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【広島商人】知られざる戦後復興の立役者(7)船長の協力

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7 船長の協力

 この谷にも久しぶりにおとずれた朝陽ちょうようが、虹を逆にしたように、樹木の間から幾筋も射しこんで、親子の進路を照らしている。
 
 「お父さんも利雄も気をつけてね」
 
 房子の顔には涙が流れている。宇品へむけて己斐からいくには、いつもなら電車に乗って約一時間。
とにもかくにも、徒歩で宇品うじなへ着いたのが正午すぎである。
うそのようなほんとの話である。
豪雨に洗われた空は澄み透っている。
 
途中、栄養失調におびえた罹災りさい者の人たちが、何の用事があるのか焼跡を探し求めているのや、放心状態で途方にくれさまよう姿が眺められた。
こんなときに必要なものは、黄金の力でもない、権力でもない、正義の守りだの、犠牲だの、愛だのという高い人間の精神はいつも耳にあきるほどきかされたが、しかし人間の誠の心こそ、何物にもまさる尊いものだと知った。
敗戦とはいえ、政府はなぜ救助の手をさしのべてこないのであろうか。
災厄をうけたあらゆる苦患から、ただちに民衆を救い出すのが政治の誠だ。
自然の滅亡を待つ政治が、何の役にたとうか。
 
 宇品桟橋より目的地にむかって、一日一往復の連絡船が通うことがわかった。
午後三時に復便があるそうで、その船に乗る算段である。
それまでに何とかして、なにか食べる物をと思って、リュックサックを背にまとい、あちこち探し求めた、けれど、何も手に入れることはできなかった。
 この宇品港一帯も、戦時中には、軍部の重要港として雑沓したにぎわいを呈していた。
いまはその面影もなく、原爆の罹災につづいて、今度の雨風にたたきのめされた静けさである。
 船は瀬戸内海の島々を望みつつ、しずかな波をきってゆく。
罹災のない身分であったら、さだめし楽しい思いであろうに、いまは何たる不幸な私たちの身の上だろう。そう思うと、涙がこみあげてくる。
はや四時半も過ぎるだろう。
 
 「腹がペコペコになったよ」
 
 とつぶやく息子の声が耳にはいった。
朝食とは名ばかり、正午とても食事はとっていないのだもの、無理はない。
何か知らん、気がめいりこんでくる。
潮の干満に島や山は変化を見せ、大自然の美しさを加えている。
利雄は、あの島この島と船が進むにつれて変わってくる風光に、眺め入っていた。

隣の船客は、
 
 「昨日までは海も大荒れじゃったに。船も欠航しちょった。今日はふしぎなような、しずかなよい天気じゅのう」
 
 という。

ふと利雄が声をあげ、向こうの島をゆびさしながら、
 
 「お父さん、あの島は何かたいへんなことが起きとるんじゃあないかのう」
 

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8,230字
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この文章は昭和31年11月に発行された「広島商人」(久保辰雄著)の冒頭です。(原文のまま、改行を適宜挿入) 広島は原爆が投下された約一か…

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