λόγος の言葉としての役割と発展
はじめに
キリスト教の理解は、基本的に解釈学に基づく。解釈は、正しいものとして一意に導出できるものではなく、想像力を用い、柔軟に様々に行われるもの。キリスト教のテクストは表現技法をも駆使していることで、そもそも言葉通りに受け取るようなものではない、と捉えることができる。
歴史がそういったものであるように、「真実として伝えられてきたキリスト教」がそのように存在する。「書かれ、残っている」ということが事実である。 聖書は想像力を持ち、絶えず意味を考えながら読むもの。
歴史と異なる点は、目的が異なることである。「営まれていたこと」の記述ではなく、「どう営んでいくことが善か」ということの提示。
歴史は「様々な視点から検討することが可能」であり、史料批判を経て構築されるものの「真理」を示すことは稀、それをもって主張や結論に導くことには慎重さが求められる。
歴史的記述の理解には、時代背景を考慮することも必要、しかし受け取り、生かし、身にし実践していくためには、時代性や地域性を超えた普遍性を抽出し、現状に適用するための常なる解釈が必要となる。
λόγος の理解
聖書での λόγος は単に「言葉」と訳されるが、その本来の意味は多層的であり、宇宙の秩序や自然の法則を表す重要な概念である。
ヨハネによる福音書の冒頭において λόγος は神―言葉(宇宙の秩序や自然の法則)であり、キリストの本質とされ、それは創世記の「言葉によって世界が創造された」という考え方と密接に結びついている。
この文脈での λόγος は、単に言葉や理性を超えた、神の本質や創造の根源 ἀρχή に関わるもの。
しかし、この二か所での「言葉」は、一方は λόγος としての「言葉」であり、もう一方は εἶπεν「言った」であって、同じ意味合いではないため明確な区別が必要。
創世記の天地創造とヨハネによる福音書第1章の λόγος は、神が世界をどのように創造したかを示すものであり、両者は創造の一連の流れを理解するための異なる側面を提供する。
役割として、天地創造は主に「育成」と「認識の獲得」を示し、自然界全体の成長の営みを捉える認識枠組みを提供する。一方で、ヨハネによる福音書第1章は創造の根源的な働きを明らかにし、キリストとの関係性を強調している。
神と自然の関係
神―φύσις―λόγος
神は宇宙全体を包含する無限の「在る」であり、その本質は λόγος によって規定されている。この視点から、神は単なる人格神ではなく、存在するすべてのもの φύσις の背後にある原理や法則として理解される。
無限の自然の法則―λόγος
宇宙の全ての事象は λόγος によって必然的に決定されており、その秩序の下で事象は展開される。λόγος は自然の法則として作用し、全ての存在がその法則に従う。
有限の現象世界―φύσις
有限の個々の存在は φύσις の様々な様態であり、λόγος によって規定された秩序の中で現れる。この観点から、私たちの現実世界は無限の法則の具体的な表れと捉えられる。
言葉と表現と発言
λόγος は神の本質や意図の根本を示す抽象的な概念であり、ῥῆμα はその意図やメッセージが具体化され表現される形を示し、εἶπεν は神の具体的な発言や命令を表す。
λόγος は具体的なメッセージ ῥῆμα を通じて表現され、特定の命令や発言 εἶπεν として具現化されることで、私たちに理解可能な形で現れる。
こうしたことから、λόγος の言葉としての役割と発展を概観することは、神や本質の理解に貢献する重要なプロセスであると言える。
言葉の広範な意味と機能
言葉や λόγος のように多岐にわたる意味を持つものは、まずそれらを展開し、それぞれに掘り下げて理解する必要がある。言葉は会話用途だけでなく、記号、数式、ロジックなど、広範な意味と機能を持つもの。これらを展開し、多角的に掘り下げることで、より深い理解と応用が可能になる。
言葉の組織化機能
言葉は様々な場面で「総合」し「組織だてる」ものとして機能する。これは情報や概念を統合し、体系化する役割をもつ。言葉をこのように捉えることで、その広がりと多様な機能の理解がより深まる。
corpus の役割
言葉の組織化機能を理解する上で重要な corpus は、特定の目的のために収集された大量のテキストデータの集合。これは言語の使用パターンや意味の変遷を分析し、言葉の総合的な理解を助ける。その構造と役割のラテン語の語義に近い総体としての体としての corpus 理解、オートポイエーシス的に繋がり変化し育成し続ける有機体としての捉え方。
認識の仕方、感性と悟性
カントの範疇論に示されるように、認識するには直観で得られた多様なものを概観し、受け入れ、結合し総合しなければならない。感性なしには対象を捉えられず、悟性なしには対象を思惟できない。内容の無い思考は空虚であり、概観無き直観は盲目的。
普遍的原理としての言葉
言葉を神とみなす場合、教会は「有機体」として機能する。これは教会が一つの統一体として存在し、言葉を通じて信仰を共有する共同体であることを示唆する。φύσις やスピノザの natura のように言葉を普遍的な原理として捉えた、自然や宇宙の秩序を表現する手段としての位置づけ。
現象世界の定義と特徴
質料と現象
