派遣され、初代カンタベリー大司教となり、イングランドのアングロサクソン民にキリスト教をごりごり布教した。
・イーストアングリア王 レドウォルド (Rædwald /Redwald)、在位 599~624年頃。イーストアングリア王として初めてキリスト教に転向した王。
イーストアングリアのサットン・フーで発掘された船葬墓は、レドウォルドの墓ではないかという説がある。(▼写真は大英博物館にあるレプリカ、2018年撮影。2020年9月現在、この展示がある階はまだ閉鎖中です)
・ノーサンブリア王 エドウィン (Edwin/ Eadwine/ Æduinus)、586年生、在位616~632/633年頃。まだノーサンブリアがデイラ王国とバーニシア(ベルニシア)王国に分かれていた頃の王。627年に洗礼を受けキリスト教徒になったせいか、列聖されている。
・ノーサンブリア王 オズワルド (Oswald)、604年生、在位 634~641/642年。マーシアとの戦いで戦死し遺体がバラバラにされたが、祈りながら死んだ、右手が(生前の善行により)腐らなかった、右腕を鳥が持ち去り、落とした場所から木が生えて人々を癒した、等の奇蹟(伝説)により、列聖され「聖オズワルド」となった。
ドラマ「ラスト・キングダム」シーズン4 E1で、マーシア公エセルレッド(アルフレッド王の娘エセルフレッドが嫁いだ性格悪い夫)が集めている「聖オズワルドの聖遺物」は、この聖オズワルド王。
・ノーサンブリア王 オスウィ (Oswiu/Oswy/Oswig)。612年生、在位642~670年。
・ドレ (Dore)は、シェフィールド南部の村。エグバート王行幸記念碑...もとい、戦勝記念碑(1968年建立)があるらしい。
・ここでノーサンブリア(イアンレッド王/King Eanred)が降伏したので、これを以てエグバート王のイングランド天下統一で初代イングランド王(上記の8番目ではなく、北から南まで全土の統一)とする見方もある。
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A.D. 828* (エグバートの三日天下の終わり)
この年、ウィグラフがマーシア王国を奪還*した。
また、司教エセルワルドがこの世を去った。
同年、エグバート王が北ウェールズ*に進軍し、現地民を平和的に服従させた。
This year Wiglaf recovered his Mercian kingdom, and Bishop Ethelwald departed this life. The same year King Egbert led an army against the people of North-Wales, and compelled them all to peaceful submission.
<*訳注>
・828年:実際は830年。
・825年の項(実際は827年)でマーシアの王位を継いだウィグラフ (Wiglaf/ Wiglag ) が、前年 (A.D. 827年の項、実際は829年) にエグバート王に奪取されたマーシアを取り戻した。エグバート王の1年天下の終わり。
・北ウェールズ(マーシア支配下)の征服の記述が後になっていますが、北ウェールズも従えた(権勢のピーク)→その後マーシアを奪還され、天下統一終わった...という流れのようです。(未確認)
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A.D. 829* (大司教ウルフレッドの死)
この年、大司教ウルフレッド*が死去した。
彼の後継として修道院長フェオロギルド* が 4月 25日に選定され、6月 11日(日曜日)に宣誓してその地位を継いだが、8月 13日*に死んでしまった!
This year died Archbishop Wulfred; and Abbot Feologild was after him chosen to the see, on the twenty-fifth of April, and consecrated on a Sunday, the eleventh of June. On the thirteenth of August he was dead!
<*訳注>
・829年:実際は 832年。
・805年(上記 803年の項)に カンタベリー大司教に就任し、マーシア王と喧嘩したりしていたウルフレッド。安らかに眠れ。
・フェオロギルド (Feologild /Feologeld)。
・8月13日:8月 30日の誤記。2か月の短い在位でした。アーメン。
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A.D. 830* (カンタベリー大司教の後継)
この年、修道院長 フェオロギルドの死去に伴い、ケオルノス*が大司教に選定され、宣誓して正式に就任した。
A.D. 830. This year Ceolnoth was chosen and consecrated archbishop on the death of Abbot Feologild.
<*訳注>
・830年:実際は 833年。
・ケオルノス (Ceolnoth /Ceolnoþ)。なお「宣誓」と訳しましたが、censecration (神聖であると宣言する、聖別する、奉献する(と誓う))で、正式な就任式を行った、みたいな感じでしょうか。宗教用語に不慣れですみません。
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A.D. 831 (大司教ケオルノス、パリウム親授)
この年、大司教ケオルノスがパリウム*を受けた。
A.D. 831. This year Archbishop Ceolnoth received the pall.
<*訳注>
・パリウム:「A.D. 804」項の訳注参照。
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A.D. 832* (ヴァイキング、シェピー島で略奪)
この年、異教徒の民がシェピー島*を蹂躙した。
A.D. 832. This year heathen men overran the Isle of Shepey.
<*訳注>
・832年:実際は835年。
・シェピー島 (Isle of Sheppy、「羊の島」) はテムズ川河口に隣接する島。ヴァイキングがイングランド南部で初めて本格的な「略奪」を行った場所。855年 (A.D. 854項)にはここで越冬した。(イングランド北部は、リンディスファーンとかが先行。)
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A.D. 833* (チャーマス戦: ○デインvs●エグバート)
この年、エグバート王がチャーマスにおいて35隻の海賊* と戦った。多くの戦死者を出し、デイン側が勝利した。
同年、司教のヒアファース、ウィゲン、および州公の ドゥッダとオズモッドが死去した。
A.D. 833. This year fought King Egbert with thirty-five pirates at Charmouth, where a great slaughter was made, and the Danes remained masters of the field. Two bishops, Hereferth and Wigen, and two aldermen, Dudda and Osmod, died the same year.
<*訳注>
・833年:831年、832年説あり。
・チャーマス (Charmouth)、南西部の海岸沿いにある、チャー川/River Char 河口の街。787年の項で「デイン」(実際はノルウェイ人)が漂着したポートランド島より更に西で、(当時の地形は不明ですが)河口の位置なので上陸しやすそう。
・「海賊」:デイン・ヴァイキング。原文は「船に乗った、戦う男たち(sciphlæsta) 」。
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A.D. 835* (ヒングストンダウン戦:●デイン&コーニッシュ vs ○エグバート)
この年、西ウェールズ*に武装した大部隊の船が押し寄せ、現地の民*と合流して、ウェセックスの王エグバートに戦争を仕掛けた。
エグバート王は、この一報を受けるとただちに軍を率いて向かい、ヒングストン*で交戦した。彼はウェールズ人とデーン人*の両方と戦った。
A.D. 835. This year came a great naval armament into West-Wales, where they were joined by the people, who commenced war against Egbert, the West-Saxon king. When he heard this, he proceeded with his army against them and fought with them at Hengeston, where he put to flight both the Welsh and the Danes.
<*訳注>
・835年:838年。
・西ウェールズ (West-Wales)とありますが、現在の西ウェールズ(ブリストル海峡の北側)ではなく、コーンウォール(813年にエグバートが進攻した、ブリストル海峡の南側、ウェセックスの西側の地域)のようです。
・現地の民:コーンウォール系ブリトン人 (Cornish Briton)
参考: https://www.britannica.com/biography/Egbert
・ヒングストン (Hengeston/ Hingston):コーンウォール中部、プリマスの北のあたりの丘陵地で戦われた、「ヒングストン・ダウンの戦い (Battle Hingston Down)」。ウェセックス軍が勝利。
▲後年878年のエサンデュン(エディントン)の戦い(アルフレッド王vsデイン)の際の逸話に出てくる「エグバート王の石」....をイメージして(?) 2000年に建てられた石碑。(エグバート王には直接関係ありません。) 2018年撮影。
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A.D. 836* (エグバート王、死す)
この年、エグバート王が死去*した。
彼は、王になる3年前、マーシア王 オッファと、ウェスト・サクソン王 バートリックにより、フランスへと追いやられた*。バートリックはオッファの娘と結婚したので、オッファを援護したのである。
エグバートはその後帰国し、37年と7か月、王として君臨した。
この後、エグバートの息子のエセルウルフ*がウェスト・サクソン王国を継承した。そして、彼の息子であるアセルスタン*にケント、エセックス、サリーおよびサセックスの各王国を与えた。
A.D. 836. This year died King Egbert. Him Offa, King of Mercia, and Bertric, the West-Saxon king, drove out of England into France three years before he was king. Bertric assisted Offa because he had married his daughter. Egbert having afterwards returned, reigned thirty-seven winters and seven months. Then Ethelwulf, the son of Egbert, succeeded to the West-Saxon kingdom; and he gave his son Athelstan the kingdom of Kent, and of Essex, and of Surrey, and of Sussex.