現象世界は、質料の有無にかかわらず、具体的な存在や出来事が「現象する」場であり、質料はその現象において必須の要素。質料があることによって、物質的な存在が現れる一方で、質料のない現象(思考や感情など)もこの世界で体験される。
無限から有限への展開
現象世界は、無限の源泉から成り立つ有限の面。無限なる神や自然の法則λόγος が、様々な現象として有限な存在を生み出すことで、私たちの経験や理解の基盤となる。この視点から、現象世界は無限の多様性を包含している。
λόγος と Natura naturans
Natura naturans(自ら自然を生み出すもの)はスピノザにおいては神そのもの、つまり無限の能動的な自然 φύσις を指す。それ自体が原因であり、あらゆる現象を生み出す根源的な原理(ἀρχή における λόγος)。
φύσις と Natura naturata
Natura naturata(生み出された自然):神によって生み出されたもの、あるいは生成された自然として理解される。これは有限な個々の存在 modus や、物理的世界における様々な現象を指す。
φύσις 自然そのもの― natura naturata は「現象世界」において具体化された存在であり、無限なる神の現れ modi として捉えられる。したがって、φύσις は拡張された自然、すなわち natura naturata の具現化として、有限の世界での出来事や物質的存在を表す。
Extensio と Modi
Extensio:拡張属性は、スピノザにおいて、物質的・空間的現象が現れる場を指す。これは「現象し、現象を捉える場」としての理解に対応。拡張属性の下では、個々の modi(有限の存在)が実際に物質的な形をとり現れ、変化し、互いに作用し合う。
Modi(様態): スピノザの modi は、神の属性(思考や拡張)の具体的な現れを指す。有限の存在や出来事は substantia としての modi として現れるが、これらの essentia としての modus は神の無限の属性に依存する。したがって、modi は現象世界での個別の存在や出来事を示すものであり、「現象してきた」存在であるといえる。
extentio があるとき、これは神の属性が物理的に拡張されている状態を示す。この拡張において、具体的な存在や事象が modus として現れる。その中で modi は具体的な存在の様態を指し、個々の事象(物体や生物)がこの extentio の特定の形として modus される、すなわち具体的な形を持つ modi として現れる。
modus は Natura naturans に属する essentia
modi は Natura naturata に属する substantia
生命としての「在る」
οὐσίᾱ は本質的な存在としての根底を成しながら、δύναμις(力)を通じて潜在的な能力を持ち、λόγος を媒介として宇宙の秩序や理性を表現し、ἐνέργεια(働き)として具体的な実践や現象に現れる。
οὐσίᾱ は ἐπέκτασις された τρόπος―φύσις として、その運動を捉えることができる。
extensio された modus が natura
ἐπέκτασις された τρόπος が φύσις
natura からの感受とその表現
natura から conatus の指向により imaginatio が受け取り、intellectus による ratio な natura 理解を身にした scientia intuitiva が表現を手法を自由に思いのままに、それを理想と目指し形にし、それを通じて imaginatio の受け手に還元する。
人文科学との関わりと具体的な適用の基礎
観察と社会的合意
言葉は社会的合意や思考の産物であり、観察や研究の結果から確定されてきたもの。科学と宗教も、このようなプロセスを経て成立している。共に根拠に基づいた仮説を立て、それを実際にどう役立てていくかが重要。
宗教の社会学的知見
デュルケムの視点に基づき、宗教も「考え方や捉え方を記述してきた社会学的事実」として捉えることができる。宗教は人々の信仰や価値観、社会的な関係性を体系化し、共有する役割をもつ。
宗教と科学の役割と関係
直接捉えられない、認識や理解が困難なものごとも、何らかの形で仮に捉え、それを元に理論だてることで認識や理解に結びつけることが可能になる。宗教はそのような仮定を元にした世界観、認識枠組みを提供する役割も担う。
科学も宗教も「仮説」を立て、それを検証しながら理解を深めるプロセスを共有する。観察された現象の抽象化による、横断的な理解。
科学とのつながり、基礎法学における哲学と神学
人文科学の一例、基礎法学においても哲学と神学は切り離して考えられない。科学的な面と価値判断の面。
哲学は論理的な思考の基礎になり、神学は倫理的な価値観の源泉。体系的な理解として、法の根源的な問いを深く掘り下げる上で不可欠であり、相互に補完し合う関係にある。
記述としての聖書と解釈学、その法学への応用
聖書は、人間一般に妥当する普遍性をもつ。しかしその個別的具体的な状況への適用には神の意志とされるものを元に解釈する必要がある。