<*訳注>
・836年:エグバート王の没年は839年。
・オッファとバートリックによるエグバートの追放:「A.D.787」、「A.D. 800」の項の訳注参照。
・エセルウルフ (Ethelwulf /Æthelwulf / Ethelwulf):アルフレッド王の父王。なお、ウェセックスで息子が王位を継ぐのは 641年以来初めて。
・アセルスタン (Athelstan/ Æthelstan):エセルウルフの息子、長子。アルフレッド王の長兄。ウェセックス領の一部であるケント、エセックス、サリー、サセックスの王となり、ウェセックス王位は継がなかった。
・彼の息子に:エセルウルフの息子に。マニュスクリプトD, E, Fではエセルウルフの兄弟(=アルフレッド王の叔父)と書かれている。
▼ウィンチェスター大聖堂にある、エグバート(とエセルウルフ他の王等の)遺骸箱。「HIC REX EGBERTUS....」(ここにエグバート王が...)と書かれている。この箱は計 3個あり、どこに誰の何が入っているかはよくわかっていない。(最初の埋葬地から掘り出したものなどを雑に詰めた。)2018年撮影。A.D. 854年の項にも写真あり。
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A.D. 837* (サウザンプトン戦、ポートランド島戦)
この年、州公ウルフハードが ハムトン* において33隻の海賊と戦い、多くの戦死者を出したのちに勝利したが、彼は同年死去した*。
同じくドーセット州公のエセルヘルムも、ドーセットシャーの者たちと共にポートランド島*でデイン軍と戦い、しばらくの間は撤退させたが、最終的にはデインが勝利し、州公を討ち取った。
A.D. 837. This year Alderman Wulfherd fought at Hamton with thirty-three pirates, and after great slaughter obtained the victory, but he died the same year. Alderman Ethelhelm also, with the men of Dorsetshire, fought with the Danish army in Portland-isle, and for a good while put them to flight; but in the end the Danes became masters of the field, and slew the alderman.
<*訳注>
・837年: 840年?
・ハムトン(Hamton):Hamtun/Hamtune。サウザンプトン (Southampton) のようです。
参考:A.D.1094項に出てくる「Hamton」の注釈(119)参照
https://www.gutenberg.org/cache/epub/657/pg657.html
※ノーザンプトンも19世紀頃まで Hamtonと呼ばれており、John Bartholomew's Gazetteer of the British Isles (1887) には『(ノーザンプトンはサクソン時代には "Hamtune, Northafendon" と呼ばれていた』という記述があるようですが、33隻の船で攻めるには内陸すぎる?(下の写真参照)
https://www.visionofbritain.org.uk/place/648
・ポートランド島は787年の項参照。ドーセット郡の島。
▼サウザンプトン港のフェリー乗り場。
かなり内陸までとても幅広い河(三角江)が続いています。
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A.D. 838* (デイン勢、あちこちで大暴れ)
この年、州公のハーバート*、および多くの沼地の民*の兵が彼と共に異教徒に殺された。
その後、同年、リンゼイ*、イースト・アングリア、ケントでも、多くの民が異教徒軍に殺された。
A.D. 838. This year Alderman Herbert was slain by the heathens, and many men with him, among the Marshlanders. The same year, afterwards, in Lindsey, East-Anglia, and Kent, were many men slain by the army.
<*訳注>
・838年:841年。
・州公ハーバート:おそらくサマセット州公。(地理的に)
805年の項の「州公ハーバート」とは多分別人。
・沼地の民 (Marshlanders):沼地の多いサマセット地方の民と思われる。
※サマセット (Somerset) は、後にアルフレッド王がデイン勢の襲撃から逃れて隠れた沼地とその拠点「アセルニー島」のある地域。
アセルニー周辺は現在は灌漑が進んでおり、夏と秋に行った時は沼ではなかったですが(写真参照)、冬期は洪水の被害を受けやすいようです。
・リンゼイ王国 (Lindsey /Linnuis /Lindeseg):ハンバー川の南の、「七王国」より小さい王国。ノーザンブリアに統合され、その後マーシア治下となった。現在のリンカーンシャー郡の一部。
▼サマセット郡「アセルニー」周辺の牧草地の牛 (2011年撮影)
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A.D. 839* (デイン勢、更に大暴れ)
この年、ロンドン*、カンタベリー、ロチェスター*で大虐殺が行われた。
A.D. 839. This year there was great slaughter in London, Canterbury, and Rochester.
<*訳注>
・839年:842年か。
・ロンドン (Lundenne): この時のロンドンが、ローマ帝国時代のロンディニウム (Londinium) が過疎っていたのをアルフレッド886年あたりに本格的に再建し始めた Lundenburg (ルンデンバラ?) の方か、ローマ軍撤退後の居住エリアの Lundenwic (ルンデンウィッチ?) か未確認ですが、テムズ川(マーシアとウェセックスのほぼ国境)の北側だったので、基本的にマーシア領で、9世紀に入ってからはマーシアとウェセックスで取りあいをしていたようです。
・カンタベリー、ロチェスター (Cwantawic, Hrofesceastre):こちらはケント領で、823年にエグバート王が征服したのでウェセックス配下のはず。
ロチェスターはロンドンから東に 50kmくらいの Medway川の河口あたり、カンタベリーはそこから更に東に 50kmくらい。海から遠くないあたりを効率よく回っている。
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A.D. 840* (チャーマス戦: ○デインvs●エセルウルフ)
この年、チャーマス*においてエセルウルフ王が 35隻の船団と戦い、デインが勝利した。
この年、皇帝ルイ*が死去した。
A.D. 840. This year King Ethelwulf fought at Charmouth with thirty-five ship's-crews, and the Danes remained masters of the place. The Emperor Louis died this year.
<*訳注>
・840年:843年か。
・チャーマス: A.D. 833の項でエグバート王が同じく 35隻のデイン海軍と戦って負けた、ドーセットの海岸沿いの街。
・皇帝ルイ:ルイ敬虔王、ルードヴィヒ I世 (Louis the Pious, Ludwig I/der Fromme)。フランク王国の王。シャルルマーニュの息子。在位 813~840年。
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A.D. 845* (パレット川戦: ●デインvs地元リーグ)
この年、サマセットシャーの者達を率いた州公イアンウルフ*、および司教エアルスタン*、およびドーセットシャーの者達を率いた州公オスリック*が、パレット川の河口*でデイン軍と戦い、多くの戦死者を出した後に勝利した。
A.D. 845. This year Alderman Eanwulf, with the men of Somersetshire, and Bishop Ealstan, and Alderman Osric, with the men of Dorsetshire, fought at the mouth of the Parret with the Danish army; and there, after making a great slaughter, obtained the victory.
<*訳注>
・845年:848年か。
・イアンウルフ (Eanwulf):842年にエセルウルフ王からグラストンベリーの南東の土地を与えられた記録があるらしい(下記リンク参照)。
https://oldsomerset2.wordpress.com/tag/eanwulf-ealdorman-of-somerset/
・司教エアルスタン: Ealstan/ Eahlstan / Ealchstan はシャーボーン教会(※ドーセット領内)の司教。教区はドーセット、サマセット、デヴォン(後にコーンウォール)(上記リンク内参照)。867年没。
A.D. 823の項で、エセルウルフ王(当時は王子)と共にケントに進軍している。
※ドラマ「ヴァイキング」のシーズン4/5に出てくる、戦うシャーボーン司教ヘフマンド(Heahmund) の前任。実際のヘフマンドも従軍しており、シャーボーン司教は戦いがち。
<余談>
アッサーの「Life of King Alfred」12節(855年)によると、エセルウルフ王が晩年のローマ巡礼 (A.D. 854の項参照)から帰国時、エセルウルフの次男で王の留守を任されていたエセルバルド (Ethelbald) が、上記のイアンウルフ、司教エアルスタンと共に、エセルウルフ王の王国からの追放を企てる「前代未聞」の陰謀を計画し、結果的にウェセックスが分割され、エセルバルドが東部(ドーセット、サマセット含む)の王となりました。
・州公オスリック (Osric):キュネウルフ王と殉死したオスリックとは別。念の為。
・パレット川の河口 (Parret):サマセットの北側、ブリストル海峡にそそぐ。なお、パレット川の上流は、後にアルフレッドが敵から逃れて隠れる「アセルニー」まで続いている。
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(A.D. 847~851頃:アルフレッド王子ご生誕)
(訳注:この間に記述はありませんが、 847~851年頃にウェセックスのアルフレッド王子ご生誕。6人兄姉弟の末っ子、5男坊。※5人兄弟、4男坊説もあり)
<<長くなったので一旦ここまで。A.D. 851年~からは次ページへ >>>