そのために聖書解釈学が生まれ、発達した。一般的に規定された法律の条文を個別的事例へと適用する際に法律を解釈する、法律解釈学はその応用。
法律学は人文的解釈学としての歴史の過程で洗練されてきたが、ローマ法や教会法の影響も色濃く残る。
慣習から法体系へ、責任評価の変遷と法の精緻化
法の根底には論理的な体系だけではなく、文化的背景との相互作用に強く依存し、慣習や道徳といった非論理的な要素も関わる。法の発展過程とそれに伴う責任の評価、文化的な慣習から法の体系化とその適用、法の精緻化の過程に至るまでを、異なる視点と理論体系を通じて概観する。
慣習と法の文化的基盤
慣習:特定状況下での活動、解釈、不法や犯罪の責任分配等、習慣と推定を考慮した、権利問題に関する国民の素朴な感覚による。文化的である為には、論理的に体系化された法が必要。しかし、人為的で純粋な法はなじみ難く、それらを形式的盲従する必要はないが尊重・考慮する必要がある(サヴィニー)
法の基盤となる慣習や文化的背景がどのように形成されるか。これが法の精緻化の出発点であり、法が文化的要素と密接に関わることを示す。
刑罰の目的とその多様な視点
刑罰の目的と範囲:犯罪抑圧と、それを除去する手段(プラトン)、教育的訓練の一方法(アリストテレス)、主として犯罪を抑止する為のもの(ベンサム)、必ずせねばならない道徳的贖罪(カント)、医学的処置の一方法(ロンブローゾ)。自然法の内容は移り変わり、統一的な永遠の法典化は不可能。
刑罰の多様な目的の歴史的視点、法が犯罪をどのように抑止し、または教育的手段として機能するか。これは、法の適用が文化的背景にどのように影響されるかを理解するための基礎。
行為の意図とその法的評価
通常の意識と理性による行為か、思慮に基づく行為とは言い得ないような別の力によるかの区別。例として、異常な精神状態によれば自然現象として見る。また、ある行為はその裏付けとなる意図により、法律上異なる判断を受ける。謀殺と故殺、放火と過失(ヴィノグラドフ)
行為の裏にある意図がどのように法的に評価されるか、異なる意図が法的責任にどのように影響するか。行為の評価における意図の重要性の明確化。
責任と内心的関係の評価
認識の無い過失のように、内心的な関係を持たない責任も存在、責任を構成するのはこの内心的関係の有無では無く、その内心的関係にある瑕疵。つまり責任は意思形成の瑕疵性、即ち適法に動機付け得たのに違法に動機づけたことに対する意思形成の瑕疵性(ヴェルツェル)
法的責任が内心的な関係の有無に基づくのではなく、その内心的関係の瑕疵によって構成されることの説明。行為者の意図や動機の評価が焦点、法がどのように意志形成を考慮するか。
故意とその認定基準
各則の個別条文に罰則規定のない限り、故意の構成要件の実現のみ主観的要素となり可罰的。多くは故意(意図・直接的・未必)の成否により、認識の有無で対比。要求される一定の意図、除外規定。故意は統一して認識(知的要素)・意欲(意的要素)とされ其々別形成。想定か強い意思か(ロクシン)
故意の認定が法的責任において重要であることを示し、その成否がどのように認識と意欲に基づいて判断されるかの説明。法的評価における故意の役割。
違法行為の評価基準
意志による制御不可能な身体の動静。違法評価の統一的な対象を明らかにする「基本要素」、構成要件に該当する不法な行為についての責任が問題とされる「結合要素」、違法評価対象外のものを予め排除し処罰範囲の外縁を限界づける「限界要素」の機能。行為が基準か判断要素の一部か(井田)
行為が違法かどうかを評価する際に用いられる基準、法がどのように違法行為を分類し、評価するか。法的責任の範囲を理解するための枠組み。
心神喪失と故意の認定
1.行為意志有、2.自制心有、3.意図せぬ薬物摂取等(原因行為)4.心神喪失、5.既遂(結果行為)。故意の認定に3の認識・予見性が必要。心神喪失は法律概念であり行為者による当て嵌めは不要、自己の行動を制御し得る能力を欠く状態で犯行に及ぶという認識で足りる。3と4の因果・責任連関(山口)
行為意志や心神喪失の状況における故意の認定、法が行為者の精神状態をどのように評価するか。法的責任の評価における精神状態の影響。
法の精緻化は、単なる法学的な問題にとどまらず、哲学、社会学、倫理学など、多岐にわたる学問分野と深く関わり合う。これらの視点が相互に関連し合いながら、法は文化的基盤から体系化され、個々の行為に対する責任評価へと発展していく。
言葉としてのプログラミングからみたスピノザ理解の神と人
人の営み:捉えたものをソースコード化した自然理解(言葉は神)、それがコンパイルされソフトとして機能する conatus(暗黙知化実践知化。刺激(入力)による言語によらない作動)、ハードとしての延長属性(実行する存在としての人)、実行を通じ観測したものの言語化(ソースコード)というフィードバックループでのソフトウェアの刷新の営み(神との合一)。
神の存在:ソースコード λόγος は非開示(不可知の神)で、その現象 φύσις を捉え言語化するのは人。そのものは捉えられず、再現できるものは限られる。
以上、言葉の捉え方とその体系化、人文科学との関わりと具体的な適用の基礎までを、一例として概観した。
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